ある日生徒が新聞の折り込み広告を持ってきた。市内中学の「学習支援ボランティア」の募集広告である。
応募要項があって、氏名、住所、電話番号の欄にはもうすでに僕のことが書き込んであって、これを出してもいいかとその生徒が聞く。
空いている時間があればああいいよと気軽に返事をしたんだが、先生歳幾つだと聞かれたとたん体が硬直した。
年齢欄があって僕の歳がわからないから今書き込むというんだが、また来たか、これを聞かれることがいちばん苦痛なんだよ。
「年齢不詳」と書き込んでおけと言ったら、生徒は怪訝そうな顔で「不詳」という漢字がわからないからひらがなで書き込んでいた。
別に望んで応募するわけでなし、そんないい加減なことでいいんかなと思ったりもしたんだが。
そんなこともすっかり忘れていたころに近くの中学校の校長から招請があってあらためて自分の不真面目さに反省した次第。
よく女性に歳を聞くほど野暮なことはないというが、男だってぼくくらいの歳になるとそれは嫌なことだ。苦痛以外の何物でもない。
アメリカに長く滞在したことのある親戚に何かの機会にこのことを言ってみたら、アメリカでは早くからagism (ageism)という意識があり、もうすでに1967年に年齢差別禁止法(ADEA)が制定されていて、使用者が履歴書や応募書類に応募者の年齢や生年月日を記載させることはできない。そのためアメリカの応募書類に年齢や生年月日の項目はなく、面接の際にも年齢を聞くことは禁止されていたり、事前の写真送付さえ禁止されているというから徹底している。
さすがアメリカだ。
人種のるつぼといわれるアメリカだから差別意識も多様で根が深く過敏にならざるを得ない事情もあるんだろうが、その分人権意識も高く、この点でも確かにアメリカは世界をリードしている。
日本はというと、2007年にやっと「雇用対策法」でそれらしい法律はできたものの、履歴書では生年月日及び年齢を書くのはいまだに当たり前、年齢は人を雇う際の重要なポイントにもなっている。
それではヨーロッパではどうなのかと調べてみたが、EUでも2006年になって初めてすべての加盟国が年齢差別を禁止する法律を制定したというから、日本だけが年齢差別後進国でなかったわけだ。
1970年代まで「定年」といえば55歳というのが常識で、それが60歳まで延び、今では60歳で定年を迎えた社員のうち希望者全員の65歳までの継続雇用を義務付ける「改正高年齢者雇用安定法」が今年4月から施行されたが、内実は以前と全く変わらない。
日本人の平均寿命も男性に限っても100年前で42歳前後、50年前で60歳、今や80歳の一歩手前まで延びているから、100年前と比べたらおよそ2倍に伸びているのである。
「無聊を託つ(ぶりょうをかこつ)」という言葉がいつからできたのか知らないが、そんなことを口にする友人や知り合いが最近急速に増えてきた。こうした年齢と雇用制度、その意識のギャップがますます拡大してきている証拠だ。
働きたくとも働けない。実に残酷なことだ。
年金制度がいくら充実しても「人はパンのみにて生きるにあらず」、まさに「人は社会的動物なのである」。