熊野詣と伊勢神宮 ― 熊野詣の不思議 ―

 
前回、上皇にまつわる話として白河上皇(法皇)の艶話を取り上げたが、もう一つどうしても合点がいかない不思議がある。
それは上皇とそれにまつわる熊野詣の不思議である。
この白河法皇自身も生涯を通じて実に9回も熊野詣をしている。
第1回の1090年37歳から始まって、崩御する1129年の前年1128年75歳の9回目まで、3回目(1117年)には、生涯の愛人祇園女御と養女璋子(16歳、孫の鳥羽天皇の妃、白河上皇との愛人関係は継続、後の待賢門院)を引き連れ、5回目(1119年)には懐妊した(表向きは孫の鳥羽天皇の子、実は自身との間にできた子)璋子の安産祈願のため、6回目(1125年)から最後の9回目(1128年)の3回は、璋子とその子崇徳天皇に譲位した鳥羽上皇を伴い、何ともややこしく複雑な御幸を行ったのである。
この熊野詣、京都から熊野三山まで往復およそ1か月、白河法皇のように愛人やらなにやらを含め少なくとも4,50人を引き連れての御幸であるから、日数もさることながら掛かる費用も莫大なものである。
それが、907年に熊野を初めて詣でた上皇、宇多法皇(1回)から数えて、
・花山法皇(1回)
・白河上皇(9回)
・鳥羽上皇(21回)
・崇徳上皇(1回)
・後白河上皇(34回)
・後鳥羽上皇(28回)
・後嵯峨上皇(2回)
そして最後に1281年の亀山上皇(1回)まで実に374年間、100回に及ぶ熊野詣、後白河上皇に至ってはなんと34回というから、その異様さを感じざるを得ない。
白河上皇当時の関白・藤原忠実でさえ、白河上皇の4回目の熊野御幸(1118年)に際して「毎年の御熊野詣実に不可思議なり」と呆れたというから、当時の人たちにも異様に映ったのだろう。
そもそも天皇家の皇祖神は天照大神であり、それを祭るのは伊勢神宮であって、天皇及び上皇がお参りするとしたら何はさておいてもこの伊勢神宮であっていいはずが、万系一世と言われる天皇家で、伊勢神宮を参拝したのは明治天皇が初めてというからこれまた異様なことである。
なぜこれほどまでにこの時代の上皇(法皇)が熊野詣に執着したのか、また、なぜ伊勢でなく熊野なのか、調べてみても確たる説は見当たらない。
思うに、この時期、平安時代と後に命名されたように、日本の長い歴史の中でも天皇家とその姻戚関係を結んだ藤原一族による比較的安定した政権下にあったこと、そんな中で、疫病と天変地異が続出し、人々は命のはかなさと不安定な生活を余儀なくさせられたこと、それを解消させる浄土信仰が世の隅々、中でも天皇・藤原に至るまで浸透したこと、表面的には安定政権ではあるが内情は天皇家と藤原家の対立、藤原一族内の権力闘争、などなどの要因が複雑に絡んだ結果であろう。
伊勢神宮は天皇家の皇祖神を祭る神社と言われているが、これとて確たる証拠があるわけでもなく、おそらく伊勢神宮と古くから関係のある藤原が、特に日本史を大きく塗り替え創造したといわれる藤原不比等辺りが無理やり伊勢神宮と天皇家を結び付けたのではなかろうか。
だから、藤原一族の横暴を快く思っていない天皇家は伊勢神宮を避け、そして伊勢神宮側も天皇の参拝を拒絶し続け、明治に至って初めて天皇家の参拝が実現したしたという経緯のように推測する。
つまりは、天皇家が「神武東征」に表されるように征服王朝であり、伊勢神宮はそれより古くから形成されてきた元日本人(縄文人)の土着信仰のシンボル的存在であって「天皇がなんぞ」と思っていただろうし、藤原、つまり藤原姓を下賜される前の中臣がその伊勢の神祇を司ってきた、そんな経緯があって平安時代の天皇家は藤原に対する反発もあって、いわば「面当て」に熊野詣に固執した。
それではまた、天皇家の「面当て」先がなぜ熊野であったのか。熊野は伊勢よりかなり辺鄙であるからこれまた謎である。
ひょっとしたら、「神武東征」の足がかりがここにあって、つまり九州日向からは何ら敵対勢力に邪魔されることなく(瀬戸内海を通過するにはまだ様々な敵対勢力があったに違いない)黒潮に乗って到達できたであろうこの地が、後の大和朝廷の足がかりになった、その地盤と記憶が熊野にあったと考えたら面白い。
熊野一帯は、熊野三山のある新宮に徐福神社があり、秦の始皇帝が不老長寿の薬剤を求めるために派遣した徐福がこの地に上陸した、その血統が大和朝廷に結び付くのではないかという説が出るほど天皇の由来にも関係するなぞ多き地域であり、秦の始皇帝の「秦」は、後の大和朝廷成立に多大の貢献をしたという渡来人「秦氏」との関連も指摘され、この「秦」がユダヤの血を引く家筋で、近年のDNA鑑定からも日本人とユダヤ人との血縁が指摘される中、謎は謎を呼び、日本と日本人の由来、天皇家の由来等々が、近年の考古学的新発見と相まって興味が尽きなくなってきている。
上皇と熊野詣の不思議を解明できれば日本の古代史もかなり進展するのではなかろうか。若き研究者に託したい。

 

コメントを残す