お盆

♪♪♪ 精霊流し ♪♪♪
 
お盆の季節がやってきた。
いつも思い出すのは、大叔母のいたころ、まだぼくが子どもの頃のお盆だ。
仏壇の前にはお供え物をするためのテーブルが準備され、白い布を敷いたその上には、ハスの花の蕾や実をかたどった色美しいはくせんこう、桃、なすび、スイカといった果物や野菜、大きな本物のハスの葉っぱ、その上にはこれも本物のハスの実、白い、なんだろう、何か植物の茎のような長いもの、親せきから供えられた様々なお菓子類が所狭しと並んでいる。
子供心に見ているだけでも楽しい。楽しいだけではない、お盆が終わるとお供物としておすそ分けにあずかるのだから待ち遠しい。
12日には、玄関先で大叔母がカチッ、カチッと火打ち石を鳴らし、仏様をお迎えする。お盆供養の始まりだ。
家(うち)にはお坊さんが三人やってくる。真言宗、浄土真宗、日蓮宗だ。家には大叔母が二人いて、どちらの旦那さんも他界していて子供もなく、その嫁ぎ先が浄土真宗であり、日蓮宗だったから一緒にお祭りしたのだろう。お坊さんが来るたびにその後ろに座らされ、一緒にお参りさせられるんだが、足が痛くて痛くて、だからよく覚えている。
15日になると、夕方、お供え物の一部を風呂敷に包み、ろうそくとお線香、そして小さな木箱を持って近くの淀川に行く。夕やみ迫る川べりには、たくさんの人が浴衣や着物姿で同じように手荷物を下げてやってきている。あちらこちらで、線香とろうそくを灯し、思い思いの舟形にお供え物を乗せ、中には小さな提灯をともしたものもあり、お祈りしながら川の流れに載せてお送りする。線香のにおいとお経の声が夕やみに流れていく。
これがぼくの思い出に残るお盆だ。
今もこういう風習が残っているんだろうが、俗世間にまみれてしまったぼくにはもう遠い遠い昔の思い出だ。

原子爆弾

2006年の夏、初めて広島の爆心地を訪れた。この日も暑かった。60歳を越しての訪問だ。
車で、高速道を使わず国道2号線をたどったのも、風光明媚な瀬戸内の景色を満喫したかったのと、広島までの距離感を実感したかったからだ。
途中友人を訪ねたり、大叔母からよく話を聞かされていた尾道の蓮華坂(れんがさか)も訪ねたり、丸二日がかりのドライブになった。
広島市内に入ってからは少し道に迷ったが、すぐに平和記念公園にたどり着けた。太田川の川洲にある記念公園は、広々として落ち着きのあるたたずまいではあるが何か心に凛とするものがある。
涼しい木陰をたどって慰霊碑前に着くと、祭壇には新鮮な献花がいっぱい並び、その前には、手を合わせていたり、じっと記念碑を見つめていたりする人たちが10人ばかりいた。
ぼくも用意してきた花を手向け、手を合わせたが、みるみる涙がほとばしり出てもう止めようがない。悔しいと言ったらいいのか、悲しいと言ったらいいのか、心の底からの慟哭だ。
慰霊碑の丸い中空の向こうに原爆ドームが見えた時は一瞬ドキッとした。この記念碑がそう設計されているのを知らなかったからだ。
その瞬間、今度は言いようのない怒りが込み上げてきた。
ここに原子爆弾を投下しなければならない必然性がどこにあったのか。すべてが人間のエゴでしかない。政治家も科学者もその力を誇示し試したかったその一点に尽きる。なにが「戦争を終結させるため」だ。
一握りの人間のエゴを満足させるためにその何万倍の人の命を一瞬にして奪ったこの事実を人はみな心に刻まなければならない。
いま、核廃絶を訴え、ノーベル平和賞を甘受したアメリカ大統領オバマは、この人類最大の愚行を認め、アメリカ大統領として率直に、原爆犠牲者にそして全人類に謝罪しなければならないのではないか。それができなくてなにが「核廃絶」だ。
人もそう、世の中もそう、国もそう、すべてが複雑に入り組み過ぎて、何が何だか分かりにくくなっている。この先、何を見据えて、何を行っていけばいいのか、頭の中だけそして口先ばかり達者になって、すべてが空回りしているこの現実は恐ろしい。
夏の暑いさなか、蝉だけが何か声高に鳴き続けているが、人も負けずに叫ばなければならないことがある。