1995年1月17日

 

明け方、激しい揺れに目が覚めた。家がきしみ、つぶれるんではないかと思った。
すぐにテレビをつけると、画面にテロップが流れ、阪神間で震度6前後の地震が起きたと報じている。奈良でもこれだけの揺れだからよほど大きな地震なんだと思った。
間もなく画像が飛び込んできて神戸市内の様子を映している。大きな煙が数か所から立ち上っている。死者が出ている模様。初めはそんな調子だった。
朝食もそこそこに身支度を整えてすぐ家を出た。阪急武庫之荘の教室が気がかりだ。
近鉄は動いていたが、大阪市内の地下鉄は御堂筋線が不通、堺筋線は動いているというので近鉄日本橋から乗り換え、南森町までそれで行った。そこから阪急梅田駅までは歩いて30分ほどだが、途中のことは全く覚えていない。
阪急梅田駅に着くと、紀伊国屋書店の前にある大画面のテレビの前は人だかり。大画面にはやはり神戸の様子が空から写っていて、死者15人と出ている。
駅の張り紙には、「ただ今神戸線は地震のため不通です。」と出ている。ただ今不通なんだから、待てばやがて電車も動くだろうと待つこと2時間。
一向に電車が動く気配はなく、テレビ画面に、死者が50人、100人、200人とみるみる増えていく。これはただ事ではない。周りの人たちにもやっと事の重大さがわかり始めたようだ。
もう電車は諦めて、家に帰って車で行こうと思った。
2時間ほどかかって家に帰り、車に飛び乗って阪奈道路を通り、国道1号、国道2号と辿ろうとしたが、京橋近くの国道1号あたりでもう大渋滞。普段ならそこから20分あたりで行ける国道2号の大阪市内桜橋まで3時間はかかっただろうか。途中、道路脇に立つビルの窓ガラスがいたるところで割れている。もう自動車は1㎝も動かない。後ろを振り向くと、岐阜だとか愛知だとかのぼりを立てた消防車がサイレンだけを流しているがこれも全く動けない。もう車、車で消防車も動けないのだ。諦めた。
普段でもここからさらに小1時間はかかる武庫之荘まで行けるはずがない。
その日の深夜やっとの思いで家に帰りつけた。

新年に思うこと

山から
もしも、愛するリリーよ、お前を愛していなかったら、
このながめは私にどんな喜びを与えてくれるだろう!
だが、もしも私が、リリーよ、お前を愛していなかったら、
ここかしこに幸福を見い出すことができようか。

いまだに諳んじているゲーテ詩集の中の一つである。
自分の感情や感動をどう表現すればいいのか、多感な折のもどかしさを的確に言い表してくれたのがこの詩集だ。ドイツ文学者の高橋健二先生による日本訳が素晴らしい。
日本にも短歌や俳句、そして明治以降の近代詩があってそれなりに素晴らしんだが、恋歌にしてもどうも日本のそれは個人の領域に留まっていて普遍性がないというか、広がりとか深さが感じられない。感情細やかなのはいいんだが魂をゆすぶられるほどの迫力がない。
だから、ぼくなどは文学にしても愛好したのは西洋文学であり、哲学もそうだった。
これは音楽や絵画、芸術万般にわたっていえることで、なぜなんだろうと思う。
ひとつには、受けた教育の影響も大きい。
音楽などはまず西洋音楽から学ぶわけで、日本古来の音楽、なんだろう?雅楽?民謡?筝曲?と今でもこんな状態で、ともかく日本の伝統音楽を学んだことがない。童謡にしろ唱歌にしろ洋楽で、オーケストラとかアンサンブルになるとなおさらだ。
そういえば、小学校のとき、音楽教室の壁に世界の音楽家の似顔絵が並んでいて、その中にひとり日本の滝廉太郎が載っていた記憶があるが、あとでベートーベンやモーツアルトの音楽を聴いて知ったとき、滝廉太郎といえば「荒城の月」しか知らないもんだから愕然としたことがある。
今にして日本の伝統芸術の良さがわかってきたわけだが、まだまだ「西洋かぶれ」から抜け出ていないことを実感することがよくある。
詩にしても、高校時代に萩原朔太郎の「月に吠える」がいたく気に入り、読書感想文でなんやら賞をもらったこともあるが、今は一編の詩も思い出せないどころか、ここに書いた作者名と作品くらいしか記憶に残っていない。朔太郎の少し後だったように思うが、上のゲーテの詩集ははるかに衝撃的で、その後も幾度となく読み返し、多くの言葉を学ん今に至っている。
小説にしても夏目漱石なんかもよく読んだんだが、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ時の衝撃力はまるで別次元だ。
こういう体験はぼく個人の特性によるものか、西洋と日本の文化の根底にある違いによるものか判らないが、これからの日本を考えるとき、文化面だけでなく、社会、経済、政治、外交、軍事、エネルギー、あらゆる面で、よって立つアイデンティティをよりいっそう明確にし、強固にしなければ、これからの国際社会の荒波を乗り切っていけないような気がする。
今の日本を見ていると危うさばかりが目につく。杞憂であればいいが。