蝉時雨 緑陰茶屋で わらび餅


I entered a tea cafe by the approach to the temple surrounded by greenery. The warabi-mochi eating while hearing the cicada chirps tastes the best.
季語てんこ盛りの俳句になった。蝉時雨、緑陰、わらび餅、いずれも夏の季語である。
俳句は原則一句に一季語である。5,7,5のたった17音で心象風景を表す俳句において、中心テーマは季語であって、それが2語以上だと焦点ボケになるからというのがその理由である。
 
     目には青葉 山ほととぎす はつ松魚(かつお)

山口素堂の有名な俳句であるが、青葉、山ほととぎす、はつ松魚、これも季語三語である。
この三語のどれを抜いても、これほど有名にはならなかったであろう。
型破れだから有名になったわけではなく、やはり春を代表する三語が重層的に重なったからこそ、春をいっそう際立たせているのだ。
芭蕉にも、

     一家(ひといえ)に 遊女も寝たり 萩と月
     蛤の ふたみにわかれ ゆく秋ぞ

という句があり、萩と月、蛤と秋、が季重ねになっている。しかし、これも季重ねの効果が利いている句として有名だ。
また、一茶の句に、

     猫の子が 手でおとすなり 耳に雪

というのがあるが、これは猫の子(春の季語)、雪(冬の季語)で季節違いの季語が使われていて、季違いといい、これも原則禁句である。

いずれにしろ、一定の原則があるからこそ、俳句には俳句の伝統美がある反面、あまり原則にこだわっては不自由で、言いたいことも言えない、表現したいことも表現できない、いわば芸術の大原則である自由が奪われるという結果になる。
これもまた、芭蕉の唱えた「不易流行」の真髄なのである。
今日はちょっと技術論のお堅い日記になってしまった。