集団的自衛権と憲法解釈

戦後70年、もう70年もたってしまったんだ、日本は歴史的転換点を迎えている。
日本国政府はこれまで憲法第9条について、「自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められている」ものと解釈し、日本の自衛権については、「個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権は憲法の容認する自衛権の限界を超える」との見解を示してきた。
個別的自衛権の行使も、1954年の自衛隊発足に当たり認めたもので、日本国憲法が発布された1947年(昭和22年)5月3日以来認めてこなかったものである。
そもそも日本国憲法が時代を超越したと言おうか、世界の現実を超越した非常に理念性の高い憲法で、70年間一言一句も変えられることなく保持されてきたという、世界では類を見ない、これはこれで「世界文化遺産」に登録されてもいいような理想的憲法なのである。
世界主要国の戦後の改正回数を見てもわかるが、アメリカが6回、イタリアは15回、フランスが27回、ドイツに至っては58回も憲法改正を行なっているように、世界の憲法は時代時代に順応できる態勢になっているが、日本はそうではない。法体系における憲法の次元が日本と外国とでは異なるように思える。
この違いには、日本と諸外国の法概念と言おうか法観念の根本的な違いがあって生じるもので、これはこれで考察するのも面白いが、いまはさて置く。
この理念性の高い日本国憲法のもと、理念よりも時には理念とはかけ離れた世界の現実に対処して行くには「憲法の拡大解釈」に寄らざるを得ないのが、時の政府であり、ひいては日本国民なのである。その象徴的なのが「憲法第9条」の解釈ということになろう。
この憲法第9条はどう見ても「日本は戦争をしません。だから軍隊を持ちません。」という内容である。理屈を捏ねまわしてあだこうだとはいうが、中学生や高校生ならこう解釈するだろうし、その解釈が一番まっとうな解釈である。
しかしそう解釈したのでは国が立ち行かぬから、ああだこうだと理屈を捏ねまわし、いまや「集団的自衛権」行使容認は現行憲法上許されるか許されないか国論を二分している。
個別的自衛権を守るために自衛隊という軍隊を持った時から憲法第9条からは逸脱したのであり、今回の集団的自衛権行使の容認もその延長上と言おうか必然的に起こりうることであって、現行憲法を改正しない限りその矛盾性は解消しない。
このことは世界にも類を見ない理想的憲法を持った日本、および日本国民の宿命であり、理想と現実をどう調和させていくのか、あと30年も経てば第二次世界大戦100周年という節目になるのだが、その時日本はいかなる国になっているのか、なっていなければならないのか、この「集団的自衛権」問題を皆で真剣に考えていきたいものである。
最後にぼくの立場は「集団的自衛権」行使容認には賛成である。

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