拗ねる

 
このブログの固定ページ(写真下の黒帯にある見出し)に『まほろば俳句会』を載せている。
iPhoneという便利なメディアができ、もう肌身離さず持っているから自分の分身みたいな存在だが、これには、ズーム機能はないが結構高性能なカメラが内蔵されていて、ちょっと撮っておきたいなという場面にもすぐ対応でき、おっ、これはメモしておきたいなとか、これは誰かに送りたいなと思えば、メール機能があり、SNS(Social Networking Serviceの略で、社会的な繋がりを作り出せるサービスのこと。 SNSに登録し、誰かと繋がり、日記を書いたり、誰かの日記にコメントをつけたりすることで、情報交換や会話を楽しむことができる)機能があって、このiPhoneを持ち出してから始めたのが俳句だ。
俳句にはもともと関心はあったが、どこで句が思いつくかわからない。思いついても、メモ帳を持ち歩いているわけでなし、そのまま立ち消えるのが落ちだ。
ところがiPhoneのおかげで、句を思いつけば、ちょっと立ち止まってちょちょっとメモできる。ただメモするだけではつまらないので、twitterに書き込んで、誰読んでくれるを期待するわけでなく、ボタンを押せば記録はできる。
後で起こせば整理もできる。で、始めたわけだが、せっかくだから句を思いついた場面を記録できればなお良い。iphoneカメラだ。写真と俳句を結び付けた写真俳句の誕生である。
と、思いきや、webサイトを開けたら、あるはあるは、写真俳句なんてもうとっくの昔に思いついた人がいて、いっぱい載っている。
5,7,5、17音で思いのままをいかに人に伝えるか。芭蕉、一茶、蕪村から始まって幾多の俳人が挑戦してきた表現形態は、あくまでも言葉によるものである。
写真俳句は、その点からはちょっと邪道のそしりを免れない。映像は言葉よりも直截的に相手にイメージで訴える。
自分でも思うんだが、ある光景に感動して写真を撮る。そして句に纏め上げる。twitterに載せる。後で起こしてみて、句だけを、言葉だけを取り上げてみたら、なんと味気なくつまらん句だと、しょげかえることしばしばである。
が、これもまた新しい表現形態で、芭蕉の頃にはできなかった、この時代だからこそできる形態だと思えば慰めも付く。蕪村なんかは得意の南画を添えた俳句が多いが、これはその走りかもしれない。
ということで写真俳句を始め、その記録を留めておこうと立ち上げたのが上の『まほろば俳句会』なのである。

ところが、これがきょう取り上げた「拗ねる」なんだが、この我が『まほろば俳句会』に執拗な不正書き込みをされて、大迷惑を被っている。
「投稿大歓迎」と名打って、どなたにでも自由に投稿いただける設計にしていたんだが、ここに、俳句とはまるで無関係の、偽バイアグラの宣伝だとか、偽ブランド商品の宣伝などをどんどん貼り付けてくる。
初めの内は1日数件の書き込みであったので、その都度削除していたんだが、日を追って度が増し、一昨日なんかは数十件、いや百は優に超えていたようだ。
60秒の連続書き込みの制限を掛けているいるから、延べにして数時間を費やしての書き込みである。
自動書き込みもできるそうだから、それを利用しているのかもしれないが、もう病的としか言いようがない。
犯人が数時間かけて不正書き込みをしてもほんの数分ですべて削除できるからそれを実行して諦めさせようとしてもダメ。結果は火に油を注いだようなもの。今までにも増して執拗に書き込んでくる。
目的はわからない。宣伝としてもまるで逆宣伝で、そんな宣伝で顧客を掴めるはずもない。ひたすら相手をへこますことを目的としてとしか言いようがない。
いわゆる「掲示板荒らし」というやつだ。
世の中にはこんな人種もいっぱいいるんだ。世の中を拗ねているとしか思えない。自分の経験だけでも過去4回は「掲示板荒らし」に会っている。
まともに育ってこんなことをするはずがない。犯人は多分何かの原因で拗ねてしか生きられなくなったに違いない。それを想うと何か犯人がかわいそうになって来るんだが、人のそんな気持ちも理解できないほど拗ねきっているんだろう。
大阪府池田市の教育大付属小学校で起こった8人死亡の無差別殺傷事件の犯人宅間守なんかは、死刑執行のその場でさえ、生まれかわってもまた同じ事件を起こしてやるとうそぶいたそうだ。
困ったことだ。
こんな人種が少しでも減るような手立てはないものだろうか。

『まほろば俳句会』はOPENから会員制に切り替えた。

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