さくら最前線もここ関西からははるか北、もしくは高山に遠のいた。
一年のうちのほんの一週間、日本人の多くが待ち望み、熱狂し、そして春の嵐とともに散っていく。
「貴様とおれとは同期のさくら」と歌う人たちも少なくなったが、この時期日本人の心をとらえて今だやまず、「さくら最前線情報」、「花見」、「新入生」、「新入社員」、等などの言葉には「さくら」が付きまとう。桜と日本人は切っても切れない縁で結びついているのは確かだ。
一輪の花は、おとなしく、これといった香りもなく、淡い淡いピンク色もそれ自体人目を引くほどの色合いでもない。しかし、一本の桜となれば、どこそこの「一本桜」と名物になるほど人を引き寄せる。ましてや、何百本、何千本の桜が咲き乱れるとなればもう圧巻だ。あたりの景観を「さくら」一色でおおい尽くす。山があり、お城があり、どんな高層ビルがあってもほんの添え物だ。青い空にひらひらと散っていく桜の花びらは天女の舞とも祇園舞妓の舞とも見まがうばかり。そして、そこにはたくさんの人が群れ、手をつなぎ、写真を撮り、誰一人として笑顔のない者はない。青い敷物が所狭しと敷き詰められた場所は、夜ともなれば人が踊り出し、歌い、わめき散らし、酒の匂いと食べ物の香りが満ち満ちる。耐え忍んだ寒さから解放され、日頃の鬱憤を吐き出し、つかの間のひと時に我を忘れる。また巡ってきた新しい門出に向けて鋭気を養っているのだろう。
日本人、一人ひとりは実におとなしく、勤勉実直で、清潔、お人好しででしゃばりもせず、一見何のとりえもなさそうにさえ見える。しかしその日本人がいったん群れると、桜に浮かれて豹変し、まるでブルドーザーのごとく、第二次世界大戦の主役になり、足腰の立たぬほどコテンパンにやられてもまたたくうちに世界第二位の経済大国にのし上がる。世界のだれが見ても不思議の国「日本」であり、「日本人」だ。
パッと咲いてパッと散る、「祇園精舎の鐘の声」あたりから形作られたであろう日本人の「無常観」にぴったしの「さくら」と日本人は、21世紀の世界にどう彩りを添えて行くのだろう。