形骸化ー例えば教育現場ー

 
早いものでもう21世紀も10年も経ってしまった。
昨年はリーマンショックに端を発した世界同時不況は、本家本元のアメリカはその不況から脱し得ていないのは自業自得といえば自業自得なんだが、バブル崩壊後、各企業はスリム化し足腰が強化され、リーマンショックにもそれほど影響を受けることはあるまいとたかをくくっていた日本が、未だに低迷しているどころか、デフレ、デフレのスパイラルで民主党が掲げる「国内需要喚起」もままならず、40兆近くの税収不足はさらなる借金地獄に飲み込まれていく状況だ。
民主党政権が生まれ、明治維新に匹敵する革命だという人もおれば、どうせ自民党政権時代とは大して変わったこともあるまいという向きもある。どちらの予測が正鵠を穿っているのか判断できないが、社会の仕組全体が形骸化しているのは事実だ。状況状況に即して対応出来ていない現実がそこかしこに見受けられる。
長年教育の分野に携わってきたが、この分野はその最右翼と見ても差し支えあるまい。
第二次世界大戦以後も様々な教育改革がなされてきたが、屋台骨は結局は明治新政府が構築した学制の上に乗っかっているだけで、それ以来100有余年も経ち、当時とはまるで変化してしまった社会状況になっているにも関わらず、それに対応した教育環境が再構築されないままの状態で来ている。これは大枠から見た日本の教育事情で、もっと具体的、日常的に見受けられる様々な教育問題が例示的でわかり易い。
例えば高校の数学の授業。その現場をつぶさに見たわけではなく、いま家庭教師的に教えている生徒から聞く話で判断しているわけだが、先生も生徒もまるで「我慢大会」をしている授業の様子が見えてくる。
それほど学力の高い高校ではなく、文系の2年のクラスの「数学Ⅱ」の授業風景であるが、先生は黒板にひたすら解答を書いていて、大半の子はまじめでそれをノートに書き写しているが、それもただ写しているだけだと推測されるんだが、机の下でゲームをしている子、マンガ本を読んでいる子、居眠りをしている子、うわの空でただぼーっと黒板を見ている子、そんな生徒も結構いるそうだ。そのクラスの子達は一応大学受験を目指している子が多いそうだが、「数学Ⅱ」までいる子はほとんどいないという。教えている生徒が持ってくる問題集も、およそこの生徒には無理難題の「赤本」という最高レベルの問題集だ。それでも何時何日までに出された宿題をやっていかねばと、教えて欲しいと持ってくる。一所懸命教えてはやるが、わかってくれているのやらどうやら、なにか虚しい。こうして「我慢大会」に付き合せられるハメになることしばしばである。
「我慢大会」のような授業から得られるのは先生も生徒も「忍耐力」だけだ。
こと「数学Ⅱ」だけではない。「英語」その他の科目もまた然り。教育現場の至る所でこうした形骸化した、古くさい授業形態や、使いもしないのに常に最新のコンピューターが並ぶ「コンピュータ教室」、ただ上からだけの教育改革、そんなもので満ち溢れている。
敷衍すると社会全般にもこんなこと、つまり「形骸化」が満ち溢れているわけで、これが無駄を生み、国中借金にまみれ、ますます世の中を住みにくくしている。
やはりどこかで、「革命」ってやつがいるのかな!?
 
 

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