幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
秋の山道を歩いていると、頭の中でこの歌を口ずさんでいる自分に気づく。それもはっきりとした口調で口ずさんでいるんだ。
いつのころからか、ずいぶん昔から、何かした拍子にふっとこの歌が頭をよぎる。
たぶん中学生か高校生のころに学んだんだろう。
今となっては作者の名前すら思い出せず、この機会に調べてみたら若山牧水の歌で、旅の途中、岡山から広島に抜ける道すがらに浮かんだ歌だそうだ。
宮崎県の医者の息子に生まれた彼は、42歳の短い生涯ではあったが、旅の明け暮れで1,000を超える歌を詠んだという。
この歌を詠んだ2年前、上田敏の名訳で日本人の多くの心をとらえたカール・ブッセの「山のあなた」が紹介され、牧水は深く心を動かされたそうで、瓜二つと言っていいくらいよく似ている。
それにしても寂しい歌だ。
寂しさの終てる国を求めて旅をする、幸せがあるという処を探して山を越える、このこと自体実に行動的でアグレッシブなことで寂しくなんてないはずなんだが、実に寂しい。
「寂しさ」という言葉に引きずられるからだろうか、「涙さしぐみ」という言葉に引きずられてしまうからだろうか。
寂しい心が読むから寂しいだけで、実はその反対で、読み方によっては明るく幸せな未来を啓示すると思えば寂しくも何もないんだろうか。
古今東西、こうした漂泊の歌は多く、人の心に深く染み込む。秋ともなればなおさらだ。
この世に生を受けて、幾山河を踏み越え、荒波に打ちのめされ、いずれ朽ち果てるおのが運命を知る人間だけが知る寂しさに共感を覚えるからだろう。
一時のセンチメントに浸れることは幸せの証しなのかもしれない。
シリア難民の報道を見ていると、まさしく幾山河を超え、海を渡り、幸せを求めての旅路、いや脱出行ではあるが、一分のセンチメントもないだろうし、感じ取れない。
能因、西行、芭蕉、宗祇、日本にも幾多の漂泊詩人が生まれた。牧水もそうだろうし、山頭火もそうだ。
いつも思うんだが、その原点をたどれば、行きつくのはヤマトタケル。
大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる大和しうるわし
兄を殺し、征西に東征にと、その生涯を殺伐に明け暮れた彼が、幸いの地、大和を目前に生涯を閉じた辞世の句に、大漂泊の詩人を見て取れる。