小さな親切

 

今歩いている農道は狭い。曲がりくねった先に白い軽トラが止まっている。気に留めることなく、田んぼの片隅に作ったちょっとしたお花畑を眺め眺めゆっくり歩いていくと、軽トラのエンジン音が聞こえた。ぼくが通り過ぎるのを待っていてくれたんだ。ああ悪いことをしたとお辞儀をして運転席を見ると、麦藁帽にタオルを巻いた農家のおじさんがニコッと笑って挨拶を返してくれた。その笑い顔がいい。たぶんぼくよりは年下であろうに、慈愛溢れたオヤジの顔だ。うれしいねぇ。こんな瞬間の得も言われぬ幸福感。朝一番のこの出来事は一日中余韻を引いた。
昔、東大総長の茅誠治先生が東大の卒業式式辞で卒業生に贈った次の言葉がきっかけになって「小さな親切運動」が日本中に巻き起こったことがある。
「小さな親切」を勇気をもってやっていただきたい。
そしてそれがやがては、日本の社会の隅々まで埋めつくすであろう、
親切という雪崩の芽としていただきたい。
茅先生の言葉を聞いてかどうかは、そして「小さな親切運動」が功を奏してかどうかはともかく、確かに小さな親切に助けられたり、遭遇することはよくある。
車に乗っていて、割り込んでくる車に道を譲ると直後、ハザードランプを点滅させて挨拶する車が最近よくあるが、これだけでも心が和む。言葉を交わさずとも心通わせることができる。
外国人の友人からも、日本人から受けたちょっとした親切がどれだけうれしかったか、よく聞くことがあるし、それを聞かされただけでも心がジーンとなる。
今回の東日本大震災で外国メディアが伝えたに日本人の心の豊かさは、日ごろ培われた「小さな親切」の集大成かもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=zcddMwUvgAU

夏が来れば思い出す

 
初めての本格登山は大学に入って最初の夏だった。
今から思い起こせば無謀極まりない登山で、よく死ななかったものだと思う。
8月だというのに台風が接近していて、名古屋の友人宅で様子見したが一向に動く気配がないのでしびれを切らし、長野県大町から葛温泉に入り、烏帽子岳を目指した。
烏帽子岳の登りは日本3急登の一つの名にたがわず厳しいものだった。5,6時間の奮闘の末たどり着いた烏帽子岳小屋の宿泊登録ができない。住所、生年月日が思い出せないのだ。
翌朝、三俣蓮華から黒部の秘境雲ノ平をめざしたが、体調がすぐれない。何度元の小屋に引返そうかと考えたことか。しかし決断も下せないままただ前進。地図を見ると赤岩岳だったか、途中に山小屋があったので無理をせずそこに泊まろうと歩調も緩めようやく小屋にたどり着いてみると、その小屋はペシャンコ。
これはいかんと当初の三俣小屋を目指すも、折からのどしゃ降り。こんな時、夏山でも発汗による凍死があると聞いていたので、汗をかく動作はできない。右に見えるはずの水晶岳や祖父岳が濃霧で見えない。「雲ノ平」と書いてある道標が下を向いている。完全に道を見失ったのだ。
黒部の源流と思しき清流が水かさを増して濁流になっている。ああ、もうダメかなと、正直このときは思った。しかし前進するしかない。
どこをどうたどったのか、向こうに黄色いテントが見えたときは、これは幻影だ、もうだめだと念押しをしたくらいだ。
日大三高の学生がテントを張っていた。転がり込むように助けを求め、一命を取り留めたわけだ。
翌朝は、昨日の天気がうそのよう。雲一つない快晴。目的地の雲ノ平は昨日の雨で道が寸断されているとのことで断念、双六岳から槍ヶ岳、そして穂高に向かうことにした。
双六岳に着くとまた天候が急転、台風がいよいよ接近し、300人は収容できるという山小屋(小屋かな?)が風でミシミシきしんでいる。夜中には近くのテント場からポールが折れたテントを担いで何組もの登山客が避難してきた。一晩眠れずじまい。
翌日は双六小屋でもう一泊。その晩、残飯をあさりに来たクマを仕留め、初めての熊肉をいただいた。
槍ヶ岳に向かう西鎌尾根は険しかった。台風一過、天気は快晴。岩間から流れ落ちる水は天の恵み、真横で紅雀がぼくを無視して同じように水をすすっている。
槍ヶ岳はお盆ももう過ぎているのに登山客で溢れている。ここでの宿泊は避けて南岳の小屋に向かった。
南岳小屋ではまたまたハプニング。槍ヶ岳の小屋とは大違い。宿泊客は10人いただろうか。夜、東京から来たという女性三人組がぼくのそばで寝さしてくれという。お客が少なくて怖いということだ。女性三人と共寝をしたのは後にも先にもこれだけ。
翌日は最大の難関「大キレット」を越え前穂高、それから奥穂高に向かう。
いたるところにチェーンが張られ、「飛騨泣き」だとか「・・・泣き」という難所が数知れず、右下はるかに新穂高川が糸のようにくねっている。その下からスーッと白い雲が昇ってくる。もう怖いも通り越して、ひたすら次のステップを手探るだけだ。
やっとの思いでたどり着いた前穂高岳の小屋で、一杯50円のお粥のようなカルピスのなんと美味しかったことか。
引くに引けない、次の奥穂高を目指すのみ。
奥穂高のご来光はもう言葉では尽くし難い。
奥穂高からの下りがまたきつい。
眼下すぐ下に涸沢の小屋やテント群を常時見ながらの急坂下りだ。下りても下りても辿り着けない、まるで餌を目の前にぶら下げて歩く犬の心境だ。3時間だろうか4時間だろうか、もう足はピノキオのよう。
われに返ったのは、涸沢の冷たい冷たい水で作った粉末ジュースがのどを通った時だった。

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京都美山を訪ねて

♭♯♭  美山の子守歌 ♭♯♭

琵琶湖の湖西道路(国道161号)の和邇ICから比良山脈を裏にまわると国道376号に出る。京都と福井敦賀を結ぶ通称「鯖街道」だ。
そこから寂光院や三千院で有名な大原の里に向けて京都方面に少し進むと正円寺という寺があって、そこの信号を右に入ると京都府道477号に入る。
急坂あり、九十九折りあり、路面こそ舗装はされてはいるがまさに地獄道だ。おそらく都会では気温30度を越しているだろうから24度は涼しい。
百井の集落はまるでタイムスリップしたような集落で、車に乗っている自分がおかしい。
集落の案内板を見ていると腰の曲がった野良着姿のお婆さんが人懐かしそうに近づいてきた。顔はしわくちゃだらけだが、肌がつやつやしている。なんでも右に曲がると行き止まりだそうで「注意しなさいよ」と優しく教えてくれた。
百井峠を越すと花背の里だ。百井の集落よりは開けているが、ここにも日本の原風景が広がっていた。
「京都花背山村都市交流の森」という立派な施設があって、立ち寄ってみると、どこかの中学校が1週間の合宿に来ているということで施設には入れない。
そこから477号を少し進むと「峰定寺」の案内板があったのでその道に折れる。14,5分進むと一席2,3万円というから足もすくむ料亭があって、その先に峰定寺が凛として佇んでいた。「本山修験宗峰定寺」というから、修験者のお寺なんだろう。横を流れる清流にはイワナの群れが遊漁していた。
また477号に帰り、花背中学校前の交差点を右に折れ府道38号に進み佐々里峠を越すと今回の目的地「かやぶきの里」美山北村集落である。
集落入口に立つ赤いポストが印象的で、梅雨の晴れ間に広がる美山の里にはタチアオイがいたるところに咲き、かやぶき屋根と相まってまさに日本の原風景そのものであった。

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子供たちが病んでいるー精神疾患ー

予備校の教師を辞めてからは、もっぱら家庭教師や自宅に呼んでの個人指導という形が多くなったわけだが、そのせいか、程度の差はあれ何らかの精神疾患を抱えている生徒に出会うことが多くなってびっくりしている。
「そのせい」といったのは、こうした精神疾患を抱える生徒はやはり集団指導にはなじめないから個別指導を望むんだろうし、いきおいそうした生徒に出会う確率は高くなるだろうから、この自己体験をもって若者一般に一般化しすぎてはいけないという自重を込めて言ったわけだ。
が、しかし、事情はそうではないようだ。
20代から40代前半の子を持つ友人、知人が多くなったが、そうした友人、知人の中にも精神疾患を抱えた子を持って悩んでいる人が少なからずいるし、各種統計を見ても精神疾患の患者数は確実に増え続けている。
ここでいう精神疾患とは、統合失調症や躁うつ病といった重度のものから、神経症、パニック障害、適応障害といった中、軽度のものまでの様々な疾患を指すわけだが、もっと軽症の睡眠障害だとか、家庭内暴力、イライラ感、いわゆる「キレやすい」まで含めると、心を患っている若者は相当数いるのではないだろうか。
原因をいつも考えるんだが、様々なことが考えられ、これがという決定的な原因があるわけではなく、それらすべてが複合的、重合的に絡み合っているのだろう。
そんな中でも明確に思い当たるのは、今の若者たちの子供時代と我々の子供時代とでは「遊び」の質がまるで違うということだ。
我々の子供のころは、学校が終わると一目散に家に帰り、学校のカバンを家に放りこむのももどかしいくらい、玄関を飛び出すと近所の子らと道いっぱいに広がって遊んだものだ。塾なんてものはないし(あったのかなあ?)、道に車が通るわけでもない、町のいたるところ、ことに道には子供たちがあふれかえっていた。日が暮れるまで、子供たちの声が町中にこだましていた。
女の子のことはよく知らないが、女の子は女の子でいろんな遊びをしていたし、男の子らは、駆逐本艦、探偵ごっこ、缶けり、肉弾戦、蹴球、胴馬、べったんにビー玉、数え上げたらきりがない。ともかくよく遊んだし、喧嘩もした。
そう、玄関を出たすぐ前の道が遊び場だったということが今とは全く違う点だし、おけいこ事、塾なんてのはあったのかなかったのか、そんなことを気にかけている子なんか、知る限り誰もいなかった。
子供たちもそうだったが、大人たちにとっても道は最大の交流の場だった。時には近所同士が大喧嘩していることもあったが、1週間もたてばその喧嘩相手同士が晩のおかずのやり取りをしている。
今はどうだ。道という道は車であふれ、遊ぶどころか歩くのも命がけだ。家にいても外から聞こえてくるのは車のエンジン音と警笛ばかり、子供たちの素っ頓狂な声なんて遠の昔に聞いただけ。
遊びの質が変わったのは、道が変わったからだ。
今や道は子供たちを分断し、家に閉じ込め、唯一「塾」が子供たちの集う場になってしまった。
そしてこの「塾」も大人たちはどう考えているんだろう。
大人たちは週40時間労働が普通になってきているこのご時世に、子供たちの学校や塾そしてお稽古事の拘束時間は週40時間をはるかに超えている。まるで装いだけを明るくした「蟹工船」だ。
社会全体が子供たちを虐待しているという自覚がまるでない。
これでは気が変になるのは当たり前。まっとうな子ほどおかしくなる。
そして、こんな環境でもめげず「勝ち組」になった子供たちの中に、大きくなると、みなさんご存じのとおり、国民の血税にたかる高級官僚や、「国民の皆様」、「国民の皆様」とやたら偽善者ぶる政治家が多く生まれる。
道の機能が変わり遊びの場が変わったことが、遊びの質を変え子供たちの生活を変え、心に傷を負う子供たちも増えた。これもまた一因だろう。
明日は、「双極性Ⅱ型」とへぼ心療内科で診断された生徒の進路相談に乗ることになっている。