集団的自衛権と憲法解釈

戦後70年、もう70年もたってしまったんだ、日本は歴史的転換点を迎えている。
日本国政府はこれまで憲法第9条について、「自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められている」ものと解釈し、日本の自衛権については、「個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権は憲法の容認する自衛権の限界を超える」との見解を示してきた。
個別的自衛権の行使も、1954年の自衛隊発足に当たり認めたもので、日本国憲法が発布された1947年(昭和22年)5月3日以来認めてこなかったものである。
そもそも日本国憲法が時代を超越したと言おうか、世界の現実を超越した非常に理念性の高い憲法で、70年間一言一句も変えられることなく保持されてきたという、世界では類を見ない、これはこれで「世界文化遺産」に登録されてもいいような理想的憲法なのである。
世界主要国の戦後の改正回数を見てもわかるが、アメリカが6回、イタリアは15回、フランスが27回、ドイツに至っては58回も憲法改正を行なっているように、世界の憲法は時代時代に順応できる態勢になっているが、日本はそうではない。法体系における憲法の次元が日本と外国とでは異なるように思える。
この違いには、日本と諸外国の法概念と言おうか法観念の根本的な違いがあって生じるもので、これはこれで考察するのも面白いが、いまはさて置く。
この理念性の高い日本国憲法のもと、理念よりも時には理念とはかけ離れた世界の現実に対処して行くには「憲法の拡大解釈」に寄らざるを得ないのが、時の政府であり、ひいては日本国民なのである。その象徴的なのが「憲法第9条」の解釈ということになろう。
この憲法第9条はどう見ても「日本は戦争をしません。だから軍隊を持ちません。」という内容である。理屈を捏ねまわしてあだこうだとはいうが、中学生や高校生ならこう解釈するだろうし、その解釈が一番まっとうな解釈である。
しかしそう解釈したのでは国が立ち行かぬから、ああだこうだと理屈を捏ねまわし、いまや「集団的自衛権」行使容認は現行憲法上許されるか許されないか国論を二分している。
個別的自衛権を守るために自衛隊という軍隊を持った時から憲法第9条からは逸脱したのであり、今回の集団的自衛権行使の容認もその延長上と言おうか必然的に起こりうることであって、現行憲法を改正しない限りその矛盾性は解消しない。
このことは世界にも類を見ない理想的憲法を持った日本、および日本国民の宿命であり、理想と現実をどう調和させていくのか、あと30年も経てば第二次世界大戦100周年という節目になるのだが、その時日本はいかなる国になっているのか、なっていなければならないのか、この「集団的自衛権」問題を皆で真剣に考えていきたいものである。
最後にぼくの立場は「集団的自衛権」行使容認には賛成である。

124万人 ―車社会からの脱却―

冒頭に掲げた124万人は世界の交通事故死者数である。ここで言う交通事故とは車による事故のことで、飛行機や列車の事故は含まない。
ちなみにこの124万人とはどの程度の数なのか相対的に見ておくとよくわかる。
一昨日6月28日は世界第一次世界大戦が勃発した日で、今年でちょうど100年になるが、その死者数はおよそ2600万人。この数はそれまでの戦争や内乱の犠牲者の総数を上回るとてつもない数で、次に世界大戦が起こったら地球上の人類が絶滅すると思われたくらいに衝撃を与えた数なのである。それにもかかわらず50年もたたないうちに起った第二次世界大戦は第一次世界大戦の2倍を超えるおよそ5400万人の犠牲者が出た。
この二つの数は歴史上突出した数で、124万人に近い数で言えば、2013年の日本の出生数が102万人、死亡者数が126万人、中国内戦(1946~49)120万人、朝鮮戦争(1950~53)125万人、ベトナム戦争(1955~75)は少し多くて209万人。
こう見てくると世界の交通事故者数124万人は真剣に考えてみなければならない数であることがよくわかる。

20世紀は様々な革新がもたらされ、人類に多くの幸いを与えたが、逆に多くの不幸も生み出した。
車もそうである。
蒸気機関車から始まった鉄道、プロペラ機からジェット機など20世紀の交通手段はどれも目を見張る発展を遂げたが、中でも最も身近で便利な車は世界のいたるところで利用され、先進諸国は言うまでもなく、発展途上国でも車なしでは生活できないまでに普及した。
2013年の世界の車生産台数は8700万台というから、車の保有台数になるとおよそその10倍、8億台というから、おおざっぱにいっても世界の10人に一人は車を持っているわけだ。

車は鉄道や飛行機とは違いどこにでも移動でき、人と一体なったなったような移動手段でこれほど便利なものはない。
しかし、身近で便利なゆえに、ちょっとした不注意やとんでもない使い方をされたら、これほど恐ろしい凶器はない。
軽い車でおよそ1トン。時速たとえ10kmで人に当たったとしても、じゅうぶん人を死に至らしめる恐ろしい存在なのである。
それが学童の列に突っ込んだり、繁華街で人をなぎ倒す事件が最近相次いでいるが、たまったものでない。
中国の天安門前で起こった暴走車の映像が公開されたのを見たが、あれはもう悪魔の沙汰だ。
しかし本当に怖いのは、そんな異常な事故ではなく、どんなに正常な人であっても一瞬にして人の命を奪ってしまう車の恐ろしさである。
冒頭に掲げてた124万人の犠牲者はその80%以上が「通常の交通事故」の犠牲者なのである。

20世紀の車社会は、余りにも車中心に発展しすぎた。
以前にもこのブログで取り上げた(未来都市 ― ヒントは「道」―)が、
21世は、もう手放すことができなくなった車を生活の中でどう位置付けるか、皆で真剣に考えていかねばならない。

大胆な提言ではあるが、少なくとも1平方キロメートルの居住区には絶対に車を入れない、そんな地域ブロックをたくさん作り、それでいて車もうまく利用できる、おおざっぱではあるが知恵を出せばそんな都市作りも考えられるのではないだろうか。
日本では幸いなことに、ピーク時17000人であった交通事故者数が今や5000人を割っている。これはこれでいいことだが、問題なのは車中心の道作りがコミュニティー社会を分断し、それからいろいろな現代的諸問題が発生しているということ、それをいかに解決し、昔のように豊かな人と人の交流社会を作り出すかということである。

中古のサッカーシューズ

明日6月15日午前10時、2014年ブラジルワールドカップ、日本対コートジボワール戦がいよいよキックオフである。
できることなら日本よ、勝ってほしい。全力で応援するつもりだ。

昨日、家庭教師先の中学2年生とそのことを話しているうちに、たまたまどちらもが観たテレビ番組が話題になった。
先日9日に放映された番組で、岐阜のNPO法人「ぎふ・コートジボワール」が2008年以来続けている「コートジボワールの子に運動靴を贈ろう」運動が、今回偶然にも両国が対戦することになって取り上げられた番組である。
岐阜市の生花店経営、NPO代表の杉山利夫さんと同市内に住むコートジボワール人、カク・ブル・ジョージさんの友情から生まれたこの活動は輪を広げ、今では全国から届けられた中古の運動靴は3万足にも上るという。
この4月にはさらに4トントラック2台分、運動靴とスパイクシューズに分類し、汚れを取り除いて船便で送った約1万足を、カクさんが現地を訪れ、子供たちに分配する様子がテレビで流された。
普段は草履ばきがせいぜいの子供たちは大喜び。
一人の少年が貰ったサッカーシューズの後ろに「棟近」という名前が書いてある。その少年はカクさんにそのわけを聞き、すかさず「ムネチカくん、ありがとう。大切に使います。」とテレビ画面に感謝の言葉をする。

中学2年生も感動したという。
話題は広がり、今ちょうど世界地理を勉強しているというので、先生(ぼく)が中学生の時は世界の人口は約30億人、50年後の今2013年には72億人に達していて、そのうちの10億人は慢性の飢餓状態にあるということ、まともなな飲み水もなければ、学校はおろか、学用品もない、日本では考えられないほどの極貧状態の人達を合わせると世界人口の半分にもなるというと、中学2年生、うっすらと涙を浮かべている。

思うに、今教育問題がしばしば取り上げられ、教育改革がどうの、学力低下はゆゆしき問題だ、いじめの問題は学校が悪い親が悪い、兎も角かまびすしいこと限りないが、どれもこれも視点が小さく小賢しい。
大切なことは教育の内容で、子供たちにもっと大きな視点を持てるように、生きていくうえで大切なことは本当は何なのか、世界が平和であるためには極貧状態にある40億人の人たちとどう向き合っていかなければならないのか、一言では言い表せないが、もっともっと違った視点から考え直さなければ、「人を殺せば死刑になれる」と考える子供、いや大人までもますます増えるのではないだろうか。
つい最近も、日本の子供たちは世界の子供たちと比べると、際立って自信を無くしている、しかし際立って社会のために尽くしたいと考えているといった調査結果を目にした記憶があるが、こんな子供たちをどうか大切に育てていきたいものだ。

・NPO法人ぎふ・コートジボワール https://www.facebook.com/pages/NPO%E6%B3%95%E4%BA%BA%E3%81%8E%E3%81%B5%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB/186337734792191
・コートジボワール日誌(在コートジボワール大使・岡村善文氏のブログ) http://blog.goo.ne.jp/zoge1/e/4e6bc1a4ac7289403b8cf8a36c1a6c0d

花の色は

 
「花の色は」とくれば、
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
という小野小町の歌がまず思い出される。
しかし今回取り上げたいのはこの歌のことではなく、まさしく花の色の美しさとその発色の仕組みそして不思議のことである。

この20世紀と21世紀は歴史上科学がもっとも発達した世紀で、神羅万象に科学の目を向け、驚くべき発見とその応用が極限にと思えるほど発展した時代である。
晴天に恵まれた今日、近くの公園に出かけた。
バラが満開の時期なのでそれを鑑賞したい思いからだ。
バラといえばイメージするのは深紅の薫り高いバラだが、目に飛び込んでくるバラはもちろん深紅あり、白あり、赤があり、ピンクあり、黄色あり、それも濃淡さまざま、混ざり合ったもの、そのバリエーションには驚かされるばかりだ。
いったいこの色はどのようにして生み出されるのだろう。ふとそういう疑問が生じた。
こんな疑問を抱かれた方もきっといるだろうし、昔にもいたはずだ。
早速家に帰ってパソコンを開いてみるとちゃんと答えが載っていた。
その答えは100%とはいかないまでももうかなり解明されているから驚きだ。
http://www.naro.affrc.go.jp/flower/kiso/color_mechanism/
ここには花のさまざまな色の発色機構が詳しく説明されている。
花を発色させる主な色素は、フラボノイド・カロテノイド・ベタレイン・クロロフィルのグループであり、その総数は数千にもなるという。
さらに人は品種改良や遺伝子組み換え技術またはDNAを変質させる突然変異の利用などを通して人工的に花の色を変えることさえできるという。

そもそも植物が色とりどりの花を咲かせるのは種族保存のためであり、虫や鳥に授粉や種の拡散を手助けしてもらうために精一杯におめかしをしているのだ。
そのおめかしに人は心奪われ、花に酔い、花を贈り、花を手向ける。なんと最近の研究によると、ネアンデルタール人ですら花を死者に手向けていた形跡があるという。
特に日本人と花の結びつきは深い。
万葉集4500首のうち1500首は花や植物の歌であり、19世紀半ばに日本にやってきたスコットランドの植物学者ロバート・フォーチュンは「日本人の国民性の著しい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。・・・。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階層の人々と比べると、ずっと優って見える」と感動の目で日本人を見た。

今日、この晴れた日のバラ鑑賞が図らずも花の発色のメカニズムを知ることとなり、現代の科学発展の素晴らしさと、良き国に生まれた幸せを感じることとなった。
と最後は締めくくりたいんだが、小町さんの歌が妙に引っかかるなあ。

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山陰は明るかった

 
ゴールデンウイーク中の4日間、久々に連休が取れたので山陰地方を巡ることにした。

噂の竹田城、天空の城として今人気のスポットだが、ちょっとミーハー気のあるぼくは先ずここを訪ねたいと思っていたことと、長年一度は行ってみたいと思っていた萩が結びついての山陰旅行と相成ったわけだ。
途中にも、兵庫の生野銀山、松江から出雲大社、世界遺産石見銀山、石見の柿本人麻呂事績、まだ訪れたことのない場所がいっぱいあって、できたら訪れてみたいとの胸ふくらませての旅立ちだ。
旅程、車でおよそ600km、往復で1200kmだから、4っ日間3泊で行くには少し無理があるかもしれない。
いつものことながら、高速道は利用したくない。ただひたすらに目的地の向かって走るだけで、途中の景色を見るゆとりもなければ、寄り道してみる面白さもないから嫌だ。車での旅は一般道に限る。

とりあえず、生野銀山と竹田城はそれほど離れていないので一日目はここを目標にと出発した。
このあたりには友人の家もあったし、西国33か所めぐりや城崎温泉なんかにも何度か行ったこともあったので知らない場所ではなかったが、竹田城のことは今回初めて知った。
2、3年前だったか、NHKの大河ドラマ『江』で有名になった同じ山城「小谷城」にも行ったことがあるが、ただしんどいだけであまり印象にも残らなかった記憶がある。
竹田城は違った。噂に違わず、天守閣や建物の遺構こそなかったが、累々と積み重ねられた石垣はしっかり残り、「東洋のマチュピチュ」とはちょっと言い過ぎだが、確かに天空の城の威風は感じられた。

国道9号線を辿り、いよいよ日本海が見え始める頃になって驚いたのは、五月晴れという天候の性もあるが、実に明るい風景が目に飛び込んでくることだった。
真っ青な海と打ち寄せる真っ白な荒波はまさしく日本海だ。
それに道がいい。9号線もそうだが、建設中の山陰自動車道が一般道と同じように利用でき、いわゆる高速自動車道の不便さがないし、実に快適だ。全線開通していなくてプツンプツンと好きなところで出れるのがいい。有料区間も260円とか450円とか数か所で払うだけで、ほとんどがまだ無料区間になっている。
5月5日こどもの日に合わせていたるところで催し物が開催され、出雲では古式豊かな出雲舞が披露されていた。
人があふれ、踊り、食べ、みんな実に陽気だ。「山陰」とは裏腹な景色と光景が展開されているのには驚かされた。

今から50年以上も昔、国鉄の周遊券で山陰線、山陽線を辿ったことがあるが、その山陰線が並走しているところもある。しかし列車にはとうとう出会うことはなかった。
時代が変わったんだ。
浜田辺りで列車の中から見えた日本海の夕日はいまだに残像として残っているが、今はセンチメンタルのかけらもない。あたりの明るい光景があまりにも強烈だからだ。

寄り道しすぎて時間がなくなった。最終目標の萩を目指すことにした。

萩は期待通り落ち着いた街で、町中いたるところに歴史が刻まれていた。
萩城の一角は石垣の中に民家が散在し、今流行りの時代街にもなっていてたくさんの焼き物の店がある。どれも凝った店造りだ。
萩城跡の指月公園に入ると琴の音が流れてきた。藤の花がたわわに垂れ下がったその下で何面もの琴が演奏されていたのだ。
その奥に「花江茶亭」があった。13代藩主・毛利敬親が安政5年(1858)旧三の丸にあった藩主別邸花江御殿内に増築した茶室で、明治期に指月公園内に移築され、幕末期、敬親は家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、国事を画策したといわれている、まさに文明開化期の茶亭だ。
今日はその茶亭で表千家の大茶会が催されていて、迷わずお点前頂くことになり、しばし明治に思いを馳せる機会を得た。

もう一つのお目当ては「松下村塾」である。
その佇まいの小ささにまずびっくり。8畳と10畳の二部屋しかない。この小さな塾から、高杉晋作をはじめ、伊藤博文、山縣有朋など明治維新で新政府に関わる人間をあれほど多く輩出したとはとても思えないほどだ。
藩校明倫館とは違い、武士、町人の身分を分け隔てなく受け入れた自由と革新の気風がこの小さな掘立小屋に凝縮されていたことを想い、思わず目頭が熱くなった。

もうこれで十分だ。
津和野に向かう田園風景は実に心癒され、今回思い立った旅路が歴史と明るい未来をつなぐ自分なりの納得のいく旅路だったことに満足した。

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御堂筋哀歌

♪♪♪ 雨の御堂筋 ♪♪♪

今日は一日暇ができたので、久しぶりに「御堂筋」を歩いてみようと思った。
北から南へ、南から北へ、今までにも何度も何度も歩いたことがある。
考え事があって歩いたこともあったし、ロマンチックな気分で歩いたこともある。
銀杏の枯葉が舞う寒い日、拭いても拭いても拭き切れないほど汗の出る日、そしてもちろん「雨の御堂筋」も。

欧陽菲菲が『雨の御堂筋』を歌い、大ヒットしたのが1971年。
神武景気から始まった戦後高度成長期は、1970年の「いざなぎ景気」の終焉を最後に「安定成長期」に入ったといわれるが、翌年つまり1971年の「第二次ニクソンショック」により、1ドル=360円の固定相場制が変動相場制に移行したことにより、戦後日本の土台を築いてきた輸出産業が大打撃を受けることとなるのであるが、57か月間続いた戦後最長の「いざなぎ景気」の余韻を映したのがこの『雨の御堂筋』である。

御堂筋は、大阪の玄関である「JR大阪駅」から南へ真っ直ぐ約4km、大阪一の繁華街「難波」に通じる幅45mの大阪を代表するメインストリートである。
1929年(昭和4年)、当時の大阪市長関一の号令で着工し8年の歳月をかけて1937年(昭和12年)に竣工。当時の道路常識からして桁外れに幅広い道で、道の両側には大阪を代表する大企業が次々とビルを建て、ここはいわば大阪のステイタス・ゾーンであったわけである。
とりわけ、『雨の御堂筋』に出てくる「本町」は商都大阪を代表する繊維街で、御堂筋の「伊藤忠」をはじめ、その界隈には大小の商社がひしめき、「桁外れの御堂筋」もやがて大渋滞を起こすほどの一大活況を呈するほどになる。

今日歩いた「御堂筋」は違った。
沿道に植えられた約970本の銀杏は高く大きく育ち、若葉がまぶしいほどであったが、心なしか昔ほどの賑わいがない。勢いがない。
大丸と並んで店を出していた松坂屋はとっくになく、伊藤忠は大阪駅北の再開発ビルに移ってしまった。
歯が抜けたようなビルの隙間には駐車場ができ、聞くところによると両側のビルの空き室も目立つという。道行く人も昔ほど多くはないしせかせかしていない。
良く言えば落ち着きがあり、道の両側にはなるほど昔にはなかった高級外車のショウルームが並んでいたり、シャネルとかルイビトンといったブランド店が数多く並んではいるが、違う。
「失われた10年」とか「失われた20年」という言葉があるように、日本の高度成長期から安定成長期に入ったんだとは言うが、実は高度成長期の勢いを取り戻すべく日本列島改造に走り、降りかかるオイルショック、円高不況にも見舞われて、いっときバブル景気で勢いを取り戻したかに見えた錯覚はやがてその崩壊へと、そして負のスパイラルに陥って今に至った日本の姿がこの「御堂筋」にも見えた気がした。
しかし、町並みは確かにきれいになった。東京や世界の主要都市と比較したら大阪は確かにローカルな雰囲気だが、これはこれでまたいい気もした。

梅田新道 心斎橋と
雨の舗道は 淋しく光る
あなた・・・ あなたのかげを
あなたを偲んで 南へ歩く

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今年のさくら ―2014―

仕事の関係もあり最近は車であちらこちら出かけることが多くなった。
この時期、やはり気になるのは桜だ。
今日は4月3日だが、大阪市内にある大阪城公園や桜ノ宮の大川(旧淀川)沿いはもう満開になっている。それでも東京に比べたら1週間ほど遅い。
昨日は大阪の南、泉南方面に出かけたが、ここでもいたるところに桜、桜でそれ以外のものには目がいかない。
山手を走る高速自動車道、阪和高速道辺りではまだ五分咲きくらいのところが多かったが、距離にしてほんの数キロしか離れていなくて、少し山手ではあるが、こんなにも咲き方が違うんだと、桜の敏感さに感心させられた。

それにしても本当に桜が多くなった。昔はこんなに多かっただろうか。
関心の持ち方が歳とともに変わるからそのせいもあるだろうが、それ以上に桜が多くなったのは確かだろう。
海外でもアメリカや中国をはじめ、多くの国で植樹された桜が大きく成長し、桜に魅せられる人が増えていると聞く。

桜ノ宮の大川沿いには、昔から「造幣局の通り抜け」といって、大阪人なら誰知らぬ者はない桜の名所がある。
日本の貨幣はすべてここで造られているんだが、大川沿いの造幣局構内の全長560mの通路が一般花見客のために1週間開放され、関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、楊貴妃など 131品種、350本の桜が植わっている。
明治16年(1893年)に開始された「通り抜け」は浪速の春を飾る風物詩として、大阪人だけでなく関西一円の人々に愛されていいて、今やここの桜を見るためには覚悟して行かねばならない。押し合いへし合い、関山がどうの、普賢象がどうのとゆっくり立ち止まることもできない盛況ぶりだ。
子供のころにもよく連れられて行ったことはあるがこんなではなかった。上半身裸のおっさんがおなかに大きくお多福の顔を書いて体をくねらせ踊っている。綿菓子を食べながら何時まででも見入っていたことを今更のように思いだす。
この大川沿いも「通り抜け」だけでなく、今では、与謝野蕪村の生誕地で知られる淀川の毛馬まで延長4.2kmに4800本の桜並木がトンネルのように続いていて圧巻だ。さらに、建築家で有名な安藤忠雄氏の呼びかけで、天満から西に数キロ延長して、大川を桜で埋め尽くそうと植樹が進められている。

こと左様に多くの人が関心を寄せ、それにつれて桜が多くなったのは事実で、webサイトにも全国の花見情報が載せられ、この時期誰もが一度は桜名所を訪れる。戦後70年、物心ともに豊かになった証で喜ばしいことだと思う。
消費税が5%から8%に引き上げられ、さらに1年後には10%に。福島原発問題、国際情勢と目を返せば、桜、桜と浮かれていられない現実が待ち受けているが、だからこそこの一っ時の浮かれ気分が日本人に新たな活力を与えているのも現実だ。

大阪の桜は、4月上旬の大川河川敷、大阪城から始まって4月中旬の「造幣局通り抜け」までのおよそ半月以上、大阪人の心を奪う。
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《関連記事》
今年のさくら』 投稿日時: 2013年4月
さくら、さくら』 投稿日時: 2011年4月
さくらーそして日本人ー』 投稿日時: 2009年4月

理不尽なこと

最近立て続けに理不尽なことに出くわし、少々心が滅入っていた。
どちらも車を運転していてのこと。
一つは交差点で信号待ちをしていてのこと。
前に大型の乗用車が1台止まっていて、信号が青になったのに動き出さない。運転席を覗くとどうも携帯に夢中になっている様子。後ろにも何台か車が続いているので、あまり気が進まないままクラクションをそっと鳴らして喚起を促すと、ハッと気づいたように前の車が走り出した。ところが、走り出したまではよかったんだが片方1車線とはいえ幹線道路。制限速度が60キロと書かれているのに、その車、40キロにも満たない速度でノロノロ運転。明らかに嫌がらせとしか思えない。後続の車が何台も続いていて、さあどうしたものか。対向車線にも車が次から次に来ていて、それでも合間を縫って前の車を追い抜けないことはないが、追い抜くとまた何をされるかわからない。こちらがまずその車を追い抜かないと後続の車も追い抜けない。イライラは募るばかりで、14、5分は続いただろうか、やっととある交差点でその車が左折してくれたが、ほっとすると同時にこの理不尽さに腹立たしさを超えた複雑な思いがよぎった。
もう一つは、こちらにも非があったのかもしれないから声を大にして言えないが・・・
コンビニから前の車道に出ようとすると大渋滞。長い車列ができてノロノロ、ノロノロと走っている。割り込もうとしても、向こうの車線なのでなかなか割り込めない。そんな中、割り込めるに十分だと思える車間ができている個所があったので、手前の車線の車に譲ってもらいそこに割り込んだ。後続の車とは十分だとは言えないまでも迷惑をかけない程度には車間はあったと思うんだが、割り込んだ途端、後続の車が急接近してきてクラクションを激しく鳴らす。あまりの権幕なので路肩に車を寄せ、その車を通り過ごさそうとすると、その車が横にぴったりと停車し、車から40前後の男が降りてきて、ぼくの胸ぐらをつかんで、子供が乗っているのに追突でもしたらどうするんだと大声でわめき散らしている。変に言い訳をしても怖いとひたすら謝り続けた次第。

車を運転していると、本当にいろいろな場面によく出くわす。いやなことだけではない。譲ってもらったり、停車してもらっては気の毒なほどのダンプカーや大型トラックがこちらに道を譲ってくれたり、後続の車を止めて割り込ませてくれたり、小さな感動を何度も味わわせていただいたこともある。
また、一人の人が神様になったり鬼になったりするのも車だ。
今回出くわした鬼もまた違った場面では神様になっているのかもしれない。腹の虫の居所が悪かったんだろう。
そう思えば、やっとこちらにも安どの気持ちが蘇った。

イカナゴのくぎ煮

今日は2月28日。1月は長かったが、2月はあっという間に終わろうとしている。
このころになるといつも気になるのがイカナゴの解禁日だ。
4,5年前だったか、近くのスーパーで初めて生のイカナゴが目に留まり、物珍しさ半分でイカナゴのくぎ煮に挑戦することに相成った。
1㎏買ってきたものだから、うまい具合にはできたが一人で食べるには多すぎる。
離れて暮らしている家族に宅急便で送ってみたら、これがやたら好評なのである。
それからというもの、毎年この2月も暮れになるとイカナゴの解禁日が気になってしようががない。
イカナゴ漁に解禁日があるなんてまるで知らなかったが、瀬戸内海から大阪湾にかけて生息するイカナゴが激減し、やむなく禁漁期間を設けたそうな。
このイカナゴのくぎ煮、東播磨から神戸、大阪にかけて広まった食材で、もう京都になるとイカナゴよりもちりめん山椒が好まれるというからごく限られた地域の食文化なのである。
そして今日、今年はこの2月28日がイカナゴの解禁日で、前日予約しておいた店に取り立てのイカナゴを買いに行った。
すぐ近くの漁港から毎朝11時くらいに入荷するそうで、家族や親せきにお配りするので3㎏買うことにした。
今年はまたいっそう不漁だそうで、1㎏が1,380円もする。それでも安いと店の主人が言う。
昨年は普通のスーパーで1㎏が1,000円、そしてこの店が確か1,000円は切っていたと思うから、かなりの値上がりだ。
でもいい。昨日スーパーで売っていたくぎ煮は500gで2,500円ほどしたから、手間暇はかかるが仕方ないか、と自分を納得させた。
ザラメ砂糖を買い、ついでにほかの食品も買い込んで勇躍家に帰り着いた途端、肝心の土生姜を買い忘れたのに気が付いた。
この土生姜を刻みこんでこそイカナゴの独特の風味がいっそう引き立つというもの。
本当にオレって馬鹿なんだよね。あれほど買い物に出かける前に、ザラメ砂糖と土生姜と反復しておきながらこのざまだ。

その土生姜も近くのスーパーで手に入れ、今は出来上がったイカナゴのくぎ煮をつまみ食いしている。美味い。
これがまたコーヒーとよく合うんだよね。
2月も終わり、明日からもう3月だ。
梅の香りも漂い始め、今日はやけにあったかい。
それにしても慌ただしいなあ。人生、まるで駆け足だ。
前のテレビはTPP交渉が決裂を報じ、福島原発の汚水処理も遅々として進まないどころか、次から次と問題が派生しているという。
ソチが終わった途端ウクライナ政権の崩壊だし、中韓は相も変わらず駄々を捏ねまくり、そうそう、アンネの日記がたくさん破かれたとか。
せっかく春の風物詩でもと書き始めたんだが、ままならないものだ。
またこれも人生か。

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