花菖蒲 鯉もゆるりの 津和野かな


Tsuwano Town, Shimane Prefecture is a castle town called the little Kyoto. The townscape keeps a traditional landscape, irises are blooming and carp swim relaxedly in the town canal.
島根県津和野町の初夏の風景である。津和野町は古くから小京都と呼ばれ、城下町としての歴史と文化が今も息づく山陰の小都市だ。毛利氏の城下町萩市から車で1時間少々、道中は初夏を迎えたとはいえ、新緑が残る小高い山々や田園が続き、道中だけですっかり心が癒される。町のメインストリート殿町通りは白い漆喰で固められた「なまこ塀」と「掘割」が続き、掘割には季節の花、花菖蒲がいっそうの風情を醸し出し、緋鯉や真鯉が花菖蒲をくぐってゆったりと泳いでいる。藩校養老館跡、郡庁跡、津和野藩家老の表門、カトリック教会などなどが立ち並び、タイムスリップした感じだ。時期が時期だけに思ったほどの人出はないが、外国人の多いのは驚きだ。2018年の外国人訪日数はJTBの推計で3200万人だそうだが、この津和野のような名はそこそこには知られてはいるが、日本人でもそんなに訪れたことのないような地方都市に、こんなに外国人が来ていることにびっくりしたと同時に、訪日外国人が何を求めて日本にやってくるのか、これからの外国人招致のヒントになる。この後、お目当ての森鴎外記念館、安野光雅美術館にも立ち寄ったみる予定だ。

ふくよかな  おばちゃん顔の  キンシバイ


Flowers also have various facial expressions. This Kinshibai is a flower with big petals and the atmosphere of middle-aged women as a whole.
花にも様々な表情がある。このキンシバイは低木で庭木や地覆い用植え込みとしてよく植えられている。そんなに人の目を引くような木ではない。ちょうど今頃の初夏、枝先に濃い黄色で、5弁の花を次から次に咲かせる。しかし、近づいてよく見ると、かなり派手な花の造作を持つ花だ。ただ、花弁がどてっとしていて、真ん中のめしべが屹立し、周りをそのめしべを崇めるかのように取り囲んでいるから、人それぞれだろうが、けっして可憐なという印象は持てない。人に例えるなら、人のいい、脂の乗り切った中年のおばちゃんという感じで、ちょっと色気も漂う、肝っ玉母さんという感じだ。これは僕だけか、男から見た印象で、さて、女性から見たらどうなんだろう。
もう6月もあと2日。今年の梅雨もそれほど大した雨も降らず、間もなく開けるだろうが、日本全国いたるところで強い地震があり、火山も活発に活動している。大きな災害が起こらねばいいが不気味だ。
先週あたりから、特に蒸し暑く、じっとしても汗ばんでくる。梅雨が明けたらどうなんだろう。今年の夏は暑いのかそうでないのか。
田植えの終わった田圃からさっそくカエルの鳴き声が聞こえてきた。

紫陽花の 色も冴えたる 蕎原(そぶら)かな


There is Sobura village in the mountain foot of the Osaka Kaizuka. The water and the air are neat and the Ajisai flowers are also more vivid in color.
今年の紫陽花もぼつぼつ盛りを越した。大阪府貝塚市の山懐に蕎原(そぶら)という集落があるが、気温も市街地に比べて数度低く、水清く、空気の澄んだ別天地である。そこに咲く紫陽花は今が盛りで、色が実に鮮やかである。同じ紫陽花でも環境が異なればこれほど違うのかなと思えるような色合いだ。大阪南部は600m級の生駒山系に続き、金剛、葛城の1000m級の山、その南には800m級の山が連なる泉南山系が続いて海に至り、奈良、和歌山との県境になっている。その山懐はまだまだ自然が残り、昔ながらの集落が点在して、言葉、慣習も大阪中心部とはちょっと違う。おそらく歴史的にはかなり古くから開けたところだろうが、大阪中心部からは裏鬼門(西南方向)に当たり、開発も遅れた地域で、古事記や日本書紀に出てくるような神々を祭った神社が多い。地名も、上の蕎原(そぶら)をはじめ、孝子(きょうし)、清児(せちご)、包近(かねちか)、山直(やまだい)、深日(ふけ)、土生(はぶ)、自然田(じねんだ)、等々、地元の人にしかわからない地名が目白押しだ。おそらく帰化人も多く住み着いた地域だから、こういう地名も生まれたのかもしれない。
紫陽花はリトマス試験紙みたいな植物で、土壌が酸性なら花は青く、アルカリ性なら赤い花が咲く。ここ、蕎原の紫陽花を見ていると、土壌の酸性、アルカリ性以外に、水や空気の汚れ具合も測れる天然センサーの役割を果たしているように思えるくらいに色鮮やかだ。

白檀は たった二日の 晴れ姿


Cacti blooms lovely flowers that can not be imagined from that figure. Among them, this Byakudan is especially beautiful, and it makes flowers bloom only for two days.
伊豆に「シャボテン公園」というサボテン専門の公園がある。今でもサボテンのことをシャボテンという人もいる。実はこの語源、ポルトガル語のシャボン(石鹸)から来たそうで、16世紀に来日したポルトガル人やスペイン人たちが、ウチワサボテンの樹液で衣服を洗ったり、体を洗ったりしていて、シャボン、シャボンと言うものだから、日本人はサボテンがシャボンなんだろうと、サボテンをそう呼ぶようになったとか。ポルトガル語といえば、シャボン玉のシャボンもそうだし、オルガン、タバコ、パン、カステラ、カッパ、ビードロ、ミイラ、フラスコ、襦袢、チョッキ、ボタン、カボチャ、金平糖、天ぷら、等々、ざっと思いつくだけでもこれだけある。さて、この白檀、サボテンの中でも特にきれいな花を咲かせ、園芸店で買ってもちと高い。直射日光を避けて育ててくださいというが、ご覧の通り、この白檀、実に日当たりのいい石垣に植わっている。しかも、お店の白檀より数等美しい。しかも、たった2日間で花を閉じてしまうから、なおのこと心裂かれる。まさに美人薄命だ。

ハンゲショウ 回転ずしで タコを食い


The Hangeshou puts white flowers at the beginning of July. Hange-Show is also a day of the seasonal festival and there are unique customs throughout Japan.
ハンゲショウは夏至を過ぎたころに白い花が咲く。葉の半分が白いということから、半分化粧しているという意味から来た名前であろう。ハンゲショウは漢字で「半夏生」と書くが、これは暦では雑節(節分とか端午の節句などの正式?な節句ではない節句)の一つで、夏至(今年は6月21日)から数えて11日目の日、今年なら7月2日である。あまりポピュラーではないが、日本各地には様々な風習が残っている。大阪ではタコを食べ、京都では「水無月」という涼しげな和菓子を食べ、香川では相変わらずうどんを食べ、福井では鯖、奈良ではきな粉餅、おそらく関東方面でも各地に各地の風土食を食べる風習がある。梅雨も間もなく開けますよと意味合いも持ち、元はやはり農業暦で、この日までには田植えを終えなければ良い収穫が得られないという警告の日でもあった。大阪でタコを食べるのは、土用の鰻と同じで、タコは精がつく、田植えで疲れ切った体力を回復させるという意味合いがある。こうして、昔から季節季節にいろんな節句をつくって、自らを奮い立たせ、お互いに助け合い、祝い、祭り、1年を乗り切ってきたわけだ。

鏡湖池に 菖蒲を招く 金閣寺


The Kinkakuji that reverses in the Kyoukochi, the mirror lake pond, where irises bloomed is reflected vividly.
アヤメ、ハナショウブ、カキツバタは非常によく似ていて、なかなか見分けが着きにくい。次のサイトが分かりやすいと思う。
https://matome.naver.jp/odai/2139886191150689201
ここでは菖蒲と詠ったが、実はカキツバタだ。
カキツバタで思い出すのは、『伊勢物語』に登場する在原業平の、

  ら衣 つつなれにし ましあれば るばる来ぬる びをしぞ思うふ

である。歌意は「から衣の着物が身になじむような妻が、はるばる来た今はしみじみ思われます。」だが、実に技巧的な歌で、「かきつばた」の5文字を句頭に入れて即興で詠んだ歌で、クイズや暗号にも似た手法は現代人にも受けるのではないか。

伊勢物語、在原業平、カキツバタ、八橋は高校で古典をかじった人なら、連語として浮かぶキーワードだが、業平が愛人を追って東下りをする折に、愛知県知立市にある臨済宗のお寺、無量寿寺の境内に咲いているカキツバタに感動しうたった歌で、無量寿寺の山号「八橋山」に由来する。愛人を追って、旅先で見たカキツバタに糟糠の妻を思い出すとは、なんとも複雑な思いだが、どう受け取ればいいのか思案どころだ。

さくらんぼ 残しておくよ 小鳥たち


A lot of cherries grew up. Everyone ate a lot. Let’s leave a little to the little birds, too.
政府広報によれば、日本では年間2,842万トンの食品廃棄物が出ており、これは世界の1億2,000万人が1年間食べていける量だという。そのうち、本来食べられるにも関わらず捨てられる「食品ロス」は約646万トンで、世界でも1,2位だというから、名誉なのか不名誉なのか、ともかくなんとも罰当たりで愚かなことだとしか言いようがない。日本は食料の多くを海外からの輸入に頼っているが、その半分近くを捨てていることになり、金額にすると、110兆円にものぼるというから日本の国家予算98兆円を遥かに凌ぐわけだ。
バブル、バブルといい、それが弾けていまだにその影響から抜け出ていないが、これは主に金融界の現象で、こうした金融界以外の分野でもバブル現象がいたるところ、我々の心の底にまでも巣くっていて根が深い。

もっと心を広げて、何物も独占せず、分かち合えば、どれだけ世界が平和になり、経済も潤い、自然がどれだけ豊かになり、自らも解放されることか。人も会社も国も、もうぼつぼつ旧世界の価値観を捨てて、21世紀世界を築かねばならないときに差し掛かっている。

日蓮の 怨念見るや 石喰い木


Izu Renchaku-ji is a temple built in the place where Saint Nichiren was exiled. This is a strange sight of Mochinoki holding rocks in its precincts.
昨日は綿毛、植物、自然の美しさを見た。今日は、どう見ても美しいとは言えない造形だ。根元の岩石を抱え込んで成長するモチノキのたくましい姿である。以前にも道路わきのナンキンハゼが囲いの鉄策を抱え込むように立っているのを見たことがあるが、空恐ろしいほどの逞しさだ。そういえば、植物の寿命も桁外れで、屋久島の縄文杉は樹齢2000年は下らないだろうと言われているし、世界に目を向けたら樹齢1万年を超えるものがあるというから、長くて100年しか生きられない人間からすれば、植物はインモータル、不滅といっても差し支えない。梅や桜の、それこそ樹齢何百年という木でも、毎年可憐な花を咲かせるわけだから、百歳のおばあさんが赤ちゃんを産むようなものだ。まあ、こんなに逞しい植物あっての地球というわけで、植物がなければまず酸素が供給されないし、食物もないということになって、動物は生きられない。植物様様ということになる。

太陽を まるごと写した 綿毛かな


Nature’s beauty of form is transcendental. The fluff that has finished blooming stands out conspicuously and has a life existence cipher.

自然は美しくて神秘的だ。美しい花を咲かせた後もかくも美しい造形を残す。美しさの本質は何だろう。この綿毛をよく見ると、右巻きの渦と左巻きの渦が実に整然と巻いている。綿毛は風に吹かれて飛び散って行き、そこでまた命を繋ぐ。できるだけ遠く、広く、あらゆる方角に飛ばさなければならない。風は気まぐれだ。どちらから吹いてくるかわからない。どの方角から風が吹いてきても、その風を受けて渦を巻くように飛べば遠くへ飛ぶし、あらゆる方向に飛んでいく。だからこういう綿毛の付き方をしているんだ。つまり、美しさの本質は命をいかに繋いでいくか、そこにあり、そのためには美しくなければならないんだ。
自然の美しさを目の当たりにすれば心が和む。心が和めば命が伸びる。人はそうして自然と一体になる。これが予定調和の神髄だ。

梅雨いっぱい 吸うて水茄子 夏を待ち

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The water eggplant of the special product of Osaka Senshu specialty sucks a lot of rainwater and grows into a round and juicy eggplant in the summer.
盗難防止のためか、青いネットを張り巡らした畑には小さな水茄子がぶら下がっている。名前の通り、大きくなると真ん丸になり、割ると水がしたたり落ちてくる。茄子は普通、油でいためたり、煮たり、漬物にしたりしなければ食べられないが、この水茄子は生食もされ、ほんのり甘みもあるから、昔は果物に近い扱いを受けることもあったようだ。普通には糠床に付けて漬物にして売っているが、大きくていいものは一つが四、五百円するから高級漬物だ。酒やビールのあてにしても美味しいそうで、秋口になると泉州一帯の飲み屋さんには、それを目当てに全国から通が来るほどだという。普通の茄子に比べたら何倍も高いから余り口にしたことが、岸和田のダンジリとともに泉州人には自慢の種だ。