さくらーそして日本人ー

♪♪♪ さくら ♪♪♪

さくら最前線もここ関西からははるか北、もしくは高山に遠のいた。
一年のうちのほんの一週間、日本人の多くが待ち望み、熱狂し、そして春の嵐とともに散っていく。
「貴様とおれとは同期のさくら」と歌う人たちも少なくなったが、この時期日本人の心をとらえて今だやまず、「さくら最前線情報」、「花見」、「新入生」、「新入社員」、等などの言葉には「さくら」が付きまとう。桜と日本人は切っても切れない縁で結びついているのは確かだ。
一輪の花は、おとなしく、これといった香りもなく、淡い淡いピンク色もそれ自体人目を引くほどの色合いでもない。しかし、一本の桜となれば、どこそこの「一本桜」と名物になるほど人を引き寄せる。ましてや、何百本、何千本の桜が咲き乱れるとなればもう圧巻だ。あたりの景観を「さくら」一色でおおい尽くす。山があり、お城があり、どんな高層ビルがあってもほんの添え物だ。青い空にひらひらと散っていく桜の花びらは天女の舞とも祇園舞妓の舞とも見まがうばかり。そして、そこにはたくさんの人が群れ、手をつなぎ、写真を撮り、誰一人として笑顔のない者はない。青い敷物が所狭しと敷き詰められた場所は、夜ともなれば人が踊り出し、歌い、わめき散らし、酒の匂いと食べ物の香りが満ち満ちる。耐え忍んだ寒さから解放され、日頃の鬱憤を吐き出し、つかの間のひと時に我を忘れる。また巡ってきた新しい門出に向けて鋭気を養っているのだろう。
日本人、一人ひとりは実におとなしく、勤勉実直で、清潔、お人好しででしゃばりもせず、一見何のとりえもなさそうにさえ見える。しかしその日本人がいったん群れると、桜に浮かれて豹変し、まるでブルドーザーのごとく、第二次世界大戦の主役になり、足腰の立たぬほどコテンパンにやられてもまたたくうちに世界第二位の経済大国にのし上がる。世界のだれが見ても不思議の国「日本」であり、「日本人」だ。
パッと咲いてパッと散る、「祇園精舎の鐘の声」あたりから形作られたであろう日本人の「無常観」にぴったしの「さくら」と日本人は、21世紀の世界にどう彩りを添えて行くのだろう。

鳥の歌ーカタロニア民謡ー


あれからもう41年も経っちゃたなあ。ヴェトナム戦争は拡大の一途をたどり、神出鬼没のベトコンを追って南ヴェトナム軍と米軍がカンボジアに侵攻したのもこのころだ。
抜き差しならないほど深入りしたアメリカでは、国内にも厭戦機運が漂い、反戦運動が盛り上がる中、国連でもヴェトナム戦争終結を目指す様々な動きが活発化していた。
そんな中の1971年10月、ニューヨークの国連本部に招かれた94歳のパブロ・カザルスは愛用のチェロ「ゴフラリー」にすがりながら、「私の生まれ故郷カタロニアの鳥は、ピース、ピースと鳴くのです」とだけ語り、カタロニア民謡「鳥の歌」を弾き始めた。そしてその様子は全世界に放映された。
広い国連本部の会議場は静まり返り、「鳥の歌」だけが静かに、物悲しく、しかし、凛として流れてゆく。目頭を押さえる者、下を向いたまま身動きもしない者、各国のエゴを背負った代表者達の心が一点に凝縮していくのを感じる。ぼく自身も、短いがこんなにも深く魂の底までゆすぶられたことはない。
演奏が終わった時は、もう物音一つしない。会議場の全員もきっと魂の底まで突き落とされたのであろう。次の瞬間、我に返った会議場は割れんばかりの喝采だ。世界が一つになった一瞬だ。涙が止まらない。
それからちょうど2年後の1973年10月、20世紀最大のチェロ奏者パブロ・カザルスは96歳の生涯を閉じ、その2年後の1975年、ついにヴェトナム和平が成立した。
弦楽器と言えば誰もが眼の色を変えるストラディヴァリウスには「自分にはもったいない」、「自分には合わない」といって振り向きもせず、傷だらけの「ゴフラリー」を片時も離さなかったこの頑固者は、生涯を反戦、反ファシズムで貫き通し、音楽を通じて世界平和のために活動した。