願わくは

いよいよ桜も佳境に入った。
Mixiのマイミクさんである「吾輩は三毛猫です」さんからは、もう1カ月ほど前から静岡の桜情報が届けられ、静岡ってそんなに暖っかいのかなあと、日本地図を見直しもした。
Yahoo!のホームページの「天気」サイトに「お花見特集2012」が出ていて、その「全国のお花見スポット」はこの時期になると毎日のように見ているが、先週の4月5日くらいだったか、「大阪」版21件中、満開はたしか1件か2件だったのが、1週間もたたない4月11日はもう17件、大阪もほとんどが満開になった。
あれほど、今年の桜は開花が遅れると言っていたのが嘘みたいだ。
念のため去年のアルバムを見てみたら、同じ4月11日に、京都の衣笠街道沿いの金閣寺、竜安寺、仁和寺、そして嵐山を辿っていて、どこも桜が満開である。
今日12日も、用事があって車で外に出たんだが、いたるところに桜が咲いていて、ちょっとしたところにも「おおっ!」という景観によく出くわした。普段は何でもないところも、桜が咲けば一流のお花見スポットだ。

それでも人はやはり名所に繰り出す。
もちろん桜もお目当てなんだろうが、そこに群れくる他人との対話なき交流が楽しみなんだろうとも思う。
友人、知人、肉親から恋人まで会話を楽しみながらの桜見物はもちろん多いんだろうが、根底には、むしろ赤の他人が群れ来て、すれ違い、表情をうかがい、歓声を聞き、しばし同じ景観に見とれ、そこから生まれる連帯感と安心感が心に言い知れぬ悦びと満足感を与えるからに違いない。

花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎(とが)にはありける

と詠った詩人西行は、群れくる花見の客を厭い、庵の八方に花見禁制のお札を立てたとか。
人の心をかき乱すのは桜、お前じゃないかと、老桜に愚痴を垂らす西行こそいちばん桜に狂っていたわけだが、その老いた桜の化身に、桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない、煩わしいと思うのも人の心だ、と諭され目が覚めるという世阿弥の能楽「西行桜」は、心なき身、つまり出家して世俗的な情趣にも心動かされることのない身でありながら、いまだに桜に心動かす生な西行を皮肉ったとも取れなくもない。

願わくは花のもとにて春死なん そのきさらぎの望月の頃

辞世の句と言ってもいいこの句通りに本懐を遂げた西行は、桜とは切っても切れない詩人になった。
釈迦入滅の日を意識した「その」には出家遁世した最後の願望が感じ取れるが、清盛との出会い、待賢門院とのなさぬ仲、白河院と鳥羽上皇そして崇徳院と後白河、乱世と世俗の極みに身を置いた西行が、桜に浄土を見たのもおかしくはない。
そんな思いで、河内の山ふところにある西行入滅の地、弘川寺を訪れると、ここも桜はもう満開だった。

願わくは」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 今年のさくら ― 2015年 ― | 水のごとく雲のごとく

コメントを残す