夏休みの宿題

夏休みもお盆を過ぎると、また学校が始まること、とりわけ、出された宿題のことが気になることだろう。
「気になることだろう。」と他人事のように言うのも、自分の小学校、中学校そして高校生のころ、宿題は出されたんだろうがそれがどんなものだったのか、この歳になると、もうまるで思い出せないからだ。
ぼくのように長年教育に携わってきた者、この年頃のお子さんをお持ちのお母さん、お父さん以外の人にとっては、「宿題」という言葉を投げかけられなければ、それほど関心のある問題ではない。
でも日本人である限り、この宿題に取り組まない者はなかったはずである。

さてこの宿題、果たしてどれだけ意味のあることなのか、真に問われないまま、ただ惰性的に、親も教師も、社会とは言わないまでも、およそ教育に関係のある者まで、見過ごしてきているのが現状だし、それでいいのだろうかと問い直したい。
結論から言えば、ぼくは宿題無用論者だし、むしろ有害論者だといっていいい。
それでも毎年毎年、家庭教師をしているぼくは、特に夏休みに出される学校の宿題では生徒と悪戦苦闘、無用論者、有害論者の信念を投げ捨てて、何とかその宿題の提出期限に間に合うよう、生徒を励まし、奮闘努力しているのである。
夏休みの「休み」にいったい何の意味があるんだろうとつくづく思う。
学校によっても、また地域によっても、はたまた受験その他の条件によっても、宿題の事情は様々なんだろうが、一般的に言って、これ、つまり「宿題」も子供虐待、児童虐待の何物でもないケースが多いんじゃないだろうか。ぼくの最近見てきた生徒は、多く、そういうケースに当てはまる。
勉強のできる子にとっては邪魔だし、できない子にとっては地獄だ。どれだけの生徒がこの宿題に有意義を見出しているだろうか。

思うに、この「宿題」も日本独特なもので、富国強兵、国民皆教育のもと、明治維新から引き継がれた国家目標を達成すべく教育現場に持ち込まれたもので、個性よりも集団、自由よりも平等を重んじた産物なのだろう。
今の日本を見るとき、日本の教育制度は決して間違ったものでなかったこと、むしろ世界に誇れる様々な事象を生み出したことは確かだ。
だが、今は違う。これからの日本が歩むべき道は違う。
教育水準の高さは世界に冠たるものはあっても、その内実は制度疲労を起こし、理想高き明治の教育理念に胡坐をかいていることおびただしい。

ここに取り上げた「宿題」は、単に宿題されど宿題程度の話題かもしれないが、教育の現状を憂えるぼくにとっては、皆にもう一度考えてほしい問題である。
白雲がもくもくと湧き上がる空のもと、海に山に思いっきり若さをぶつけ、数学のこと、英語のことはひと時忘れ、英気を養う時こそ、夏休みなのだ。
それでも勉強したいヤツは勉強すればいいし、ボーっとしたいヤツは1カ月間ボーっとすればいい。
誰からも指図されず、自分の過ごしたいように過ごすからこそ、夏休みには意義がある。

家庭教師が見た一例

ある年の夏、A君の家庭教師を頼まれた。
大阪でも指折りの進学校で、中高一貫教育が基本であるが高校からも入学でき、A君は高校から入った。
なんでも、高校からは130人入学し、1年後には30人が脱落、A君はかろうじて退学は免れたが、残った100人の中で成績が最下位であるという。
夏休みの宿題がどっさり出され、その課題テスト次第で退学させられるのか、退学せざるを得なくなるのか、ということで家庭教師を依頼されたわけだ。
この高校、偏差値が70を越えなければ入れないというから、中学では相当頑張ったのであろう。おそらくトップクラスにいたはずだ。
ところが最初見た限りではその片鱗もなく、どの科目もどの科目もひどいもの。数学も英語も、物理も化学もまるで基礎ができていない。
理由を聞くと、高校に入ってすぐは勉強が手に着かず、そうこうしているうちに瞬くうちに学校の勉強についていけなくなったという。何度も立て直しを図ったけれどももうどうにも追っつかない。半ばあきらめて今に至っているとのこと。
おそらく脱落した30人も同じ経緯を辿ったに違いない。
そして、今回出された夏休みの宿題が、これがまたどの科目も過去に出された入試問題で難問揃い。A君に解けるわけがない。しかも大量にだ。
一題一題を解くためにすべて基礎から掘り起こさねば理解できないし、解けない内容だ。
こんな宿題をA君のような生徒に出して何の意味があるんだろうか。おそらく、もうこの学校から出ていきなさいよ、という魂胆ありありとしか勘繰らざるを得ない内容である。
初めは、それでも、家庭教師が付いたことだし何とかしようとA君も頑張ってはいたし、こちらも何とかしてやろうと努力したんだが、1週間が経ち、2週間が経つうち、A君の勉強態度に投げやりな姿勢が目立つようになり、こちらに対する態度や言葉づかいにも刺々しさが目立ち始めた。
それだけではない。しばらくはこちらがどう働きかけても虚ろに一点を見つめているだけで何の反応もなく、突然ふっと我に返ったようにノートを見て何か書こうとするが先に進まない。変に言葉をかけてもとじっと見守っていると、突然「ここがわからん!」とこちらを睨みつけて怒鳴るように言う。「切れる」という言葉ぴったしの表情だ。恐怖さえ感じる。先ほどあれだけ丁寧に説明したことをまるで覚えていない。
ここまで来ると、もう単に勉強を教えるというだけでは済む問題ではない。A君の言動や態度から判断していわゆる「パーソナリティ障害」が疑われる域に達している。
A君のお母さんに事情の一部始終を説明して、これ以上の指導は困難なこと、勉強のことよりも精神的なケアの必要性などを申し上げて家庭教師を辞退させていただくことにした。

A君だけではない。人間形成において勉学、中でも学校教育の歪みから様々な障害を生み出しているケースが増大しているのは確かだ。
最近多発している若年者の痛ましい事件もこうした歪みが原因の一部を担っていることは十分考えられる。
多くの生徒や学生は様々な困難を克服しすり抜けながら社会生活に適応していくわけだが、中には挫折して心身に傷を負い、一生涯その傷を癒すことができない者もいる。
そんな時、学校の果たす役割は重要であるが、果たして今の学校は人間形成の場としてその役割を果たしているであろうか、大いに疑問である。
特に気になるのは、将来大学進学を目指すのに、6年一貫教育を標榜する有名校が有利として中学受験を目指す向きが多いが、大人が考える以上に子供たちは真剣で、重大事として受験に臨んでいるのであって、そこで挫折した傷は大きい。そういう生徒たちもたくさん見てきた。
通ればもうけもの、落ちてもともと、といった安易な気持ちで受験する子供たちは決していないことを銘記すべきである。