上皇にまつわる思い出

 
今上天皇陛下の退位を実現する特例法が6月9日、参院本会議で採決され、自由党を除く与野党全会一致で可決、成立した。退位が実現すれば、江戸時代後期の光格天皇以来、約200年ぶりとなるそうだ。
退位後の称号は、陛下は「上皇」、皇后は「上皇后」とするという。
「上皇」、懐かしい響きのする言葉だ。高校時代、日本史を勉強していたころのことが思い出される。
日本史の先生は山口という先生で、よく気が合うというか、とても可愛がっていただいた。
先生はなぜか高校に個室を持っておられて、お呼びいただいたのか、ぼくが訪ねたのか、先生の部屋でお茶をいただきながら教科書では出てこないような歴史のお話をよくお聞きしたものだ。
中でも今でも印象に残っているのが白河上皇のお話で、顎をちょっと上げて、クククッと笑いながら、「この女好きの上皇はね・・・」から始まって、普段教室では見せない表情で話される先生の面影が、この「上皇」という言葉が復活し、話題を呼んでいる今、沸々と蘇ってきたわけだ。
ちょうどそのころ、短歌にも興味を持ち始めていたころで、アララギ派の歌人で国語の先生をされていた小谷先生に自作の短歌を見せたところ、お褒めの言葉をいただき、会誌にも載せていただいたものだから、もう有頂天になり、せっせせっせと短歌を作っていた。その時、小谷先生からいただいた本が西行の『山家集』で、とても気に入り、西行という人物像にも興味を持った。
平清盛と同い年で、ともに北面の武士として白河上皇の警護に携わった二人だが、12歳にして左兵衛佐に叙任された清盛と18歳で左兵衛尉に叙任された西行とではまるで格が違う。今でいう佐官(大佐・中佐・少佐)と尉官(大尉・中尉・少尉)の違いだ。それでも、年若い二人の青年の交流はきっとあったはずだ。いずれにしろ、北面の武士はエリート中のエリート、しかも二人は二十歳前の青年だから宮中においては耳目を集めないわけがない。とりわけ西行は文武両道に優れ、宮中における、特に女官たちにおける人気は絶大なものがあったと今に伝わっている。
清盛が若くして殿上人に叙せられたのには出生に訳がある。伊勢平氏の棟梁、平忠盛の長男として生まれたとされるが、生母は白河法皇(仏門に入った上皇)に仕えた女房で、後に法皇から下賜されて忠盛の妻になったわけだが、実は実父は白河法皇だと噂されたり、白河法皇晩年の寵妃、祇園女御の子だとか、祇園女御の妹の子だとか、いずれにしろどうも実父は白河法皇らしく、それが清盛を引き立てられる原因になったようだ。
一方西行には23歳で突然出家するという謎があり、その原因が、これまた白河法皇が目に入れてもいたくないほど寵愛し、後に孫の鳥羽天皇に入内させて(結婚させて)からも関係が続く藤原璋子、後の待賢門院との悲恋(待賢門院は西行の17歳年上)にあるというから複雑だ。
この「女好きの」白河上皇も、藤原のあらずば人にあらずの藤原全盛時に生まれ、王子時代は不遇をかこったそうで、13歳の元服時には当時の習慣である妃の参入(嫁入り)もなく、16歳の立太子の時、11歳年上の義理の従姉にあたる藤原道子が女御として参入し、18歳の時には4つ年下の関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入、のち中宮になるわけだが、この賢子との仲は非常に睦まじく、二男三女をもうけ、天皇時代には、先の道子と典侍・藤原経子以外には側室は記録されていないという。
ちなみに、平安時代の天皇家は一夫多妻で、側室(奥さん)として上から順に、皇后(正妻)、中宮、女御、更衣、愛人という身分で、女房、女官、典侍、その他という女性たちが大奥を形成していた。
1084年、賢子が重態に陥った時も宮中の慣例に反して賢子の退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかったというから、この最愛の妻賢子の崩御が白河天皇の人を変えたといっても過言ではない。
藤原権勢を削ぐために権力を固め、1086年には実子堀川天皇を立てて、自らは上皇としてそして間もなく法皇として、歴史上名高い「院政」を敷くと同時に、女狂いも始まるのである。
堀川天皇は「末代の賢王」と評される賢帝であったが、29歳の若さで崩御。孫の鳥羽天皇を立てるも5歳では天皇の政務を執ることはできず、いきおい、白河法皇の実権はいっそう強まることとなる。
この鳥羽天皇が10歳の時入内したのが白河法皇の養女で、お手付きの藤原璋子(待賢門院)12歳である。入内後、翌年には中宮となり鳥羽天皇との間に5男2女を儲けたいうから夫婦仲は悪くはなかったであろうが、璋子18歳の時生まれた第一王子、後の崇徳天皇の実父がこれまた白河法皇(この時御年66歳)とのうわさが絶えず、父鳥羽天皇も「叔父子」と呼んで疎んでいたというから、このうわさもまんざらではなかった。
白河法皇は最愛の孫崇徳天皇を擁立するために強引に鳥羽天皇に譲位を迫った。やむなく鳥羽天皇は上皇に祭り上げられるが実権は相変わらず白河法皇。しかし、崇徳天皇在位中の1129年、白河法皇が崩御すると、チャンス到来とばかり実権を握った鳥羽上皇が積年の恨みを晴らすべく崇徳天皇に譲位を迫り、崇徳天皇の子ではなく、鳥羽上皇がこの時最も寵愛していた藤原得子(後の美福門院)との間にできた近衛天皇を擁立するも、天皇在位13年で崩御。鳥羽上皇は正統派(?)の崇徳天皇の復権を阻止するためにやむなく、璋子との間にできた第四皇子後白河天皇を擁立することになる。こうした天皇家の内紛と摂関家藤原内部の争いが崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれた保元の乱(1156年)を引き起こすのである。
白河上皇のち法皇の43年間にわたる院政は、天皇の王権を超越した政治権力を行使する「天皇家の家督」のことで、後世白河法皇のことをのちに「治天の君」と呼ぶようになるのである。
天皇、上皇、法皇、中宮、女御、更衣、こうした言葉が躍る中、この時代を引っ掻き回したというかおどろおどろしくしたのが他ならぬ、白河天皇(上皇、法皇)と女傑、藤原璋子(待賢門院)なのである。
山口先生のお話、小谷先生からいただいた『山家集』が、今上天皇の上皇問題に触発されて、ひとこと語りたくなった。

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