蕉門十哲第一の門弟、基角の句集にある、
下臥(したぶし)につかみ分けばやいとざくら
について去来が、「いと桜の十分に咲きたる形容、よく言ひおほせたるに侍らずや」(糸桜が華やかに咲き誇ったさまを言い尽くしたもの)と評したところ、芭蕉は言下に、「言ひおほせて何かある」(ものごと言い尽くしてしまえば、後に何が残ろうか)と言い放つ。これを聞いた去来は、「ここにおいて肝に銘ずる事あり。初めて発句に成るべき事と、成るまじき事を知れり。」と感嘆する。
実に興味深い対話であり、芭蕉の俳句の真髄をあらわした言葉である。
無駄をそぎ落とした五七五、十七音で表わした世界に無限の広がりを求めた芭蕉の句には、いたるところにその思想が読み取れる。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
これほど閑寂をあらわした芸術作品はない。
奥の細道の道すがら、梅雨が明け、真夏の陽光がさし始めたころ、山形県立石寺の境内は人
影もなく、ニイニイゼミだけが夏の到来を告げるかのように、あたり一面に鳴きたてている。巨岩に囲まれたお寺はまるで大きなシンフォニーホールであったに違いない。その巨岩にも浸み込むほどの大音量こそがその背後の静寂を芭蕉の心に呼び起し、この句に結実したのではあるまいか。
「句は七八分にいひつめてはけやけし(くどい)。五六分の句はいつまでも聞きあかず」
とも、芭蕉は言う。
言い尽くしても言い尽くすことができないもどかしさは誰もが一度は体験することだ。それならいっそのこと言いつくすことは諦めて、もっとも端的な言葉で相手の魂に触れるしかない。無駄のない、誤解も生じないほど端的な言葉で。あとは相手の心の琴線に共鳴を呼び起こす方に掛けたのだ。
世界で最短の詩という俳句もそうして生まれた。
なにも芭蕉に始まったことではない。余情、余韻に重きを置く考えは日本文化の根底に流れる美学であり、日本人の心に染みついた感覚である。
こうした日本人独特の感覚が何に由来するのか。言語学的にはどうなのか。心理学的に見てどう見えるのか。また政治、経済、法律の面にどういう影響を及ぼしているのか。さらにこのグローバル化した国際社会における日本の意思決定の際にそれが吉と出ているのか凶と出ているのか。自身興味が尽きないし、若い学徒にも是非とも取り組んでいただきたいテーマである。