やはり野に置け蓮華草

野に咲く花が美しい。
絢爛豪華な桜もしづ心なく散ってしまうと、人の心も花から遠のき、趣味ある人だけがバラ園に出かけたり、花菖蒲や紫陽花を求めて愛でるだけである。
そんな中、近くの田んぼを散策すると、人目をはばかるように楚々として咲く野草がつとに美しい。地べたに這いつくばるように咲く色とりどりの花、ひゅるひゅると精一杯に背伸びした先に何とも愛らしい花を咲かせている草花、群れて咲く花もあれば、ポツンと咲く花もある。
その美しさと愛らしさについ写真に収めたくなるのだが、どう撮ってもその美しさと愛らしさが撮りきれない。遠くから撮ると花が小さすぎ、さればと言って接写しても野の花の趣をなくす。最後にはあきらめてカメラをしょい、もういちど周りの風景の中で見直すと、またなんとこれが美しいことか。
いちどは、園芸用のシャベルで掘り起し、家に持ち帰って菜園のわきに植えてみたが、まったく生気なくし萎れてしまった。
野の花は構われたくないんだ。慈しんでもらうことはこれっぽっちも期待していないんだ。春が来て、土のぬくもりを信じて芽を出し、花を咲かせ、命を次に託すと枯れていく。命あるものがすべてそうであるように、こうして転生輪廻を繰り返していく、その一瞬にたまたまぼくの目に留まり、ぼくにこんな感動を呼び起こす。究極の片思いというやつだ。
いま人は、あの大震災で多くの命をなくし、生きながらえたものは明日の命をつなぐため、がれきを整理し、塩を含んだ土に苗を植え、人からもらった船で漁に繰り出し、精一杯生きようとしている。ひょっとしたら、おてんとうさまは、ぼくが野の花を見ているように、ぼくたち人を見ているのかもしれない。
力ある人たちよ、どうかそんな人たちのために、我欲は捨て、おのが同道者のために、天命に従ってくれるよう。

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