鶯とディクラン老人

アメリカの小説家で劇作家のウィリアム・サローヤンに「冬を越したハチドリ」という短編がある。
主人公の私が冬のさ中のある日、日曜学校から帰って来て家に入ろうとすると、通りの向こうに盲目の老人ディクランが手のひらに何かを載せて近づいてきた。そして何かと尋ねるので見ると死にかけたハチドリである。老人は私、少年を家に連れて入り、手伝ってもらって何とかハチドリを助けようとする。手のひらのハチドリに温かい息を吹きかけ、少年に指図して蜂蜜を温め、それを飲ませ、その甲斐があってか、ハチドリは徐々に元気を取り戻し、やがて、空中で静止していたかと思うとヒューっと飛び立つあのハチドリ独特の飛行を始めるようになる。その間、目の見えないディクラン老人は少年に一部始終説明を求める。元気になったハチドリがしきりに外に出たがる様子を察知した老人は少年に「窓を開けてやりなさい。」と指図するが、少年は寒さが気がかりで窓を開けることができない。それでも老人は、今は元気になったんだから窓を開けてやりなさいというので、窓を開けると、ハチドリはしばらく静止飛行をしてやがてかなたへと飛んで行く。
夏が巡ってきて、たくさんのハチドリが戻ってきたが、もちろんどのハチドリが助けたハチドリか見分けがつくはずもなく、少年は老人に「あのハチドリは生き延びたんだろうか。」と問い掛ける。老人は「あそこにいるハチドリ一羽一羽が私たちのハチドリだよ。」と答えるだけだった。
というあらすじだ。

昨日の朝、いつものように朝散歩に出かけたんだが、通りすがりの竹やぶから、聞き慣れた鶯の声がする。
去年も、その前の年にも聞いた声だ。
相変わらずのへたくそで、「ホー、ホケッ」と鳴くがその後が続かない。
また来よったかと懐かしくも、ちょっとした苛立ちも覚える。
毎年、同じ鶯が来ているのか、代替わりした鶯が来ているのか知る由もない。
へたくそ加減だけは一致しているからどうなのか。
ディクラン老人の気持ちになって、前の年にも、その前の年にも来た奴だと言い聞かせ、もう少し勉強して、この春中くらいにはいい鳴き声を聞かせてくれよと竹藪を抜けた。

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