東京・高円寺の「純情商店街」を抜けた裏路地に、創業以来80年という老舗の銭湯がある。四国道後温泉を思わせる木彫り屋根を少しあしらい、「本物の自然回復水使ったいます」というのぼりを立てた「小杉湯」には昔懐かしい人情の機微と人生の哀歓が溢れていた。
10月31日、NHKの『ドキュメント72時間』で放映された下町の銭湯風景である。
お昼の3時半にオープンして深夜2時まで開いている「小杉湯」には、時間時間に応じた実に様々なお客がやって来る。
「ミルク風呂」と書かれた玄関の硝子戸を開け、番台を通り抜け、何もかも脱ぎ捨てて湯けむり蒸せる風呂場に入ると、正面向こうには一面に、富士山を描いた大きなタイル絵があり、もうかなりたくさんのお客が湯船につかり、体を洗っている。
湯船から溢れ出る水の音、蛇口から出る水の音、シャワーの音、あの銭湯独特の談笑しあう小気味のいいくぐもり声。
お爺さんと息子とその孫三代が一緒になって湯船ではしゃいでいるのが微笑ましい。
女風呂から出てきた二十歳前後の女性ふたり。淡路島から東京に出てきて、将来は原宿あたりでお店を開くのが夢だという女性と、その女性を三日間訪ねてきた幼馴染の二人連れ。風呂上がりのいい気分のところで冷たいフルーツ牛乳で乾杯!
真っ赤な鉢巻にサングラス、髭ぼうぼうの46歳は建築現場の労働者。怖そうな風貌とは裏腹に、ぶっきらぼうな受け答えにもどこか優しさが隠せない。銭湯を出ると、隣のコインランドリーで洗濯しておいた作業服三日分を大きなボストンに詰め、今日の疲れをすっかり洗い落としたに違いない。「よしっ!」と言って街中に消えていく。
番台あたりで何かを探している21歳の若者。失くした下駄箱の木札の鍵を探しているのだという。マン喫(マンガ喫茶店)に寝泊まりして一か月。お笑い芸人を目指して敢えて厳しい環境に置きたいと家を出たそうだ。木札が見つかるとほっとしたように、生活用品を詰め込んだバッグからノートを取り出し、その中から選び出した自慢のネタをパフォーマンス。見ていてまったく面白くもない。がんばれよ。
こちらには日本語ペラペラのイタリア青年が顎まで湯につかっている。大学で日本語を勉強したが、不況真っ只中のイタリアでは職もなく、日本にやって来て就活中。就活中のストレスはここのお風呂で解消するという。
お昼の3時半にはシャッターが開く前から人の行列。いちばん風呂を目指したお客はシャッターが開くのもももどかしく、潜り抜けるように入っていく。この時刻にはやはりお年寄りが多い。中にたまたまいた若者に72歳の詩吟の先生が近づいて来て、「今日行く(教育)ところ、今日用(教養)を足すところ」と風呂になぞらえて人生訓を垂れ始める。若者は嫌がることもなくにこにこ聞いている。
89歳の母親を連れた娘さん(?)がやってきた。60年間通い続けているという。商売の合間を縫って、生まれたての娘をきれいないちばん風呂に入れたくてやって来て以来ずっと通い詰めているというからこの風呂いちばんの常連さんだ。
6時半頃、今度は87歳の杖を突いた老人と67歳の男性が介添え役のようにやってきた。元塗装工で上司と部下だったという。奥さんを亡くし一人住まいの上司とこうして週に何回かは一緒に来て、一人前に育ててくれた上司の今でも大きな背中を流し、もう負けないくらいに大きくなった元部下の背中を流しあうこの二人には、そこに刻まれた年輪の深さと計り知れない心の絆を知る思いだ。
日付が変わるころ、疲れた風の若いカップルがやってきた。25歳の青年はサーカス団でピエロをやっていたがそのサーカス団が倒産、今は大道芸人で生計を立て、パートナーの女性もパントマイムをやっているという。今一番の悩みは、結婚はしたいんだが女性の親からは「書類審査」で不合格になり、今はひたすら合格点に届くべく、二人で支えあって修行中だそうだ。将来の夢は大きく、世界中を笑顔に変えたいというこの純情な青年には思わず拍手した。
腰まで届く長髪の青年服飾デザイナーとその部下、と言ってもほとんど歳の変わらない茶髪にアフリカのどこかの部族がする大きな耳輪にピアス満載の青年の二人連れ。誰にも負けたくない。ゴキブリブランドを立ち上げるのが夢だという。お風呂の中では風呂仲間だが、いったんお風呂を出ると厳然とした上司と部下だと認め合う。上司の自転車を追って部下は赤いテールランプを点滅させながら寝倉に帰っていった。
49歳の独立間もないコンサルタント経営の独身女性。風呂上がりのビールを屋台で引っ掛けてから出勤するというママさん。車椅子に乗った母親を押してやってきた青年。風呂上がり、前の食堂「丸長」で「ネギ風味鶏のから揚げ」定食650円を頬張る31歳の警備員。車椅子生活を余儀なくさせられた娘とこの先のことを心配げに語る65歳の男性。
いろいろだ。様々だ。しかし、どれもこれも、いや誰も彼も、風呂上りの何とも言えないほっこり感が伝わってくる。一時とはいえ至福の極みとはこのことだ。
「小杉湯」の路地を出ると、路上でギターを弾く若者、上海で見かけたような路上食堂、自転車が行きかい、決して不快でない食の匂いと様々な騒音がこだますここ東京の下町が、遠ーい昔の感懐を呼び起こし、もう二度と戻ってくることはないと思っていた原風景にいざなうこのテレビ画像に食い入るだけであった。
このお風呂屋さん知っています。最近銭湯は少なくなりました。寂しい限りです。
本当ですね。スーパー銭湯はめっきり増えましたが、昔ながらの銭湯とは違いますね。都会の雑踏と同じで、人は多いんだけどコミュニケーションがないですものね。銭湯だと入っている人のほとんどが知り合い。知り合いでなくてもすぐ知り合いになりますものね。
でも料金が高くなったものですね。大阪だと大人で440円。昔は10円か20円じゃなかったでしょうか。これは仕方ないか。歳が知れちゃいますね。