優希、がんばれ!

 

今日1枚の写真がメールで届いた。
信州白馬村のホテルでアルバイトをしている教え子からだ。IMG_5318
教え子といってもほんの4か月しか、それも正味2か月ほどしか教えられなかった生徒である。
彼女は四国にある全寮制の高校を首席で卒業し、東京の私立大学の獣医学部に学校推薦で入学したんだが、根がまじめな彼女には、何かと派手な周りの学友たちとはなじめず、また、大阪でも泉州という最も古い気質の残るところに産まれ育った彼女には「東京の空気に全く馴染めず」、入学してから3か月くらいで宿舎に閉じこもるようになったそうだ。自分でもなんとか授業に出ようと努力はしたものの足がすくみ、せっかく四国から心配で駆けつけてきてくれたボーイフレンドにも会わない、そんな生活が続くうち、音信も途絶えがちな娘を心配して上京したお母さんが、娘のあまりの変貌ぶりに、このまま東京にいることは良くないと大阪の実家に連れ戻したという。病院ではうつ病と診断が下された。
動物好きの彼女は、獣医師になる夢は捨てきれず、地元大阪にある府立大学獣医学部を再受験するということでぼくのもとにやってきた。
大阪府立大学の獣医学部は関西でも最難関に数えられる大学で、高校では英語を主体にした文系コースに所属して、卒業間際にたまたま舞い込んできた獣医学部の指定校推薦に応募したところ、成績が一番ということでくだんの大学に入った経緯から、理系科目はほとんど取り組んでいない。
それでも彼女の意志は固く、1年目はともかくとして、2年で合格を目指し勉強を始めた。
毎日5時間、月曜日から土曜日までぼくのもとに通ったんだが、授業料だけでも大変な額になる。
中小企業のオーナーであるお爺さんがスポンサーになって応援してくれるという。そのお爺さんは、獣医師になるよりいっそのこと医師はどうかとしきりに勧める。ぼくもお爺さんに賛成だ。ということで間もなく徳島大学の医学部を目指すことになった。
英語は、カナダにも1年留学していたこともあって、通訳はできるし、受験英語も9割がたの点は取れるから、後は理数科目をどれほど伸ばせるかだ。
しかし、よく勉強した。最初の2か月の勉強ぶりと科目の上達ぶりはたいしたものだ。久しぶりでぼくの教師根性が掻き立てられた。
ところがところが、3か月目に入って矢が折れるようにパタッと動きが止まった。勉強中に突然思考停止になる。うつ病の再発だ。しばらく休もうと促すが、それでも何とか前に進もうとする彼女が痛々しい。それからの2か月は、勉強半分、語らい半分。生きるということ。勉強するということ。結婚とは。女性にとって仕事とは。そもそもうつ病とは。等々。孫にも近いこんな女性とこんなに話し込んだことはない。
人生そんなに焦ることはない。まだまだ若いんだから。きっと再起できるよ。やっとぼくの忠告を受け入れたのは2か月先だった。

それから1年。彼女からメールが来た。
「お元気ですか。先生には本当によくお世話になって、出会えて良かったなあ。と、日を増すごとに感じております。短い間でしたが、本当に濃い時間を過ごさせていただき、たくさんの勉強をさせていただきました。先生に出会えたことに感謝です。」
信州のホテルからだった。最近は外国人客が多く、今冬のスキーの真っ盛り。英語を生かして外国人の接客をしているという。

今日届いたメールは写真の通り。夏の真っ盛り。
白馬の峰々が写っている。
「今日は朝から仕事です。写真ありがとう。青春の日々が蘇る思いです。写真に写る稜線を幾度辿ったことでしょう。悲しい思い出もあります。稜線のいちばん左にある《不帰のキレット》で友人が亡くなりました。22歳でした。優希さんと同じ年頃です。羨ましいなあ。優希さんにはまだまだこれから夢がいっぱいある。元気で楽しく精一杯生きて下さい。」
ぼくが今しがた送った返信である。

そうめん

 

今日は7月1日。2015年も半分過ぎてしまった。
「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声。」
高校の時漢文で習った朱子の「偶成」であるが、その時からずっと頭から離れず、事ある毎にふっと頭によみがえり口ずさんでしまう。
少年の時だけではない。この歳になっても、いや、この歳になったからいっそうなのか、時の過ぎ行く速さだけは嫌というほど思い知らされている。
ただ「学成り難し」の部分は大いに疑問である。
学が成就したからではない。成就させたいだけの目標と希望が見当たらないことに忸怩たる思いが残るからだ。
どこかに人生の終焉を意識して、諦観が巣食い始めているからだろうか。

先だっても、小説家の五木寛之氏が出した『好運の条件―生き抜くヒント―』を読んだが、実に淡々としたものだ。
ある意味、功成り名遂げた人だからかもしれないし、80歳を越えられている歳のせいかもしれない。
「幸運という言葉よりも、好運のほうが私は好きだ。」という氏は、「99%の努力と1%の好運」という考え方に素直に納得できず、今まで生き抜いてきた日々を振り返り、その好運多きに感謝するばかりだという。そして今は、「生き方」よりも「逝き方」を考える時代にさしかかっているのではないか、と人生の終末を迎える心構えを語っている。

諦観が巣食い始めているという実感はあっても、まだ五木氏のような淡々とした心境にはなれない。人生の終末を迎える心構えもない。
自らの学成り難しという目標はなくとも、後生に託す思いはまだまだ強いから、日々格闘である。好運よりも努力を強調する毎日である。

そんな中、今日そうめんが届いた。
話題がガラッと変わって恐縮だが、そうめんこそ我が人生。
朱子の「偶成」に触発され、勉学にいそしんでいた高校y時代にこのそうめんと出会ったからだ。
両親が働いていて、大叔母が食事の世話や様々な親代わりをしてくれていたが、高校時代はともかく腹が減る。
特に夏休みになると、一日中家にいて勉強だから、腹が減ってしょうがない。
そんな時に、お中元だったかどうか、たまたま木箱入りの三輪そうめんを頂いた。
お盆までは開けてはいかんと言われていたが、腹のグーには勝てない。
後でばれないようにそっと三把そうめんを抜き取って、冷やしそうめんにして食べた。その美味しかったこと。
その美味しかったことがいまだに忘れられないから、よっぽどそのそうめんが美味しかったのか、それほど腹を空かせていたのか。
爾来半世紀以上そうめんを欠かしたことがないというから、他人が知ったらちょっとした偏執狂、病人だ。
夏は冷やしそうめん、冬は煮麺。それもほとんど具を入れない。具が邪魔になるのだ。
中国に滞在した時にも日本のそうめんを持参したが、具も何もいれずただネギだけを入れて食べる冷やしそうめんには中国人もびっくり。
日本人の食事はなんて貧相なんだ。可愛そうにと同情してくれる始末。

五木氏も上の本の中で、食事のことも多く語っているが、「君がどんなものを食べているかをいってみたまえ。君がどんな人間であるかをいってみせよう」というフランスの大食通、ブリア・サヴァラン(18世紀のフランスの政治家で『美味礼讃』を著し有名)の有名な文句を引き合いに出して、氏は自分なら「君がどんなものを食べているかをいってみたまえ。君がどんな時代に生きたかをいってみせよう」といって、昭和の時代を生き抜いた五木氏ならではの食の歴史を語っているが、そうめんを語っても時代を語り、文化を語ることもできる。

昨日からやっと梅雨らしい雨も降り、待望のそうめんが届いた7月1日。時の流れとそうめんと、何のゆかりがあるのやら。ふと語りたくなった次第。