ゴールデンウィーク

 
 毎年思うことだが、この五月の連休を4月29日から5月5日までぶっ通しにすればいいのに。
 実際そうしている企業もたくさんあるが、ぼくがみている生徒達はそうではない。
 今年に例をとると、公立中学校と高校は間の4月30日だけ登校、私学に通う生徒は4月30日と5月1日の2日は登校しなければならない。
 みんなブーブー言っている。当たり前だよな。何が連休だ。何がゴールデンだ。
 お父さんが休みで、せっかく家族揃ってみんなで何処かに行けるはずが行けない。
 そして学校に行っても、授業はなく、リクリエーションだったり、どこかに見学に行ったり、面白くもない行事に参加させられるそうだ。
 学校も、つまり先生もきっとつまらないんだ。仕方なくそうしてお茶を濁しているだけ。
 ここでもまたまた日本人の大好きな「我慢大会」!
 気がすすまないけど、考えても仕方ないんで、言ってもどうにもならなし、等々と心ではつぶやくんだけれど。
 どうも日本はこういう、ただそう成っているからとか、ただ昔からあるからとかということが多すぎる。
 だから、こういう事が積み重なると、今問題になっている「独立行政法人」も存続し続ける事になるだろうし、お役所仕事はお役所仕事のままだし、学校はますます荒れ放題だし、少子化はドンドン進むし、沖縄の基地問題だって、そもそも米軍基地が日本国内にこんなにあってもいいのかという根本を考えないから、国際社会からは振り向かれなくなるし、ろくなことはない。
 トドの詰まり、にっちもさっちも行かなくなるだけだ。
 まだまだ社会経験も浅く、窮屈さを肌で感じ、ブーブー言うだけの元気さはある若者も、やがてはその元気さも失い、けだるい社会に組み込まれ、「我慢大会」を忍んでいくしかない社会に未来はない。
 たかがゴールデンウィークのこと、されどゴールデンウィークのこと、ゴールデンがその名の通りゴールデンなのか、考えるだけでも今の日本が見えてくる。
 
 

西行と清盛、そして定家

 
               願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ
 
西行の辞世の句ではないが、遺言の句といった趣のある歌である。彼はこの句の通り、新暦でいえば3月29日に入滅し、彼が望んだ釈迦入滅のわずか一日後だったということが西行伝説にいっそうのミュトスを加えることとなった。
西行は奥州藤原の血をひく武家の出で、当時の武士集団ではエリート中のエリート「北面の武士」に18歳で任官している。将来を嘱望されながら23歳で出家したことが伝説の始まりで、当時から出家の動機がいろいろ取りざたされた。(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋、といったところが通説である。
ここで別の視点を加えたい。平清盛の存在だ。
西行も清盛も1118年生まれ、同い年で、どちらも「北面の武士」として任官され、おそらくどちらも十代の若者として交流もあったであろうし、一方は権力の頂点に上り詰めた男であり、一方は歌人として「新古今」の筆頭に推挙された男、「北面の武士」数ある中でもこうして後世まで語り伝えられる二人は異色の存在であったに違いない。
西行は、言ってみれば、豊かな奥州藤原をバックに持つ素封家の御曹司、一方、清盛は武家集団のトップに君臨する「平」の跡取り息子、二人ののちの歩む姿から類推するに、立ち居振る舞いから考え方までまるで違った若者であったに違いない。共通するのは出自から来る「向こう意気の強さ」だけである。
西行は18歳で「尉」官、一方の清盛は12歳にして「佐」官である。今の軍隊の位と同じで大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉みたいなものであるから、「佐」と「尉」の階級差は歴然としている。西行は文武両道に優れ、周りの者からも、とりわけ宮中の女官たちからは、憧れの的の若武者であったであろうし、一方、清盛は十代のことはあまり語り伝えられていないことからおそらく「武骨」な、時には横暴な振る舞いも見せたであろう少年であったのではなかろうか。12歳にして「佐」官に抜擢されたのも、実は、平氏の棟梁忠盛の嫡子として生まれたのではなく、白河院と祇園女御との間に生まれた「蔭の子」だからだという説さえある。
西行は、この多感な十代に、清盛というのちに歴史上にも残る最高権力者とも交わり、人品の誉れだけでは世渡りできない現実社会に多くの矛盾を感じ、苛立ちを覚えたに違いない。
西行出家の動機には上にあげたように諸説はあるが、おそらくこれが根本動機であったのではないか。
漂泊の詩人、吟遊詩人、遁世の詩人といわれるにしては、最後まで俗世間から脱却しえず、東大寺再建の寄進要請が理由にしろ頼朝とひざを交えるなど、時の権力者とも常に交流を持ち続けたことをみても、また歌筋を観てもとことん「美」を求めた歌人ではない。「美」を衒ってはいるが、最後まで「生き方」にこだわった詩人である。
 三夕の歌を観ても、
   心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)
   見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮れ(定家)
まるで歌風が違う。
歌が芸術だとしたら、定家の歌がはるかに優れていると思うのは、ぼくだけではあるまい。