夏の夕暮れ ― 金星、火星、土星、レグルス ―

7月20日、二日前に梅雨が明けた。途端にもう夏の真っ盛り、全国的に猛暑日が続き、気温35度を越えるところが続出。テレビでは盛んに「熱中症」の警告と予防を訴えている。
夕方、近くのスーパーに買い物に出かけたその帰り道、午後7時は過ぎているのに西の空はまだまだ明りをとどめ、青く澄みきった空には橙色から赤に染まったうす雲が、刷毛でなぞられたように、あっちにサーッ、こっちにサーッと漂っている。はるか向こうには淡路島の山並みが低く濃紺に沈み、右に展開する六甲山脈をはじめ、北も東ももうかなり薄暗いから、西の明るさは、まるで劇場の舞台のようだ。
その明るい西空に、ひときわ明るく光っているのが金星だ。宵の明星の形容にふさわしい明るさだ。さらにその少し南の上に心なしか赤い火星が、さらにその上に土星が、金星ほどではないが、それでも西空の明るさに負けないくらいの明るさで、見事に連なって見える。レグルスという恒星も見える。ずっと南に首を振ると、スポットライトが当たった舞台の天井の暗がりあたりに上弦の月が大きく輝いている。
目の前に広がるこの大パノラマを、いったい何人の人たちが見ているのだろう。まさかぼくだけではあるまい。しかし、ぼくの周りの観客席には誰もいない。耳にさしたイヤホーンからモーツアルトのレクイエム「入祭唄」が聞こえてくる。
さあ、長居はできない。舞台を背に農道を歩き出すと、4,50センチに伸びた田んぼの稲に大きなぼくの影が映って動く。
今年の夏も暑そうだぞ。でもいっぺんに元気が出てきた。しこたま買い込んだ食料品もそんなに重くは感じない。
遠くでまだ鳴いている蝉がいる。

余命いくばく ― 方丈記再読 ―

★☆ 方丈記 朗読 ☆★☆
 

『住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 

方丈記、冒頭の一節である。

高校生の時、この方丈記を初めて読んだ時の衝撃と言おうか、感動と言おうか、今でもこうして読み直してみて、また新たな思いでよみがえってくる。

自我に目覚め、我思うゆえに我あり、己を客体化して眺めることができるようになった時、そして「死」というものがとてつもない恐怖として感じ始めた時に出くわしたこの長明の文章は衝撃的であった。

しかしその時の死の恐怖は、その恐怖にも立ち向かっていくぞという、力強い生への決意と裏腹である。いわば、大海原を前にして、これからどんな大嵐に遭遇し、ひょっとしたら命を失うかもしれない、しかし船出するんだという果敢な決意を秘めていた。

だから、この長明の一節を読んだとき、なるほど死の恐怖を感じさせられはしたが、一面、その美文に酔い、死への陶酔さえ感じられる余裕すらあった。

今は違う。死は差し迫った現実だ。

 

今日、高校生と話していて、iPhoneにおもしろいアプリケーションがあるからダウンロードしろという。

なんだと聞いたら、余命を予告するプログラムで、それによると彼の余命は60年だそうだ。今彼は16歳だから76歳まで生きられるという。60年は短い。もっと生きたいと彼が言うんで、そんなこと信じるな、もっと生きられるよ、と励ましたが、まだこれから60年も生きられるなんて羨ましい限りだ。

ぼくなんて怖くて怖くて、こんなアプリケーション、ダウンロードできるはずがない。そこに突き付けられた余命は長くても知れているわけで、短かければショックでその場を取り乱すかもしれない。

いいよ、と断ると、察しのいい彼はすぐ別の話題に切り替えたが、はしなくも、最近どうも体調が思わしくなく、病院通いが増えて、その都度胸をよぎる「死」が、16,7歳前後に感じた「死」とは全く異質で、「美」のかけらもない現実なんだと改めて感じさせられた次第である。

 

孤独な群衆

 

コミュニティ・サイトが花盛りだ。ブログ、SNS、電子掲示板、チャット、メーリングリスト、ウィキ、数え上げたらきりがない。街中を歩いていても、携帯電話でピコピコしているのもこうしたサイトにアクセスしているんだろう。

Yahoo!パートナーやMatch.comといった出会いサイトを見ても、真剣な相手探しからひっかけ半分の投稿記事まで万とあり、mixiでは「マイミク」さん(仲よしさん)を何百人と持って、そんなにたくさんの仲よしさんとどう付き合うつもりなんだろう?と思える人たちがいたり、twitterと言って、ひとりブツブツつぶやくと、たちどころに見も知らぬ人から相づちを打ってくるものだから、つぶやくいている暇もないといったたぐいまで、実に多種多様だ。

一人が暮らす空間が地域だとか、学校だとか、ごく限られたものであったのが、ある意味、無限大に拡大したこうした世界が開けてまだたかだか20年かそこらだ。 バスが走り、鉄道が走り、誰もが車を持つ社会になって、ひと昔前なら「ど田舎」で、都会に出ることもままならなかっただろうと思える地域が、もう今では気軽に都会にも出られ、何不自由なく都会と同じ生活ができるようになったのと同じように、インターネットを利用した生活空間の広がりは、飛躍的どころか革命的といってもいいくらいの拡大をもたらした。

しかしよく考えてみると、交通手段の発展、交通網の拡大による人的交流とインターネットによるコミュニティ社会の拡大は本質的に大きな違いがある。

生身の人と人が接触するかしないかの違いだ。 インターネットによる生活空間はよく言われる「ヴァーチャル・リアリティ」の空間であって、そこで出会う人と人はあくまでヴァーチャル、幻想の人どうしなのである。インターネットを通しての言葉のやり取り、音声のやり取り、もっと便利になって映像のやり取りは限りなくリアリティを持つけれども、実物ではないし、実像ではない。

こうして出会いの場が増え、多くの人との交流が図れる世の中になっても、人の孤独は一向に解消されないどころか、その孤独から耐え切れず、自殺者は年間3万人を常に超え、自ら命を絶つ勇気も持たないまま、全く見ず知らずの他人を殺害して、死刑を志願する輩がここ最近増えてきた。

 もう半世紀以上も前になるが、アメリカの社会学者リースマンが「孤独なる群衆」で描きだした現代社会の病理はますます真実味を帯びてきた。

彼は言う。

土地に縛られ、階級に縛られ、社会的・地理的な移動はほとんどなく、個人の生れついた性別・身分に由来する特定社会の役割に限定されはするが、安定的な「伝統指向型」人間社会。

容易に土地を離れることができるようになり、共同体への恭順を逃れ、自己の持つ目的・目標に向かって、例えばそれはお金であったり、名誉であったり、善であったり、その方向を決めるのは自我を確立した個人であり、近代資本主義の担い手が中心になる「内部指向型」人間社会。

通信や交通が目覚ましい発展を遂げ、社会はますます流動化し、内面への指向すら立ち行かなくなった現代人は、他人との同調性を何よりとし、同時代人の反応にやたら敏感になり、他人の視線を常に気にする「他人指向型」人間社会。

このように、豊かな現代社会は、「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」をたどり、今や誰もが、いっけん無関心を装いつつも、他人の監視のもと、常に他人を意識しなければ生きていくことができない大衆社会の中で、その大衆性とは裏腹な「孤独」に耐えながら生きている。

と、リーマンは分析する。

 なんと鮮やかな予言。「孤独なる群衆」はリースマン、1950年の著書である。