ああモンテンルパの夜は更けて

悲しいことに、人の心を揺さぶる感動は往々にして悲惨な出来事の中から生まれることが多い。幸か不幸か今の日本のような状況からは生まれえない。日常生活に大きな不満があるわけではなく、と言って満足しているわけでもない状況は人の心を怠惰にしてしまう。
また時代が変わったからということもあろう。テレビ、インターネット、その他さまざまなメディアはいやがうえにもわれわれを情報の渦中に放り込んでしまい、ひとつひとつはびっくりするような事件であったり、心動かす出来事であるかもしれないが、量の多さと次から次に送り込まれてくるそのめまぐるしさに翻弄されるだけ、感動しているいとまもないのだろう。
「ああモンテンルパの夜は更けて」― 歌手「渡辺はま子」によって紹介されたこの歌には、日本の悲惨な時代に生まれた心揺さぶられる感動秘話がある。インターネットを検索してももたくさん紹介されているから、ご存知の方も多いだろうが、またご存じでない方ももっと多いだろう。
ぜひとも語り継いでいってほしい秘話である。
太平洋戦争が終わり、敗戦。フィリピンで戦争犯罪の罪の問われ、「死刑」もしくは「終身刑」で故国に帰ることができなくなった100余人の虜囚は「モンテンルパ刑務所」に収容されていた。そのうちの二人が、もう二度とふたたび踏むことはあるまい故国を想い、詩を書き、曲をつけて囚人仲間に歌われていたのがこの歌だ。
戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手、渡辺はま子は戦後の慰問活動にも積極的に参加し、たまたまモンテンルパ刑務所の日本人教誨師から送られてきたこの歌に出会う。その曲の美しさと詩の内容に心打たれた渡辺はすぐさまこれをレコードにし、なんとかモンテンルパ刑務所を訪ねようとするが、戦時中の慰問活動が災いして、なかなか渡航許可がおりない。しかし渡辺の執念はモンテンルパ刑務所慰問を実現することとなり、刑務所を訪ねた渡辺は振り袖姿で「ああモンテンルパの夜は更けて」を歌いだす。囚人たちは歌いなれたこの歌が母が歌う子守歌にも聞こえ、いつしか涙なみだの大合唱になっていく。
そして後日談。
この「ああモンテンルパの夜は更けて」は日本でも大ヒットし、そのオルゴールを持って刑務所を慰問した例の教誨師は、時のフィリピン大統領キリノに面会を許され、そのオルゴールの曲を披露したところ、一息ついた大統領は目に涙を浮かべながら、自身の妻と娘を対日戦で亡くしたことを語りだし、「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ。」と語り終えて執務室から消えていった。
その1ヶ月後、「モンテンルパ刑務所」に収容されていたB・C級戦犯全員に特赦が下り、全員日本に送還されることとなる。

ああモンテンルパの夜は更けて」への1件のフィードバック

  1.  自らの行動を伴わない感動、喜び、悲しみは実感として残らないから”知識”としてだけ残り、情報に翻弄されながらも体裁だけは意識して、あるいは”これが感動”という固定観念だけで「感動した」とだけはいう、そのニュースなどに直面した時だけは。そんなことを感じることが多くなってきました。「愛と寛容」は人の難しさに直面したとき常に感じるものでもあります。日常の身近な付き合いに、あるいはテレビで流れる大きな民族の衝突にふれるときまたまた考え直し、自分の子や孫に何をすればいいのかを考える機会が多くなっています。 子が「自立できる」と確信できるまでは噛み付くほどの厳しさと、命を投げ出すほどの愛情を示さなければならない。野生の動物的ですがもっとも”基本”で今もっとも薄れている感覚かなとも思っています。 ひとつの歌にあるその真実とそれから生まれた大きな”寛容”からそんな感覚をまた思い出しました。

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