折々の記

2002年8月

 最近とみに筆不精になってきた自分を感じる。もともとそれほどまめではなかったにしろ、これは心がなえてきている証拠だ。物に感じ、心驚かし、涙し、怒り、若いころはもっと心にも起伏があって、語らずにいられない何かがあったはずなのに。日常の生活、己の食わんがための生活ばかりに気をとられ、心の狭窄症を患い始めているような気がしてならない。
 台風一過、といってもはるか太平洋のかなたを通過して、ここら辺りはなんらそれらしい影響もなかったわけだが、気温もぐっと下がりあわただしく秋が近づいた。日盛りが過ぎると日の影が長くなり、軒先の鳳仙花にも早々とその影を落とし始めた。
 もの思わする秋、時には命をも落とすような酷暑をしのぎ、やっと生きながらえた安堵がもの思わするひと時を与えてくれるのだろう。夜ともなれば、都会の小さな公園にもこおろぎの声が聞こえる。この虫とても命強いものだけがこうしてラブコールを送ることができるのだ。その同じ公園にダンボール仕立てのねぐらが最近とみに増えてきた。事情はさまざまだろうが、この人たちも望んでここに住み着いたわけではないだろう。家族があるのかないのか、その日の糧をどうして得ているのか、それでも生きんがために雨露をしのぎ、かすかな明かりをねぐらにともし、明日への活力を養っているのだろう。人はなぜこうしてまでも生きなければならないのか、わが身に引き換え、心が締め付けれる思いがする。
 またその一方では、テレビや何やらで、豪華絢爛に身をまとい、人を威圧し、あたかも人の為だとかなんだとか声高に叫び、胡散臭く思えそうな「人生勝ち組」の人がやたら跋扈する。料理番組だかなんだか知らないが、能のないディレクターが仕組んだのだろう、浅ましくも群がる「タレント」たちに世界のグルメを大奮発。これもこの世の絵巻といってしまえばそれまでだが、あまりの格差と矛盾になえた心に、またかすかな怒りがこみ上げる。
 もうよそう。こおろぎの声を聞きながら、秋の夜長を心鎮めて眠りに付こう。

2002年1月

     白日依山尽
     黄河入海流
     欲窮千里目
     更上一層楼
 中国でのこと。訪ねた家に小学1年生がいた。かばんを見せてもらっていると、漢詩の教科書が出てきた。高校時代好きだった漢詩を懐かしみながら眺めていると、傍らの小学1年生が朗々と漢詩を読み出した。もちろん中国語でだ。
 「白日山に依りて尽き...」と我々は読んだものだが、中国語で聞く同じ詩がまるで生き物ののように流れてゆく。
 詠み終わったあと、内容を訊ねてみるとやはり小学1年生だ。そんなに意味がわかっているわけではない。
 王維とか李白とか、懐かしい詩人がいっぱい詰まっている。
 両親に聞いてみると、週に1回、漢詩朗読の時間があって、前の日に暗誦していくそうだ。
 これはいい習慣だと感心した。言葉の持つ音韻の美しさには、意味内容以上のものがある。その美しさを体感したものは、いつか誰よりもその意味内容も把握できるだろう。

 千里のかなたまで眺めつくしたく、もう一層、楼を登っていった。

黄河のそばにたたずみ、沈み行く太陽に悠久の思いをはせた。

2001年10月

 さん太先生、始めまして。僕の友達がさん太先生の教え子で、僕の悩みを聞いてぜひ先生に話してみたらということで、このホームページのアドレスを聞きお訪ねしました。 僕は県下の公立高校で数学を教えていますが、教えている内容はまったく中学校で教える内容です。高校1年生は2次関数から教えるのですが、その前にまず1次関数から教えます。ところがこの1次関数がわからない。y=3x+2のグラフが書けない生徒が半分近くいる。それを何とか教えようと中学校の教科書を友人から借りてきて、徹夜で教材を作って授業に臨んでも、わいわいがやがや、まったくこちらの言うことを聞こうともしない。腹に据えかねて叱ると、そのときだけは静かになるのですが、勉強なんて上の空、いったい何を考えてるのか、確かなことは、相変わらずこちらの授業のことはまったく気にも留めている様子はない。そして今は2学期、この生徒を相手に「高校数学」を教えていることの空しさばかりが募ります。先日も同僚の女の先生が授業中、生徒のあまりのふざけぶりにに泣き出したそうです。すると一部の生徒がそれを見ていっせいに笑い出したというから、もう尋常な感覚では理解できない状況が学校全体を支配している。 なんか愚痴ばかりになって取り留めのないことを書きましたが、またまとまりのあるご相談をしたいと思います。
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 同情します。運命論的になって申しわけありませんが、止めがたい時代の流れとしか言いようがありません。科学的な言い方をすれば、エントロピーの増大という自然界の大法則が私たちの世界をも支配している証です。
 日本の学校制度がしかれてからもう100年以上たちました。建物といっしょで、いろいろと内装外装とも改装を重ね、時には大改装もありましたが、建物の大枠は明治時代そのままです。そこを出入りする人たちの意識も代わり、それに応じて変えなきゃならない制度、内容、設備がもうその人たちの要求を満たさなくなってしまっている。簡単に言えばすべてがつまらなくなってしまっている。何もそこに(学校に)求めなくとも、外の世界が実に面白いし、わくわくさせられるものがいっぱいある。日本中の学校のほとんどが、先生という人たちと生徒という人たちの、「そこに行かなきゃならないから」行っているだけの、我慢道場になってしまっている。
 パスカル君はどうですか。そう思うことはありませんか。1時間、1時間のお勉強はどうですか。先生と生徒がひたすら1時間の経過を凌いでいる。そこで得られるものは「忍耐力」だけにはなってはいませんか。
 残念ながら、世の中、革命でも起こさない限り、この退廃化は止めようがありません。明治政府を打ち立てた青年たち(伊藤博文を始め、いわゆる明治の元勲たちは、そのほとんどが20代からせいぜい40代ぐらいでした)と同じかそれ以上のパッションがない限り、この堅牢な、それなりに日本の近代化の礎になった学校制度を解体し、われわれなりの新しい学校制度を立て直すことは不可能でしょうから。
 でも、一人の教師として、今どうしなきゃならないか、そういうことでお訪ねいただいたんでしょうから、それにお応えしなきゃならないんでしょうが、またの機会にさせてください。

2001年8月

 3年前、初めて中国を旅した時のことです。済南から北京に向かう車中で、急におなかが痛くなりだし、熱のせいか悪寒がし始めました。北京についたときにはもうかなり熱があり、同道してくれた友人(中国人)の勧めで、早速病院に駆け込みました。老若男女、いっぱいの患者が列をつくっていましたが、僕が断るのも聞かず友人が強引に前のほうに割り込ませてくれ、診察室に入ったのですが、外国人ということですぐ別の迎賓館のような建物に連れて行かれました。さっきとはまるであたりの様子が違い、人影のまったくない天井の高い深閑とした部屋で待っていると、40才前後の女性医師と若いきりりとした看護婦が入って来ました。女性医師はほとんど話すこともなく、注射を何本か打つと、若い看護婦にてきぱきと指示を出し、程なく部屋を出て行きました。看護婦は友人と何か話しながら、僕をベッドに寝かせ、点滴の準備をしていたことまでは覚えています。何時間たったのでしょう。目を覚ますと、友人と看護婦がすぐそばにいてくれ、「よかった、よかった」と、わがことのように喜んでくれたことが、強く印象に残っています。僕も少し元気になったのか、看護婦にもいろいろ尋ね、きつい食中毒だったこと、もう少しで手遅れになりかけていたことなどを説明してくれました。看護婦にも厚くお礼を言い、雑談をしているうち、看護婦が突然きつい顔つきになって、「私は日本人が大嫌いだ。恨んでいる。私のおじいさんを殺した。父はそのため、学校にも行けず、つらい少年時代を送った。そして貧しい中、私を一生懸命育ててくれた。おじいさんがかわいそうだ。父がかわいそうだ。みんな日本人のせいだ。」僕の友人は逐一通訳してくれ、彼女のおじいさんが南京大虐殺の被害者であること、それだけでなく、親類の何人かも日本人に殺されたことなどを伝えてくれました。こういう中国人がたくさんいることは聞かされていましたが、こんなに身近に、しかも誠心誠意僕の世話をしてくれたこの看護婦にも、そんな歴史があることに、身震いしたことを今でも鮮烈に思い出します。
首相の靖国参拝問題には、立場立場にいろんな思いがあり、そのどれもが真実で、決してないがしろにしていいものではありません。今朝(8月9日)の毎日新聞による首相の思いはよく理解できます。「聞け、わだつみの声」は、僕も幾度涙し読んだことか。しかし、僕はこの中国の友人(看護婦)に代わって、今回の靖国参拝は、ぜひ見送っていただきたい、という思いで、このメールを送ります。僕たち日本人には首相の思いはもう十分に理解できたし、ここで靖国参拝を断念なさったとて、誰も中国や韓国の主張に屈したとか、首相が前言を翻したなどとは決して思わないでしょう。首相の執務室で、その日、靖国の英霊たちにも、アジアの被害者たちにも、日本人を代表して深々と頭をたれてくれる姿を映像で伝えてください。僕たちもその映像を見ながら首相と一緒に心からの参拝をしたいと望んでいます。

2000年11月

 今、生徒たちはもうすっかり怒りも抑え、勉強に、携帯に、ゲームにと、きわめて個人的な殻に再び閉じこもっていってしまいました。ありていに申せば、加藤氏の行動は、こうした若者に、せっかく芽生えた社会(政治)への関心に冷や水という社会的洗礼を浴びせたわけです。
 理屈や理論、戦術・戦略といった、後で何とでも裏打ちできるものにではなく、若者は、非常に単純に、今目の前に現れた現象、行動、物にしか反応しません。肉体的にも精神的にも、いい意味では成熟した、その反面極めて鈍化した大人と違って、その反応は非常に動物的で本能的なものであるがゆえに、時には的確にその本質を見抜く力を持っています。
 一見理解しがたい最近の若者の犯罪、社会現象は、これからを生きていこうとする社会の底流に、言い知れぬ不安を感じ取るこうした若者の持つ本質と、それを感知し得ない、価値観の多様化というカオスの中に自ら埋没してしまって浮かれてしまっている大人たちとの相克なのです。  今回の加藤氏の政治行動は、若者にも非常にわかりやすく、彼らに「アンガージュマン」の機会を与えるには絶好のチャンスであったにもかかわらず、またもや「アパシー」に追いやったといわざるを得ません。

2000年10月

最近しばしば幼児虐待の事件が報じられ、どうして罪もない子供に、ましてやかわいい我が子にそんな残虐なことができるのか、多くの人々に理解しがたいこととして受け止められています。
実はこれはなかなか根深い問題で、何も今に始まったわけではなく、昔からさまざまな事例が報告されていますし、西洋社会にももっと残酷な幼児虐待の事例が記録に残っています。
 文学の世界でも有名なのは、19世紀のロシア文学の世界的巨匠といわれているドストエフスキーの作品である「カラマーゾフの兄弟」の中で、兄のイワンが弟の修道僧アリョーシャに、幼児虐待のさまざまな事例を引き合いに出して、人間のなかに潜む不条理を論じている場面があります。



 「いいかい、もう一度はっきり断言しておくが、人間の多くのものは一種独特な素質を備えているものなんだ。―― それは幼児虐待の嗜好だよ、しかも相手は幼児に限るんだ...まさに子供たちのかよわさが迫害者の心をそそり立てるのさ。逃げ場もなく、頼るべき人もいない子供たちの天使のような信じやすい心、これが迫害者の忌まわしい血を燃え上がらせるんだ。」

 こうした人間の持つ嗜虐性は、幼児に限らず、いじめの問題にも、人種差別の問題にも、あらゆる場面で発揮されます。最近日本だけに限らず、世界のあらゆる場所で繰り返されるこうした残虐行為は、人間の根深いところに内在する本性かもしれません。ただ今日的な問題としては、そうした残虐行為が、一瞬にして全世界の知るところとなり、誰の目の前にもまるで現場に居合わせたかのように露呈されることです。こうした環境に生まれ育つ現代人が、この21世紀的環境をどのように受け止め、どのように対処していくのか、も一度イワンとアリョーシャの会話に耳を傾け、我々自身ももう一度問い詰めてみなければ、明日もまた悪しき歴史を繰り返すことにはならないか、一方では歴史上例を見ない明るい未来を予見できる21世紀に、暗雲がよぎる気配を感じるさん太です。

2000年9月

 35才と聞いて本当にびっくりしました。とすれば、17年ぶりの再会ということになりますね。もうそんなに歳月が流れたんですか。でも不思議ですね、お会いしお話ししたとたん、またあのころの楽しい教室での語らいの延長のように思えたんですものね。その後の皆さんの17年間はどのようであったかもちろん知る由もないわけですが、就職、恋愛、結婚等など、人生において最も激動の時期を乗り切り、今こうしてお子さんもおられる方、キャリアウーマンばりばりの方なんですから、しっかり皆さんの足場を持っておられ、お幸せそうで、心から喝采をお送りする次第です。その一方自己を振り返って、17年間という歳月がかくもあっけなく過ぎ去るものかと、なにかそら恐ろしい、無念さというか複雑な気分にもなりました。
 またいつお会いできるか知れませんが、どうか皆さん、これからももっともっとお幸せに、そして私たちの友情ををどうかお忘れなく。

1999年1月

 いよいよ1900年代最後の年であり同時に1000年代最後の年だ。西暦1000年と言えば、藤原道長が権勢をほしいままにしていくころで、清少納言の『枕草子』が出たころだから、それから1000年と言えばずいぶん長い気もする。
 1999年は、今から何年前だったか、『ノストラダムスの大予言』と言う本がベストセラーになって、地球上でまさしく世紀末的大異変が起こるということで話題になったことがある。いま日本の置かれている状況、また世界情勢を眺めていると、この大予言もにわかに現実味を帯びてくるから怖い。経済的不況は全世界を覆い、中東、東アジア、アフリカ、その他でまたいつ戦火が噴出し、それをきっかけに世界的大混乱が再来するかもすか知れない情勢だ。


 映画『アルマゲドン』は天体の小宇宙が地球に激突し、地球上の全生物が壊滅するかもしれない、それを回避するために石油掘削の荒くれ男たちが小天体にロケットで乗り込んで行ってその小天体を爆破するという、これも地球の終末を描いたものだが、これはあくまでも映画の世界で、見ているときははらはらドキドキだが、終われば「ああ、これはフィクションの世界だ」と安心できる。しかし、現実の世界は逃げも隠れもできない。われわれ一人一人がもっともっとグローバルな視野に立って物事を考え、より住みやすく希望の持てる地球世界をどうすれば築けるか考えなければ、個人の幸福なんて「あっ」という間に吹っ飛んでしまうのが21世紀の世界だろう。
 いずれにしろ西暦2000年を目前にして物質環境も精神環境も大きく変化しようとしている。

1998年11月

 先日卒業生のK君に会った。今年の4月国立の看護学校に入学し理学療法士を目指している。彼とは中学生のときからの付き合いだ。I高校の理数科に優秀な成績で入り、高校では野球部で活躍しながら、時にはユニホームのまま勉強にやってくるそんな生徒だった。大学は国立の「帯広畜産大学」と「甲南大学」に合格したが、親の反対もあって「甲南大学」の化学科に進んだ。卒業後製薬会社に就職し、病院回りをしているうちに「理学療法士」の献身的な仕事振りに接し心が動いた。これこそ自分の仕事だと3年勤めた会社を退職、再び当予備校に戻ってきて猛勉強、そして今年無事念願を果たしたという次第だ。

感心させられることはいろいろあるが、当予備校の授業料、看護学校の入学資金、すべてを働いているうちに貯金し、親には一切負担をかけなかったという点だ。当たり前といえば当たり前だが、いまどき珍しい青年だ。
 腹が立ったのは、こんな青年からも、すべり止めのために受けはしたが入学もしないのに130万円もふんだくる私立の学校だ。何がしかのペナルティはやむをえないが、130万円はあんまりだ。  それはさておき、入学してびっくりしたことは、彼は26歳だが、クラスで彼はちょうど真中ぐらいの年齢だったということだそうだ。現役の18、9の生徒から40過ぎのおっちゃんまで仲良く机を並べて勉強する光景は、ほほえましくも真剣な勉強の様子がうかがえる。
 当予備校にも最近こうした、いったん社会に出てもう一度勉強し直したいという生徒が増えてきている。不況の時代の反映と言うこともあろうが、きっとそれ以上にみんな生き甲斐を求めているのだ。 現役生の諸君はもっとガンバラなきゃあ。

1998年10月

 コッポラ監督の「プライベート・ライアン」と今村昌平監督の「カンゾー先生」を立て続けに見た。どちらも日米を代表する映画監督だ。といっても、コッポラが世界に知られた監督で、今村は、カンヌ映画祭で受賞したとはいえ、恐らく世界には映画通にしか知られていない監督だろう。
 この二つの映画を見てつくづく思うことは、まずスケールの大きさがまったく違うということだ。コッポラの映画はいつもとてつもない制作費をかけることで知られているが、今回も例に漏れずだ。今村の映画はそれなりに面白いことは面白いが、 日本の映画がずっとそうであるように、制作費用もチマチマ、内容もチマチマ。
 小説の世界もそうだが、世界の文豪は雄大なドラマとぞっとするような人間の深淵を描いているものが多い。それに比べると、日本の文豪は、「私小説」という言葉が示す通り、身辺のチマチマしたことを神経質に描いている作品が多い。
 「タイタニック」を作れるような映画監督は、今後も日本に出るのだろうか。

1998年9月

 長年塾の教師をしていると、今学校でどんな教育をしているか、間接的に窺い知る事ができる。中でも気になって仕方ないことは、生徒たちにもしばしば指摘することなんだが、英語とか国語の読み(リーディング)が非常にお粗末なことだ。高校2年や3年になっても、これは及第点だ、と言える生徒にはめったに出合ったことがない。
 国語の文章を読ませても小さな声でモゴモゴ読み、地の文であろうがト書きであろうがお構いなし、まあこれでは文章が理解できないであろうし、まず面白くない。
 英語にいたっては、基本単語からしてしどろもどろ、正しい発音はまるでできない。日本語で言うところの「弁慶読み」はいたるところ。中学1年のしょっぱなで習うはずの文の抑揚はまるでなし。これでは英語が面白くなくなるのは当たり前。10人が10人ともdrinkは「ドリンク」、「think(思う)」は「sink(しずむ)」、「Do you know of him? (↓)」、等など数え上げたら切りがない。
 少し前の話になるが、高校1年生の女の子が当予備校に入ってきた。英語の本を読ませたところどうも外国にいたような気配だ。他の生徒のようにたどたどしい読み方をしようと努力していることがありありだ。しかし、発音、抑揚は隠せない。後で残して事情を聞いてみると、やはり小学校時代アメリカで過ごし、中学校のときに日本に帰ってきたそうだ。そして一番苦痛だったのが英語の時間。彼女が先生から当てられてリーディングし始めると、あちらでクスクス、こちらでクスクス。それ以来、何とかみんなのへたくそなリーディングを真似ようと3年間努力しつづけたそうだ。
 問題点は2つ。一つは、生徒たちの受け取り方。「まとも」なものを「まとも」なものとして受け取れないそれまでの育てられ方(親の責任)と教育のされ方(社会、学校、教師の責任)。もう一つは、これはもっと重要なことだが、その場の教師の指導性。彼女を生かすも殺すも教師の持っていき方しだいだったのだ。
 この例に限らず、今の世の中、「援助交際」や「わいろ」には寛容で、こつこつと生真面目に生きる人間には「これでもか、これでもか」といじめ抜く風潮が支配している。

1998年8月

 何か明るい話題はないものか、と探さねばならないほど世の中 気が重くなるこばかりだ。みんながみんなそうばかりではないだろうが、気が重い人たちが増えているのは確かだろう。ひとつ童心に返って…
 何年ぶりだろう、いや何十年ぶりになるのだろう、この休みを利用して「東京ディズニーランド」に行って来た。前に行ったのは出来て間のないころだから、ずいぶん変わっているのだろうと予想して行ったんだが昔のままだ。いやいや決して昔のままでないはず。変わっていないと感じたのは、ここだけは本当の遊園地だと昔も思ったし今回も思った点だろう。 ディズニーが亡くなってもうかなりになるが,彼の思想がいまだに息づいているのはうれしい限りだ。ここにくると邪気が離れてまったくの童心に帰れる。いい年をしたおっちゃんやおばちゃんたちまでまるでディズニーの小人たちだ。帽子いっぱいにバッジをつけたおっちゃんがにこっと笑ってくれた。思わずこちらもにこっと笑い返したが、あれは何だろう。後で思い返してまたクスクスひとり笑いしてしまった。
 ウオーターシュートでふっ飛ばした帽子がきのう宅急便で送り返されてきた。

1998年7月

 学生時代を振り返ってみるとやはり「夏休み」は楽しい思い出だ。2ヶ月も休めるなんてことはもうその後にはない。小学時代の夏休み、中学時代の夏休み、そして高校時代の夏休み、それぞれの時代にそれぞれの夏休みがあってみんな違っていた。
 不思議なのは中学時代の夏休みだ。 どういうわけかこの時代の夏休みを思い出そうとしても思い出す事がない。みんながそうなのか僕だけがそうなのか、だから一概には言えないわけだが、どうもこの中学時代というのが問題ありという気がしてならない。個人的には肉体的にも精神的にも子供から大人へ脱皮する時期だし、社会的には中学校というのが小学校とはちょっと違っていて、学習の内容、制度、先生との関係その他多くの点で内の世界から外の世界に比重が移っていく、そんな過渡期が中学時代だ。内の世界は自己中心的な考え方でもたいして支障はないが、外の世界はそういうわけにはいかない。ある程度自己を抑制してでも外の世界に自己を順応させなければいろいろと支障が出る。言ってみれば自己が自己として他者と共存できるかできないか、そんな戦いがこの時期にあるのだろう。そのエネルギーが、誰も気づいていないが、きっと相当なものに違いない。だから中学時代は思い出が思い出として残らない人生のトンネルの時代なのだ。トンネルを抜けた世界が,みなそれぞれがこれから生きる世界なのだ。

1998年6月

 先日インドが24年振りに核実験を行うと数日おいて同じようにパキスタンが核実験を行った。同じ民族でありながら、ヒンズー教とイスラム教という宗教上の違いから別れた国がお互いに反目し、相手を威嚇するために核競争をしている。相手が使用しない限りこちらから仕掛けることはないと双方の指導者たちは言うが、歴史的に見ても最高権力者の言葉ほど信用できないものはない。ヒトラーのような人間が再び現れないという保証はどこにあるのか。
 今世界を見渡しても小ヒトラーのような人物はあちらこちらにいる。そういう人物が核のボタンを握っているとしたらいつなんどき世界を破滅に陥れられることになるかもしれない。


 心配なのはそれだけではない。このことが報道されてからの日本政府、及び世論の反応の仕方だが、日本政府はどれだけ本心かわからない程度の反発しかしないし、世論にいたってはまったく無反応といったほうが近い状況だ。不況、不況で、国中上げてそんなことにかまっていられるかといった態度だ。
 「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」といった習性は特に日本人には顕著だが、世界的に見てもどうもそのような傾向に向かいつつあるような気がして、歴史を繰り返してくれなければいいがな、と祈らずにはいられない。

1998年5月

 仕事の関係で多くの外国人留学生と接する機会がある。リッチで日本の生活をエンジョイしている学生もいるが多くの留学生はきつい労働条件のもとでアルバイトをしながら勉学に取り組んでいる。まじめで生活力に富み、そして何よりも将来に何か希望を持っている。
 最近の日本の若者とこのあたりが根本的に違う。昔の日本の学生も様々な夢を持って勉学にいそしんだものだが、最近の若者は遠い将来には思いも及ばない。ここ1,2週間のことぐらいを考えるので精一杯だ。責められるのは一人若者ばかりではない。こんな若者にいったい誰がしたのだろうか。
 最近のアンケート調査でも「尊敬できる人は?」と聞かれて「両親」と答える若者がほとんどだ。親からすればありがたいような、こそぼったいような気がするが、さてこれで当たり前なのだろうかと考えさせられる。尊敬の対象は親よりももっと立派な人であってほしいような気もする。
 時間的にも空間的にも観念的にも、どんどんちっぽけな若者が増加してきているが、日本社会の縮図を見る思いがするのは私だけだろうか。

1998年3月

 3月の声を聞けば春。梅の花は咲き終え、レンギョウ、ユキヤナギが生け垣にたわんでいる。下旬にもなればぼつぼつ桜情報も飛び込んでくる。毎年繰り返す自然の営みに飽きもせず関心を示すのはもう一部の人になってしまったのか。都会暮らしの人にはもうそれどころではなくなったのかも知れない。
 新聞、テレビを賑わしているのは相も変わらず殺伐とした殺傷事件や、経済関係の破廉恥事件。いつまで続くのか底知れない不況感。世の中もっともっと明るくならないものか。自然を忘れ、自然を侮り、自然を陵辱する現代人は自ら墓穴を掘ってばかりいるような気がしてならない。
 「制度疲労」どころかもう日本は「社会疲労」の域に達している。経済、社会、教育、人の意識、すべてが惰性に流れ、希望もなくたゆたうままに、こうしてこの国も滅びていくのかも知れない。歴史を見ればなるほど未来永劫に栄えた国はひとつとしてない。日本もぼつぼつ下り坂にさしかかっているのか、それとも上昇途上の一服なのか。そのただ中にある我々には分かるまい。同情を禁じ得ないのはこうした時代をこれから生きていかねばならない若い人たちだ。難しい時代だ。そのせいかどの若者を見ても腹の底からわき起こるエネルギーが感じられない。萌えいづる春は今年もやってきたというのに。

1998年2月

 経済がおかしい。気候がおかしい。先月、先々月は「経済」「気候」についてお話ししたが、それだけではない。人がおかしくなっている。子供も大人も。
 新聞に連日載っている事件はまったく殺伐としている。ずるい人たちでいっぱいだ。もっと明るくて、心温まる話題はないものかと新聞のあっちこっちをめくってもそういう記事はまあない。いったい世の中どうなってしまったのか。
 ひとつに、人がみんなあらゆる事に自信をなくしてしまっている。確信を持って人にしゃべれない。子供にしゃべれない。みんなが流されるままに、それでいてさほど飢えているでもなく、特に何かに困っているでもなく、過去もなく未来もないそんな生き方が蔓延しているような気がする。
 「日本に未来があるのか」という雑誌の見出しがあったが、まったくその通りだ。社会が熟すとどの社会もこうなっていくのか、それとも日本独特の現象なのか。

1998年1月

 経済がおかしいだけではない。最近の気候はやっぱり変だ。暖かい。「地球温暖化」が指摘されて久しいが、最近の正月で「寒い!」と感じるような正月はもうなくなった。そのせいか雪景色を描いた年賀状も見受けなくなったし、こたつに入ってミカンを食べながらテレビを見たり、花札をやったり、麻雀をしたりといった正月風景も見られなくなった。生活する分には寒いよりも暖かい方がいいに決まっているが、手放しで喜んではいられない。
 この間も電車に乗っていると、「地球温暖化の元凶CO2を減らそう!」と書いたゼッケンを胸と背中に付けた女性が乗ってきた。乗客のみんなの様子を見ていると、まったく無関心な人、見て見ぬ振りをする人、怪訝そうに見つめている人それぞれ様々だが、どれだけこの女性が訴えようとしていることにみんなの理解があるだろうか。まったく頭の下がる思いだが、みんながこういう意識を持たなければ地球温暖化は防ぎきれないだろう。
 快適な生活の裏側にはほとんどの場合こうしたつけが回ってくるんだということに気付くことは大切だ。「今さえ良ければ」とか「自分さえ良ければ」と言う意識がなくならない限り、地球はますます住み難い惑星になっていく。
 新年に当たり、もっともっとグローバルな意識を持てるようになりたいものだ。

1997年12月

 相変わらず年賀状が売れているらしい。あまり年賀状を出したこともないし、それ故あまりいただくこともないせいか、それほど関心はないのだが、新聞のアンケート調査がおもしろい。詳しくは読まなかったが、「年賀状をワープロで書きますか」という問いには、6割から7割の人が「YES」と答えたのに、「ワープロと手書きの年賀状ではどちらがもらってうれしいですか」という問いには、やはり6割から7割の人が「手書き」と答えている。出すときはワープロ、貰うときは手書きというわけだ。自分勝手だといえば自分勝手だが、実に正直に答えている。ワープロで出す人も皆が皆手抜きをするためにそうするわけではなく、最近の実に機能の充実したワープロに魅せられて、手書きよりももっと多くの時間と労力をさいた、いわゆる凝った年賀状というのもある。 ただ年賀状も義理では出したくないものだ。

1997年11月

 日本の経済がおかしい。日本の経済だけではない、世界の経済がおかしい。歴史を知っている人ならば、1929年の世界大恐慌を彷彿とさせるに違いない。今から70年ほど昔の出来事だから、そのころの様子を体験した人はもう少なくなっている。そのときは、やがて第2次世界大戦に突入していく原因にもなったわけだから、歴史は繰り返すで、第3次世界大戦に突入していかないとも限らない。ただ当時とは、世界の経済基盤が根本的に異なっているし、何よりも情報の量、速度、確度といったコミュニケーションの質が全く違っている。世界の隅々に至るまでどんなことが生起しているか瞬時にキャッチできる時代だ。経済にしろ、世界の不穏な動きにしろ、みんなが知恵を出し合って何とか手当していくことを期待したい。いずれにしろ、20世紀は歴史上まれにみる大変化の時代と位置づけて良いだろう。21世紀を前にしてこの変化をどう受け止め、どう対応して行くべきか、今人類は大きな岐路に立たされている。

1997年8月

 日本には3,000mを超える山が21峰ある。山歩きが好きで、おもに夏休みを利用してあちらこちらの山を歩いているうちに、その21峰のうち残すところ「木曽の御嶽山」たった1峰になってしまった。富士山と同じで独立峰だ。信仰の山でもあり、近くには濁河温泉という名泉があるので、ゆっくりと登りたいと思っている。

 それにしても昨今の登山ブームも凄まじいものだ。一昨年に登った南アルプスの農鳥岳では、もうちょっとのところで山小屋に泊まれない羽目に落ちるところだった。収容能力300人ぐらいの山小屋だが、山の主人の話では、その日は300人を遙かに越えているとのことだった。案の定背中を横に向けてしか寝られない。胸の幅で皆が折り重なって寝るという格好だ。それでもまだ良い方で、後からやってきた登山客はとうとう小屋に入れなくて、青いシートのにわかづくりのテント泊まりだ。夜は気温5度ぐらいだからどうして寝たんだろうか。

1997年7月

 須磨の「淳くん殺害事件」は、できたら思い出したくないし、蒸し返したくない事件だが、決して他人事でなく、みんなも考えてみなければならない多くの要因を含んでいる。一番みんなが知りたいと思っていることは、殺害の動機や殺害方法などではなく、どうしてあのような中学生がでてきたのか、家庭環境はどうなのか、両親はどんな人で、どんな育て方をしたのか、といったことではないだろうか。学校にも問題はあったかもしれないし、この社会の奥底にあのような中学生を生み出す病理が潜んでいるのかもしれないが、やはり直接的には、あの中学生本人の精神的・肉体的要因であり、その残虐性を阻止できなかった家庭そして両親のそだて方に原因があるだろう。
 想像の域を脱し得ないが、おそらく両親はこれまでのいろんな場面で、あの中学生のそういった面を感じ取っていたのではあるまいか。もしないとしたら、そのこと自体がまた大きな原因にもなろうし、そうではないはずだ。この両親に限らず、多くの親たちが、自分の子供にさへストレートに物事を言わなくなってきている。こんなことを言ったら馬鹿にされないかとか、時代遅れとは思われないだろうかとか、どちらかといえば子供のご機嫌とりばかりにあくせくしている。気に入らないこと、一言いっておかなければならないことがあっても言わない。悪いと感じることがあっても、良いように良いように考えようとする。もちろんそれも大切なことだが、悪いことは悪いとして、怒鳴りつけなければならないことは、子供にはいっぱいあるんだ。
 世の中ご都合主義が蔓延しているが、せめて自分の子供だけには、腹の底から怒鳴りつけてやることも大切だ。後からまたおもいっきり抱きしめてやればいい。

1997年5月

 どうも最近の子は勉強に力が入らないらしい。
 「先生、方程式なんかやって何か役に立つの?」「先生、何で高校(大学)行かなあかんの?」といったたぐいの質問をする子がよくいる。昔と違って今の子は、テレビをはじめとする情報媒体を通して、とてつもなく広い世界に接している。そこで繰り広げられる世界は、親が言ったり、先生が言ったりする世界とは必ずしも一致しないばかりか、時にはまるっきり正反対の価値観がまかり通る世界もある。
 個人的な名前を出して申し訳ないが、ジミー大西君や間寛平君のように、もしこの人たちが学校というところに行っていたとしたら、いったい学校ってなんだ、と思えるほどの「無知さ加減」を売り物にして人気を得ているタレントがいっぱいいる。このタレントたちは、笑いものにされて人の慰めになっているから、それなりに社会的な役割を果たしているんだろうが、一流企業のトップたちが逮捕されたり、高級官僚をはじめとする公務員たちのハゲタカのような「たかり」が報道されたりすると、これは困ったものだ。「真」と「偽」、「善」と「悪」の見分けがつかなくなってくる。子供たちだけではない、親も先生も、本来説得力を持たなければならない大人たち自身の判断力、決断力が、昔に比べて非常に脆弱になってしまっている。
 社会の変化に押し流されない、判断力と決断力を、お互い養いたいものだ。

1997年4月

 春は花、花は桜、と日本人には固定したイメージがある。なるほど桜は美しい。  3年生の諸君にはEdward Fowler氏の「SAKURA」を紹介したんだが、実によく桜と日本人の関わり方とその特性をとらえている。桜の花一つを見ると、一人の日本人と同じように目立たなくて地味でおとなしい。しかし、咲き乱れた桜はあたりの景観を圧倒し、群をなした日本人は世界を圧倒する。


  一方、ぱっと咲きばっと散る桜にも、人の世のはかなさと無常を重ね合わせ、いっそうの共感を覚える。これこそが日本人の美学であり「桜」への思い入れだ、と。
 先日も京都二条城の「しだれ桜」を見に行ったが、まだつぼみが少し堅くて、嵯峨野に足を延ばした。ここも辺り一面桜が咲き乱れていたが、「二尊院」の門をくぐるとまた趣をことにする春があった。お堂の左側に二本の「花水木」が楚々として立っている。一方は淡い桃色でもう片方は白い「花水木」だ。新緑に映えてえもいわれぬたたずまいだ。桜のようにあたりを圧倒するでなく、それでいて気を引かずにはおかない美しさがある。実はこの「花水木」、花のように見えるのは花ではなく葉が変形したもので、花は本当に小さくてよく注意して見ないと全く気がつかない。
 ゴールデン・ウイークが過ぎるともう夏だ。この辺で十分英気を養って、あつい暑い夏を乗り切ろう。

1997年2月

 「おかめはちもく」という言葉がある。「岡目八目」とか「傍目八目」と書くわけだが、他人の囲碁を傍らで見ていると、対局者よりは勝敗に冷静であるから、八目優勢な手が読めるということである。転じて、局外にあって見ていると、物事の是非、利・不利が明らかにわかること、という意味で使われる。
 さしづめ、諸君は対局者であり、先生は「岡目」というところだろう。ただ、囲碁の「岡目」は口出ししてはいけないが、先生は口出ししなければいけない。
 Aさんは入試も近づいてきて、熱心に英語の「ここがポイント」的な勉強ばかりしている。良くない例だ。なにもAさんばかりではない、試験が近づけば近づくほど、目先点が取れそうな勉強ばかりして、、英語なら英文を十分読み込むといった最も基本的で最も大切な勉強はまどろっかしくなってくる。麻薬に取り付かれたみたいなものだ。
 こんな時こそ、もう一度学校の教科書を通読していく方が、読解力は付くし、単語・熟語も思い出せてよっぽど効果的なのだが、そうアドバイスしてももう聴く耳を持たない。Aさんはやはりダメだった。
 「少しの事にも、先達はあらまほしきこと」とは兼好法師の言葉だが、世の中、みんな賢くなりすぎて、なかなか先達に耳を傾けなくなってきた。

1996年12月

 全国を震撼させるような事件はありませんでしたが、バブルの崩壊がもたらした影響が、経済、社会に様々な形で吹き出しているといえるような1996年でした。
 経済も先行き明るいのか暗いのか、いまだ混沌としていますが、もっと深刻なのは、やはり人心の荒廃ではないでしょうか。住専問題に現れた人間の強欲、高級官僚の汚職、地方自治体職員の公費乱用、大人の世界にまで蔓延したあいも変わらぬ「いじめ」、そしてもっと我々の身近なところでも「ああ、人はこんなのではなかったのに」と胸の痛くなるような小さな出来事。
 しかし、1997年は、どうか、明るく正しく希望の持てる年になりますようにと祈ると同時に、同時代に生きる我々にも心が汚染されている部分がないだろうか、もう一度問い直して、みんなでもっと安心して住めるような世の中にするべく、一人一人の持ち場で、少しでも善いことを実行していきたいものです。

1997年10月

 この時期になるといつも「小論文」をみてほしいという諸君が現れる。最近、推薦入試に「小論文」を課す大学が増えてきたからだ。
 さて、そういう諸君にとりあえず「小論文」を書かせてみたら、まず、「論文」の体裁を整えているものが皆無だ。小学生や中学生の読書感想文の域をでていないどころか、文章自体が全く稚拙で誤りだらけだ。おそらくこれまでに文章をつづるという訓練をまともに受けていないのだろう。そして、、自然に身に付く「いい文章」というものにあまり接したことがないのだろう。
 これは、こうした諸君の怠慢だけではなく、学校そして指導者の責任だ。おしやべりは非常に上手で、そつなく表現できるが、じっくりと物事を考え、それを言葉に表していくということが全く不得手な諸君があまりにも多すぎる。
 多くの時間テレビを見て過ごし、離れた人とのコミュニケーションは電話ですべてことをすませる時代が産み出した、新人類の文化だ。
 下級生諸君も、「小論文」対策を早くから立てておかないと、せっかくのチャンスを逃すことになりますぞ。

1997年9月

 大阪に安藤忠雄という男がいる。高校を出てプロボクサーになる。やがてこれには見切りをつけ、小さいときからの夢である建築家を目指すことになる。といってもどうして建築家になるのかもわからないまま、とにかく世界の建造物をみて歩こうと、世界放浪の旅にでる。夢いっぱいに帰ってきた安藤は、独学で設計を修得し、町の建築屋さんになる。長屋の建築を手がかりに、そのユニークな発想と奇抜ではあるがどこか人間くさい安藤の建造物は、やがて多くの建築家の目に留まるようになる。そし今、安藤は世界の名だたる建築コンクールを総なめにし、建築家「アンドウ」は世界の建築家の頂点に立つ。
 実に痛快な話ではないか。その安藤さんが、今度、東大の建築学科の教授に就任することになったというから、これまたびっくり。大学も出ていない、元プロボクサーが、天下の東大の先生になるというんだから、もう痛快どころではない。
 東大やその他一流大学出の大会社の幹部が、両側を検察官に挟まれて、中にはふんぞり返って連行されていく写真が、毎日のように掲載されているこんにち、胸のつかえが一気に取れる思いだ。実にすがすがしい。

1996年3月

 『百武彗星』が話題になっています。鹿児島の百武さんが昨年の暮れ、農道で双眼鏡を覗いていて偶然発見したそうです。有名な彗星にハレー彗星がありますが、これはおよそ76年に1回地球に接近しますから、一生に1回は見られるわけですが、『百武彗星』は1万〜2万年に1回地球に接近するそうで、 宇宙規模の話になると全く気の遠くなるようなことばかりです。しかし、ともすれば日常生活に埋没してしまって窮屈な日々を送っている私たちも、たまにはこういう話頴にも関心を向け、今夜あたり『百武彗星』を探すのも悪くはないのではないでしょうか。
 すべての生き物が再生する春です。諸君も奮起一点がんばって下さい。

1996年1月

 W君が訪ねてきた。阪大の大学院に進学したいのでどのような準備をすればいいのか、という相談だ。びっくりした。まさかW君が阪大の大学院に進学するなんて思いも寄らないことだったからだ。武庫工業高校から開校以来初めて大阪電気通信大学に合格した努力家だったから、うなずけないこともなかったが、よほど大学でも勉強したんだろう。そういえばF君もそうだった。W君とまったく同じコースを経て、今防衛庁に勤めている。W君の先輩でもあるのでさっそくF君に連格を取り、W君を紹介して相談に乗ってもらうことにした。
 こういう諸君が訪ねてきてくれたら実にうれしい。きのうよりも今日。今日よりもあす。確実にステップを踏んでいく若者の足音が聞こえる。
 日も長くなって、教室から見える夕日がひときわ美しく見えたのが印象的だった.

1995年11月

 駅への道すがら、もうできていないかなと道端の薮の中を見上げると、小さな小さな瓜そっくりな実が三つ二つと、椿につるを巻きつけて垂れ下がっています。まだ青くて白い筋のつき具合が瓜そっくりで、これから日一日熟していくと、11月の下旬ごろには、赤い熟し柿のような色に色づきます。烏とどんな関係があるのか知りませんが「烏瓜」という名の植物で、昔から、女性が肌のあれ止めに化粧水として使ったり、お乳の出をよくするために乳房に塗ったりしたそうです。
 学校の行き帰り、季節の変化を観察してみて下さい。心に少し変化が起こります。変わりのない日常生活に心のさざ波が起こります。

1995年9月

 関西のほとんどの私立大学から『大学案内』と『入試ガイド』が送られてきました。その豪華なことといったら、どの大学の『案内書』も、もう目を見張るばかりです。バブル時代のゴルフかリゾートマンションの「会員募集案内」と見紛うような豪華さです。はたしてこんなに豪華な『大学案内』が必要なんでしょうか。
 生徒たちに聞くと、「オープンキャンパス」とやらが今各大学で開かれていて、来た生徒たちにはこういう『案内書』はもちろん、もっといろんな資料とか豪華な筆記用具セットまでくれるそうです。これでは大学の授業料も高くなるのはあたりまえ。これではたしていいんでしょうかね。
 下級生の諸君はもう一度ぜひ「国公立大学」を見直して下さい。私立大学のように建物はきれいではありませんし、すべてがスマートではありませんが、先生も学生も何か味のある人達が多いですよ。特に最近は地方の「国公立大学」がいい。「むつかしい?」―決してそんなことはありません。意志と忍耐力のある人なら行けます。
 「同志社」や「関学」のほうがよっぽどむつかしい、と思いますね。

1995年8月

 アメリカでは連日40度を越す熱波に見舞われて、もう100人を越す人達が亡くなっているそうです。お年寄りとか子供が多いそうですがこの暑さを凌ぐことはやはり一大事なのです。その点日本は周りを海に囲まれていて、アメリカのように熱波によって多数の人が死ぬというような事態には多分ならないでしょうが、このことひとつ取り上げても、日本がいかに自然環境に恵まれているかが分かります。日本の夏は蒸し暑いといって外国のカラッとした夏を賛美する人がいますが、湿潤がもたらすマイルドな気候と乾燥がもたらす荒々しい気候との違いは、そこに生活する人達の生活や考え方、広く文化の遠いを生み出します。日本人のもつ「おだやか」な性格は、こうした気象関係と決して無関係ではありません。

1995年5月

 「五月雨の降りのこしてや光堂」―奥州平泉の中尊寺金色堂を目の当たりにした芭蕉翁は、3月下旬に江戸深川を出発して、3か月後の6月下旬にやっとこの地にたたずみ、金色に輝く阿弥陀堂を見ての感動を、たった17音の短詩に結びました。
 

連休を利用して芭蕉翁の足跡をたどったのですが、遠いのなんの。もちろん車で行ったのですが、行けども行けどもなかなかたどり着けない。よくもまあこんな遠いところにあの時代、何を求めて翁(このとき45才)は旅をしたのか。思えば、能因法師、西行、そして芭煮、この日本を代表する漂白詩人たちの心には、未知なもの、未知な所にたいする限りなき「あくがれ」が取り憑いていたのでしょう。
 「五月雨」(今で言う「梅雨」のこと。お忘れなく)も間近。これが過ぎればまたあの暑い夏。さあ、今のうち、これをのりきる準備をしておかなくては。

1995年3月

 自然が狂うと人も狂うのか、「サリン」があり「いじめ」があり、あまりいいニュースが新聞には載りませんが、春は急速にやって来たようです。大きくなりすぎて、幹ごと剪定した「こぶし」の木にも白い大振りな花のつぽみがたくさんつきました。「れんぎょう」の黄色い花が石垣の下に垂れ下がっています。春の芽吹きは人の心も躍らせます。じっと堪え忍んでいたものが一気に吹き出すこの季節を、古今東西の詩人達、絵描き達、音楽家達も競ってその作品に謳いあげました。命のそこから突き上げてくるこのエネルギーを実り多きものにまとめあげたいものです。

1995年1月

「阪神大震災」―悲しい出来事が歴史の1ページにまた書き加えられました。しかも他人事ではなく、身をもって体験した出来事です。大自然のなすわざの前には私たち人間の営みが何とはかなく脆いものであるかが思い知らされた反面、こんなにひどく打ちのめされてもなおかつそこから立ち上がろうとする、また同じ人間の営みのたくましさと力強さに感動すら覚えます。
 諸君の中にも被災された方がいられるでしょうに、何の援助もして上げられない非力さにじくじたるものがありますが、諸君の将来の夢を実現すべくなおいっそうい努力したいと思いますので、諸君もどうか将来に向かって勉学に打ちこめる態勢をはやく整えて下さい。

1994年12月

 「一年の計は元旦にあり」―こんな言葉もあまり聞けなくなりました。年末になるとご近所のあちらこちらからベッタンポッタンとお餅つきの音が聞こえ、大晦日の晩には夜遅くまで店が開いて人が行き交 い、除夜の鐘を聞きながら初詣の準備をする。こんな風景も昔物語になったのかもしれません。
 さて、今年はちょうど戦後50年。半世紀の変化の大きさに驚かざるをえませんが、皆さんが生きていくこれからの50年はさらにどんな変化が待ち受けているでしょう。歴史の流れの中で、ただ流されるだけでなく、ひととき立ち止まって来し方行く末を考えてみることも大切なことではないでしょうか。
 「一年の計は元旦にあり」と言う言葉の中に大きな含蓄があるように思えます。

1994年8月

 お盆のころから鳴きだすツクツクボウシに少し勢いがなくなり始めると赤いホウセンカが咲きはじめます。木立の影も長くなりくっきりし始めるともう秋です。
 今年の夏はお天道様がいきり立ったとしか言いようのない暑い夏でしたが、それだけにそよ吹く風がいっそう涼しくて、げんなりしていた草木も心なしかやっと生気を取り戻せたといった風情です。
 生き物にとって、この暑さをしのいで生き延びることができるかどうかは想像以上に厳しい試練です。しかしこれをしのいだ生き物は、たくましく、美しく、収穫も多いということは、私たち人間にも多くの示唆を与えます。

1994年7月

 夜が白み始めたころ,遠くの方でかすかに「カナカナカナ」とヒグラシが鳴き始めると、まるで波が伝わるようにだんだんとこちらの方にヒグラシが鳴きだし、数分と立たないうちに,まわりで一斉に、あっちで「カナカナカナ」こっちで「カナカナカナ」と大合唱が始まるころになるともう梅雨も晴れ、いよいよ夏本番。涼しげで清澄な鳴き声は夏を彩るさまざまな音の中でも最も美しいものだと思います。その美しさに寝も寝られず、睡眠不足になるのもこのころです。
 そういえば夏にはいろいろな音があったものですが、最近は夏の音といえば何が思い当たりますか。
 風鈴で涼を感じる人と、クーラーで涼をとる人とでは何かが違ってくるでしょうね。

1994年5月

 6月のことを「水無月」ということはご存じですね。1年で最も水があふれているのに「水無月(みなづき)」とは?と悩まれた方はいませんか。同じように10月のことを「神無月」とも言いますね。「無」は「な」という音を表す万葉仮名で後の「の」と同じ格助詞です。目のことを「目子(まこ)」といったり、水源のことを「水元(みもと)」といっているのも同じ用法です。ただ、新暦と旧暦には1〜2ヶ月のずれがありますから、梅雨もおわってカラカラのころを「水無月」、新嘗祭も終わって神様も天国に変えられたから「神無月」ということかもしれませんね。

 6月といえば「梅雨(つゆ)」。この湿潤にとんだ季節が日本人の穏やかで潤いのある気質まで決定しているという外国の学者がいますが、その通りかもしれません。

1994年3月

 万葉集に『春は萌え夏は緑に紅のしみ色に見ゆる秋の山かも』という実に単純で季節の色を表した歌があります。


「若草萌える丘の道・・・」「紅燃ゆる丘の上・・・」は現代(?)の歌詞の一節ですが、「もえる」という言葉には、見るものに働きかけてくる生気というものが感じ取れます。中でも「萌える」はこれから芽生えてくる命の横溢があり、古人自然観察の確かさを思い知らされます。
 4月はスタートの月。諸君の心もきっともえているに違いありません。