余命いくばく ― 方丈記再読 ―

☆★☆ 方丈記 朗読 ☆★☆
 

『住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 

方丈記、冒頭の一節である。

高校生の時、この方丈記を初めて読んだ時の衝撃と言おうか、感動と言おうか、今でもこうして読み直してみて、また新たな思いでよみがえってくる。

自我に目覚め、我思うゆえに我あり、己を客体化して眺めることができるようになった時、そして「死」というものがとてつもない恐怖として感じ始めた時に出くわしたこの長明の文章は衝撃的であった。

しかしその時の死の恐怖は、その恐怖にも立ち向かっていくぞという、力強い生への決意と裏腹である。いわば、大海原を前にして、これからどんな大嵐に遭遇し、ひょっとしたら命を失うかもしれない、しかし船出するんだという果敢な決意を秘めていた。

だから、この長明の一節を読んだとき、なるほど死の恐怖を感じさせられはしたが、一面、その美文に酔い、死への陶酔さえ感じられる余裕すらあった。

今は違う。死は差し迫った現実だ。

 

今日、高校生と話していて、iPhoneにおもしろいアプリケーションがあるからダウンロードしろという。

なんだと聞いたら、余命を予告するプログラムで、それによると彼の余命は60年だそうだ。今彼は16歳だから76歳まで生きられるという。60年は短い。もっと生きたいと彼が言うんで、そんなこと信じるな、もっと生きられるよ、と励ましたが、まだこれから60年も生きられるなんて羨ましい限りだ。

ぼくなんて怖くて怖くて、こんなアプリケーション、ダウンロードできるはずがない。そこに突き付けられた余命は長くても知れているわけで、短かければショックでその場を取り乱すかもしれない。

いいよ、と断ると、察しのいい彼はすぐ別の話題に切り替えたが、はしなくも、最近どうも体調が思わしくなく、病院通いが増えて、その都度胸をよぎる「死」が、16,7歳前後に感じた「死」とは全く異質で、「美」のかけらもない現実なんだと改めて感じさせられた次第である。

 

余命いくばく ― 方丈記再読 ―」への4件のフィードバック

  1. ゆく川の流れはたえずして しかももとの水にあらず よどみにに浮かぶうたかたの かつ消え かつ結びて・・・高校生のころって どうしてこんなに記憶力が良かったのでしょう いまはもう 昨夜のおかずすら忘れている自分がいます

  2. K TOSSYさん、これも神様のご配慮。高校生の時のように神経が研ぎ澄まされていたら、とっくに気がふれてしまっていますよ。昨日と同じおかずもおいしくいただけるのもおなじ、そうでしょ。

  3. 余命いくばく・・・最近 お体の調子おもわしくないとおっしゃってましたが、まだお元気になりませんか?おっしゃるように若い時の「命」に対する感情が変わりましたよね。私の祖母や父が何となく発した言葉の意味や気持ちが解る年齢になってしまいました。いやいや 今はそれでもまだかろうじて50代。「まだまだ 裕子にはほんとに私の気持ちはわかっとらんよ」と父がいっているかもしれません。こういう感情はやはり歳を重ねた者同士にしか語れないと思いますね。

  4. 昨年あれだけ大騒ぎになった「豚インフルエンザ」はどうなったんですかね。まさかそのぶり返しの兆候でなければいいんですがね。くわばら、くわばら。大騒動の旗振り役マスコミも、例によってもうすっかり忘却の彼方にですね。

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