暮れなずむ谷あいにたたずみ

西に連なる讃岐の連山はそれほど高くない。だから日が落ちてもすぐに暗くはならず、まさに暮れなずむという形容がぴったしだ。
それでも下に見える集落は谷あいにあるせいか、夜のとばりが降り始め、ポツリポツリと家の明かりが灯り始める。
夕餉の支度か、それとも薪焚く風呂の煙か、青白い煙が緩やかに漂っている。
ぼくはこの光景が大好きだ。
いくつのころだったか、母に連れられ、物心ついてはじめて母の実家を訪れたとき、高みにある家の縁側から見た今と同じ光景が幼心に強く焼けつき、街中にいても日が落ちるとすぐにこの光景が目に浮かぶということがよくあった。
一日の仕事を終え、お風呂につかり、夕餉を囲む家族の幸せが、遠く離れた谷あいの家からも伝わってきたからに違いない。
仕事を終えた後はネオン輝く夜の街に繰り出し、塾通いの子供たちが右往左往する都会生活とは大違いだ。
それだけではない。ぼくが大好きな光景もきっと多く残っていたに違いない東北の山村は、今や無残にもその片鱗さえ残っていない。
人間のなせる業とはいえ、まさに悪魔の業だ。
自然が傷めたのではない。人間が人間を傷めたのである。
地震、水害、台風、日本人は自然災害には従容として立ち向かっていったし、立ち向かっていくことができた。
諦観からかもしれない。運命と思ったからかもしれない。
いや、それ以上に自然から被る恩恵のほうがはるかに多いことを知っているからだ。
しかし今回の災害は違う。
強欲で世故にだけ長けた一部の指導者たちによってもたらされた災害である。人災である。
夕餉を囲む明かりが一つも灯っていないあの山村には漆黒の闇が覆うばかりだ。
暮れなずむ山あいに見るこの幸せが、東北にも再生する日が来るのだろうか。
どうか来てくれと祈るばかりだ。

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