中国人の見た日本

 
サーチナ(Searchina)という、中国情報、特にファイナンス情報を中心に、日本を含めたアジアや新興国に関する情報を配信しているポータルサイト(Yahoo!のようにあらゆる情報を発信している巨大サイト)がある。ここに「中国ブログ」というコーナーがあって、おもに、日本にやってきた中国人たちの「日本印象記」が載っていて、いつも興味深く読んでいる。
中国という国がいまだに情報管理国家だということは誰しも認めるところであり、国の秩序を乱すあらゆる情報をチェックし、時には平気で都合の悪い情報は削除してはばからぬ国である。特に教育においては、戦後半世紀もたった今も日本の侵略戦争を糾弾し続け、テレビでも毎日どこかのチャネルをひねれば必ず日中戦争を題材にした映画やドラマが流されていて、日本軍人の残酷さをこれでもかこれでもかというほどリアルに描いて見せている。こういうわけだから、一般中国人の日本、および日本人に対する印象はすこぶる悪い。
そんな中、最近は日本に観光でやってくる中国人も急増し、デパートや電気街には中国語が飛び交っているという光景を、きっと皆さんも体験しているだろう。こうした観光客も含め、仕事で日本にやってきた中国人、留学してきた中国人が、この「中国ブログ」に「日本印象記」を投稿しているのである。
そして一様に、来日する前に持っていた日本に対するイメージと現実に接した日本とがあまりにもかけ離れているのにびっくりしている。
一番に秩序の正しさ、清潔なこと、礼儀正しいこと、親切なこと、気品のある人格、日本女性の美しさ、自国中国と日本の差はこうした「民度」にあると、読んでいてもこちらがこそばゆくなるほどの礼賛ぶりである。そして中には「真の愛国心」を発揮して、中国も日本にもっと学び、日本をハード面だけでなくソフト面においても凌駕することを願っている。
正しい判断である。日本を買いかぶりすぎている面も無きにしも非ずだが、あまりにも偏った情報でしか知らない日本と、自分の目で見、膚で触れた日本との違いが分かることは、たとえ一握りの人たちによって実現されたことであるにせよ、その成果は大きい。こうしたブログをまた多くの人が見、中国人の日本に対する見方が変化していけば、両国にとって決して悪いはずがない。
と同時に、はたして今の日本が、中国人たちが見て感じたほどほんとうにいい国なのか、過去、日本が中国に学び、今、中国が日本に学ぼうとしているわけだが、また、日本が中国に学ばなければとなりはしないか、そんなこともちらっと頭をかすめた。
 

婚活と離活

 「婚活」という言葉が流行してもう久しくなりますが、すたれやすい流行語の中では息の長い言葉です。「結婚活動」を略した造語であることはみなさんすでにご存じのとおりです。
 結婚を意識して積極的に活動しなければならないというニュアンスがありますから、おそらく20代の男女を対象にした言葉ではなく、20代も後半、むしろ30代以降の世代に適用される言葉ではないかと思われます。
 今の30代40代の世代が育った環境は、日本がまだ「バブル」に向けて経済活動も活発化した時代でしたし、大学への進学率、特に女性の進学率が一気に上昇し始め、大手予備校が全国展開を果たし始めた時代に符合します。それまでの「鍋かめ下げて」という結婚観から「三高(高収入・高学歴・高身長)」を求めての結婚観に変化するのもこのころからで、女性の高学歴化に伴う社会進出が、それまでの結婚事情をすっかり変えてしまいました。昭和45年の平均初婚年齢をみると、男性26.9歳、女性24.2歳だったのが、子供世代になった平成19年では、男性30.1歳、女性が28.3歳と初婚年齢は遅くなっています。
 女性も大学を出れば22,3歳、就職して2,3年はまだ「かけだし」、4,5年経つと仕事の面白さが分かり始め、それなりの地位も獲得し、「キャリア・ウーマン」と呼ばれ始めるのもこのころ、30歳前後ですね。仕事をとるか結婚をとるか、二者択一を迫られるけれども、できたら結婚も、ということで始めるのが「婚活」ということになるのではないでしょうか。
 そして幸いにして結婚はしたものの、夢と現実は大違い。収入も自分とは大差なく、仕事にくたびれて、夫は単なる同居人、それならいっそ離婚して、といとも簡単に離婚してしまうのもこの世代。僕が教えている子の半数は片親、お母さんが大概子どもを引き取っているんですね。
 もう少し上の世代になると、子供を育て上げるために我慢し、耐えてきたけれど、もう子供も手を離れ、もう一度自由に羽ばたきたいと「離活」に走る。
 こうして事情は様々ですが、離婚率が上昇の一途をたどっているのも事実。そして離婚はしたものの、しばらくは自由は満喫できても忍び寄る「さびしさ」には堪え切らない。またまた「婚活」を活発化させる。
 「婚活」の勢いは止まりません。今や、老いも若きも「婚活」花盛りの様相です。 
 
 

生物と無生物のあいだー福岡伸一

 
「新書大賞、サントリー学芸賞、ダブル受賞」、「60万部突破!」、のっけから仰々しいタイトルが表紙を飾っている。前にも言ったが、僕はあんまりこんな仰々しいタイトルの本は読まない。本屋さんにはよく行くんだが、これはという本がない中、「サントリー学芸賞」という、ヘエー、あのサントリーがと思って手に取ったのがこの本だ。表紙の裏をめくってみると、筆者「福岡伸一」さんの写真が載っていて、僕の友人そっくりなのも身近に感じプロローグを読んでみるとなかなか面白そうだ。買ってみた。
科学者が書いた本はどちらかというと味もそっけもない本が多い。湯川秀樹先生が書いた「旅人」が印象に残っているくらいだ。ところがこの本を読んでいくうちに自然と中に引っ張り込まれていく。なぜか。各章の初めには、ボストンだとか、ニューヨークだとか、筆者が過ごした研究所の土地の風景が描かれていて、実によい。自分がまるでそこに佇んでいるかのように、細やかに季節季節の風景が描かれている。もちろん内容は「分子生物学」というお硬い内容なんだが、そのお硬い内容にスーッと入り込んでいける。これは大切なことだ。どんな名画もよい額縁に入っているからこそ、いっそう引き立つのと同じだ。
さて内容なんだが、今よく話題に上るDNA、その構造の解明の歴史とそれに携わった科学者のあくなき闘いとそれにまつわる科学者同士の暗闘。生命体が、ミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械の集合体と言えるまでに行きついた生命科学、しかし、無数の電子部品からなるコンピュータがたった一つの部品が欠落しても動作しなくなるのに対し、生命体はひとつの重要部品を取り去っても、何らかの方法でその欠落を補い、全体的にはその欠落がないかのように生き続ける生命体の不思議とダイナミズム。
筆者は血糖値をコントロールするインシュリン分泌のメカニズムが、究極、細胞内の分泌顆粒膜の特殊たんぱく「GP2」によることを突き止め、それを検証するために、苦心惨澹の末「GP2」の欠落したマウスを作り出すことに成功するが、驚くなかれ、「GP2」が欠落しインシュリン分泌のコントロールが効かなくなってその障害が発症するはずのマウスが、他の健常マウスとなんら変わりなく生き続けるという結末に、筆者の落胆ぶりと、筆者の生命に対する畏敬と感動が同時に伝わってくる。しかし明らかに筆者は、落胆よりも、生命体のダイナミズムに感動したのだ。そしてそれはおそらく筆者にしか感じ得ない感動なのだ。
何事においてもそうだが、究めれば究めるほど、自分の非力と無知を知る。だからこそ、それがいっそうの励みにもなるし、謙虚さのなんたるかを知ることにもなり、人にも無限の寛容で接することができるのだ。
いい本だった。

「さん太」から「Santa」

 
なぜ「Santa」なんだと時々聞かれる。話せば長くなるから「うーん」といっただけで、もうそれ以上は誰も聞かない。
別に聞いてほしいわけでもないんだが、その由来を考えると、今の時代をふと考えてしまう。
「Santa」はこうしたwebの時代に合わせたニックネームというか、ハンドルネームで、もともとは「さん太」というのが僕のニックネームだった。
中学生の時、阿部次郎の「三太郎の日記」という本をたまたま持っていたら、ぼくの取り巻きの悪童たちが「なんじゃ、これ、さんたか」とあざけった事から、それ以来みんなが僕を「さん太」、「さん太」と呼ぶようになった。皆はもちろんこんな小説を知っていた訳はないんで、ときには多少揶揄するような口調で呼ぶこともあったが、僕は決して不愉快には思わなかった。なにぶん中学生だからそんなに深い意味が分かってたわけではないんだろうが、「三太郎」がとても好きだったし、そんな考え方、生き方に憧れをもっていたからだ。
ところで今の中学生や高校生はどんな本を読んでいるんだろう。いや大人でもそうだが、書店に並べられている本であまり哲学的な本を見たことがない。今の読書事情をよく知って言うわけじゃないから偉そうなことは言えないし、ぼく自身だって最近はそんなたぐいの本はあまり読まないんだけれど、新刊本のコーナーを見て思うのは、「軽い」本がやたら多い。読んでみれば中には手ごたえのある本もあるのだろうが、表題からして「人受け」を狙っているようで、それだけで僕などは読む気がしない。
最近では村上春樹の「1Q84」が話題に上って、予約しても手に入れることができなかったとか、200万部を超えたとか言っているけれど、だから当分は読まないつもりだ。しばらくしたらみんなの評価も定まるだろうから、読むに値する本なのかどうかわかるだろうからそれまで待つつもりだ。
「ハリーポッター」なども話題に事欠かない本だが、まだ読んだことがない。生徒などはよく読んでいて、あらすじを教えてくれるんだが、今の僕には読書欲をそそられる本ではない気がする。
概して、これも時代の流れなんだろうが、じっくり腰を落ち着けて沈思黙考、本と対決するような本が少なくなってきているように思うんだが、みなさんどうだろう。
「三太郎の日記」は今でも深く心に残っているし、今読んでもまた心にさざ波が立つ。ひょっとしたら、僕が成長せんじまいにこの歳まで来てしまったのかもしれない。