恥の文化

 

「恥の文化(Shame culture)」とは、知られているように、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史がその著『菊と刀(The Chrysanthemum and the Sword)』で、欧米の「罪の文化(Guilt culture〉」に対比して提示した日本の文化の型である。
名著の誉れ高い著書であり、それまで捕えがたい日本、日本人と思われてきた日本文化の特質を明確に描き出し、第二次世界大戦以後の占領軍による日本統治に寄与したと同時に、我々戦後日本人の心理形成にも大きな影響を与えたことは事実である。
確かに日本の諺や格言、慣用句には「恥」にかかわる警句や錬言は多く、いかに恥じることのない人生を全うするかはどんな日本人の心にも宿っている。
ベネディクト女史の観察及び指摘は根底に白人優越思想があって、宗教観、特にキリスト教の「Guilt」をバックボーンにした西欧の文化は自律的で正義を重んじ、「恥」を基調にした日本の文化は依存的で常に他人の目が価値判断の基準になると言って、「内面」重視の西欧人の規範が「外面」重視の日本人の規範に勝っているかのように言っている。

ところが今ここにきて、日本の「恥の文化」がその真価を発揮し始め、日本の文化が世界の注目を集めている。
「お・も・て・な・し」で際立った感のある日本人のホスピタリティのすばらしさをはじめ、文化、芸術、アニメ、食、職人芸、ありとあらゆる分野で日本の文化は世界に浸透しつつある。その根底になっているいるのが「人に恥ない」心意気である。
ベネディクト女史が指摘したように日本人は「他人の目」を気にするからこそ恥じないものを生み出しているのだ。
今人の目がなくとも、いずれ人の目に晒される、その時にも恥じないように気を配るのだ。
人が見ていないから手抜きをしようとか、骨休みをしようなんて考えはさらさらない。
人が見ていない時こそ自分を磨き、研さんに励み、もっと高みを極めたいと念じるのが日本人だ。
前のブログでも書いたが、この心意気は今に始まったことではない。日本人が古くから持ち合わせている気質なのである。
だからどんな職種、どんな分野にも達人がいるし、与えられた仕事に誇りを持ち、だれにも負けない技術と知識と経験を持ち合わせ心のよりどころにもしている。
一神教から生まれた自己規範は時には独りよがりに陥りやすい。自分だけが正しいと思い込み、自分こそが正義だと他を制圧する。
日本人にはそれがない。森羅万象なんでも神さんであり、仏さんで、どこかで自分を見守っている。変なことをできるはずがない。

日本は21世紀初頭からバブルのあおりで勢いをなくし、東北大震災に見舞われ、福島原発で類を見ない試練に立たされているが、なんだかやっと光明が見えてきたような気がする。
世界がいま大いに日本を気がかりにしている。チャンスだ。
紅葉の季節真っ盛りの今、外国人観光客が競って日本に押し寄せていると聞く。
どの国にも紅葉はあるそうだが、日本のあの真っ赤な色づきはどの国にもないそうだ。
今年の外国人観光客の数が初めて1000万人を越えそうだというが、それでもフランスの年間8000万にには遠く及ばない。
2020年東京オリンピックはまたとない機会。これを機に世界からもっともっと多くに人が来てくれるよう、日本をもっともっと美しく、居心地の良い国にしなければならない。
福島原発問題。韓国、中国との付き合い方。国内外の問題も山積しているが、何とかこれらを克服して、21世紀の輝かしい日本を築き上げたいものだ。

じぇじぇじぇ

まさしく、じぇじぇじぇ、である。
「朝ドラ」という言葉は知ってはいたし、中でも「おしん」は人気ナンバーワンであることくらいも知ってはいたが、今までまともにこの手のドラマは見たことはなかったし大した関心もなかったが、この「あまちゃん」だけは第1回から最後の第156回まで、およそ3か月くらいかかったが、やっとこの11月17日に観終わった。
iphoneを持ち歩くようになってから、NHKの「オンデマンド」を視聴するようになったが、「あまちゃん」が人気になっていることを知って、暇なときにたまたま喫茶店で見たのが最初だった。
「オンデマンド」なら時間に縛られることはないし、好きな時に好きなように観られるから、第1回目から、時間があれば何回分も連続して観ることもできる。
ドラマ構成のことはよくわからないが、まず出だしの音楽がいい。スッタカタッタ、スッタカタッタとまずこのリズムに引き込まれる。
俳優のことも宮本信子を知っているくらいで初めて見るような俳優ばかりだが、色とりどりのあくの強そうなキャラクターを持ち合わせた俳優たちが十二分に持ち味を発揮し、主演の能年玲奈の素人っぽさと言おうか、地のままの明るさを際立たせ、視聴者との距離感を縮めたのが人気の原因ではないかとも思った。
笑いあり、涙あり、どこにでもあるような日常性が大げさにあぶり出され、パアッとはじけるようなハチャメチャ振りも、東北大震災以来塞ぎがちな国民感情の鬱憤を払いのける効果があったのではなかろうか。
朝の15分のドラマだそうだが、それゆえか、どの場面にも見せ場があり濃い内容で、よくもまあ150回も160回も綴り合せられるものだと感心もしたし、見直しもした。
ドラマの感想をどう書き表しらいいのかよくわからないが、観終わって、心が明るくなったのは確かだ。

年齢差別 ―エイジズムー

ある日生徒が新聞の折り込み広告を持ってきた。市内中学の「学習支援ボランティア」の募集広告である。
応募要項があって、氏名、住所、電話番号の欄にはもうすでに僕のことが書き込んであって、これを出してもいいかとその生徒が聞く。
空いている時間があればああいいよと気軽に返事をしたんだが、先生歳幾つだと聞かれたとたん体が硬直した。
年齢欄があって僕の歳がわからないから今書き込むというんだが、また来たか、これを聞かれることがいちばん苦痛なんだよ。
「年齢不詳」と書き込んでおけと言ったら、生徒は怪訝そうな顔で「不詳」という漢字がわからないからひらがなで書き込んでいた。
別に望んで応募するわけでなし、そんないい加減なことでいいんかなと思ったりもしたんだが。
そんなこともすっかり忘れていたころに近くの中学校の校長から招請があってあらためて自分の不真面目さに反省した次第。

よく女性に歳を聞くほど野暮なことはないというが、男だってぼくくらいの歳になるとそれは嫌なことだ。苦痛以外の何物でもない。
アメリカに長く滞在したことのある親戚に何かの機会にこのことを言ってみたら、アメリカでは早くからagism (ageism)という意識があり、もうすでに1967年に年齢差別禁止法(ADEA)が制定されていて、使用者が履歴書や応募書類に応募者の年齢や生年月日を記載させることはできない。そのためアメリカの応募書類に年齢や生年月日の項目はなく、面接の際にも年齢を聞くことは禁止されていたり、事前の写真送付さえ禁止されているというから徹底している。
さすがアメリカだ。
人種のるつぼといわれるアメリカだから差別意識も多様で根が深く過敏にならざるを得ない事情もあるんだろうが、その分人権意識も高く、この点でも確かにアメリカは世界をリードしている。
日本はというと、2007年にやっと「雇用対策法」でそれらしい法律はできたものの、履歴書では生年月日及び年齢を書くのはいまだに当たり前、年齢は人を雇う際の重要なポイントにもなっている。
それではヨーロッパではどうなのかと調べてみたが、EUでも2006年になって初めてすべての加盟国が年齢差別を禁止する法律を制定したというから、日本だけが年齢差別後進国でなかったわけだ。

1970年代まで「定年」といえば55歳というのが常識で、それが60歳まで延び、今では60歳で定年を迎えた社員のうち希望者全員の65歳までの継続雇用を義務付ける「改正高年齢者雇用安定法」が今年4月から施行されたが、内実は以前と全く変わらない。
日本人の平均寿命も男性に限っても100年前で42歳前後、50年前で60歳、今や80歳の一歩手前まで延びているから、100年前と比べたらおよそ2倍に伸びているのである。
無聊を託つ(ぶりょうをかこつ)」という言葉がいつからできたのか知らないが、そんなことを口にする友人や知り合いが最近急速に増えてきた。こうした年齢と雇用制度、その意識のギャップがますます拡大してきている証拠だ。
働きたくとも働けない。実に残酷なことだ。
年金制度がいくら充実しても「人はパンのみにて生きるにあらず」、まさに「人は社会的動物なのである」。