前回投稿した『冬構え』に触発されて、見出しの二冊の本を読んだ。
『玄冬の門』は五木寛之氏の著作で、『老いの才覚』は曽野綾子女史の著作である。
五木氏は1932年生まれで、曽野女史は1931年生まれ。『玄冬の門』は2016年6月20日発行で、『老いの才覚』は2010年9月20日発行だから、五木氏が84歳の著作なら、曽野女史は79歳の著作ということになるから若干のずれはあるが、いずれも後期高齢者での著作である。また、五木氏が『親鸞』の著作がある通り仏教に関心が強く、曽野女史は自らがクリスチャンである。これらの対比と、男性側からの老い、女性側からの老いのとらえ方を比較したいということでこの2作を選んだ。お二人とも著名な作家だが、その作品は読んだことがない。
本稿の目的は、作品紹介でもなく、内容紹介でもないから、二作の目次だけを掲げておくと、
まず、『玄冬の門』
第1章 未曽有の時代をどう生きるか
第2章 「孤独死」のすすめ
第3章 趣味としての養生
第4章 私の生命観
第5章 玄冬の門をくぐれば
他方、『老いの才覚』は、
第1章 なぜ老人は才覚を失ってしまったのか
第2章 老いの基本は「自立」と「自律」
第3章 人間が死ぬまで働かなくてはいかない
第4章 晩年になったら夫婦や親子の付き合い方も変える
第5章 一文無しになってもお金に困らない生き方
第6章 孤独と付き合い、人生をおもしろがるコツ
第7章 老い、病気、死と慣れ親しむ
第8章 神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる
ということになるが、この目次からだけでもお二方の特徴がにじみ出ていると思えるがどうだろうか。
哲学的な表現になって申し訳ないが、読んだ感想を端的に申せば、
『玄冬の門』は「存在」(あること、あらざるをえないこと、英語で表せばBe)に、『老いの才覚』は「当為」(あるべきこと、なすべきこと、英語で表せばought)に重点を置いた著作に思えた。
男女を問わず、人間、生きてきた環境により人格、考え方の大半が形作られると思うが、時間・空間の形式を制約する感性を介した経験によっては認識できない、超自然的、理念的な世界、形而上の世界では男女とも共通項はあっても、その反対に、感性を介した経験によって認識できる、時間・空間を基礎的形式とする現象世界、形而下の世界では男女には深い溝があり、死生観にもはっきり表れてくる気がし、この二作にもそれを感じた。
原始、人間は、女は子供を産み、男は戦う・狩猟をすることが形而下、つまり現実の世界を形成したであろうし、今も本質のところは変わりはないだろう。人間である限り、他の動物と違って形而上の世界、つまり頭の世界では男女共有している部分が多いに違いない。
ちょっと念仏の様な話になってしまったが、死は孤独と絶望の果てにあるもの、生は認識なく誕生するが、死は認識して訪れるものである。その死にどう対処すべきか。
五木氏は、昔、アフリカの動物たちが死期を感じると群れから離れ行方不明になるという話を聞いてあこがれたという。仏陀の最後、親鸞の教え、鴨長明の生き方、それらを通して、肉体としての自分は消えてなくなるけれど、大きな生命の循環の中に、「大河の一滴」となって海に帰ると言い聞かせることで「孤独死」も結構ではないかと自分に言い聞かせている。
曽野女史は、『神われらと共に』というブラジルの詩人の詩を紹介して、
夢の中で、クリスマスの夜、主と二人で浜辺を歩んでいた。その足跡の一足一足が自分の生涯を示している。ふと振り返ってその足跡を見てみると、所々に二人の足跡ではなく一人だけのところがある。それは生涯でいちばん暗かった日々に符合する。主に、どうしてそのとき自分と共に歩んで下さらなかったのかと詰問すると、主は「友よ、砂の上に一人の足跡しか見えない日、それは私があなたをおぶって歩いた日なのだよ」
女史には神と共に召される安堵がある。
五木氏は「玄冬の門をくぐれば、それまでの人生のあらゆる絆を断ち切り、そして、孤独の楽しみを発見する。そこに広がる軽やかで自由な境地を満喫するために」孤独死を勧め、
曽野女史は「老年の仕事は孤独に耐えること。孤独だけがもたらす時間の中で自分を発見する。自分がどういう人間で、どういうふうに生きて、それにはどいう意味があったのか。それを発見して死ぬのが、人生の目的」と死の合目的性を強調する。
お二人とも「孤独死」の美学を展開するが、人生はそして死は決して美学だけでは語れない。
介護に疲れた夫が妻を殺害し、妻が夫を殺害する。訪ねてみれば餓死して数か月。そんなニュースが後を絶たず、そこまでに至らなくてもそれに近い老人は日本国中に溢れている。
そこには確かに孤独と絶望があるが、誰が好き好んでそんな境遇を求めようか。ここに紹介したお二人のように、功成り名遂げ、金銭的にも物質的の何不自由ない生活を送れる人の孤独と絶望は、明日に生きるだけの食は確保し、精一杯の身繕いがせいぜいの人たちの孤独と絶望とは全く異次元なのである。
「姥捨て山」の現実は今も昔も本質は変わらない。ただ変わったのは、あばら家ではあっても、食は乏しくても、夫婦と子供そしておじいさんとおばあさんが共に暮らし、最後はすすんで姥捨て山にという時代の生活と、娘や息子夫婦とは別居、金庫に死に金をしこたま蓄えたおじいさんおばあさんがいるかと思えば、一緒に暮らしたくとも住宅事情、経済事情でそうはいかなく、頼りになるのは足腰もままならない別居老夫婦もしくは一人老人の、最後には特別養護老人ホームにという現代の生活の違いである。
作家のお二人のように好んでまでとは言わないが、孤独と孤独死に人生の最後を迎えようとする人もいて結構。しかし、多くは二世代、三世代の家族とともに老後を楽しみ助け合って最期を迎えたい老人も多くいるだろうし、それがむしろ理想のように思えるがいかがであろう。
仕方なく孤独に耐え、孤独死を望まざるを得ない現代社会の貧困とそれに甘んじている諦観がありはしませんか。それじゃあ、『楢山節考』の時代と少しも進歩していないじゃありませんか。
慣れ切っている社会。今の常識を疑わない社会。何となく不満はあるがしょうがないと諦めている社会。そんな社会になってはいませんか。
『冬構え』の岡田老人を見ていて、身につまされるだけにとどまっていてはいけないと思います。
理想的な老人の生き方と死に方、家族と老人、老人と社会、子供たちの問題と老人の問題をもっともっと真剣に考えなければならないし、それが社会発展と豊かさの実現にきっとつながると思います。