彼岸花

 
街の真ん中に住んでいる人にはなじみが薄いが、郊外に住んでいる人、特に田んぼに囲まれた地域に住んでいる人にとっては、秋のお彼岸頃になるといやがおうにも彼岸花は目に飛び込んでくる。
今年も然り。しかし、今年は開花が少し遅かったかな。
このところ日本、いや日本だけではなさそうだが、どうも気候が変だ。
西日本を中心に8月は記録的な日照不足で、九州北部や中国、四国で平年の30~40%程度。9月に入ると、今度は関東地方を中心に1961年以降最も少ない日照時間が観測されたという。東京などは最悪で平年比16%という、お天道様を忘れてしまいそうな日が続いたわけだ。
彼岸花の開花が遅れたのもきっとそのせいだろう。
例年、お彼岸の入りになると彼岸花の蕾が大きく膨らみ、お中日には「よっ、待ってました」とばかりに一斉に開花する。彼岸花の寿命もだいたいお彼岸の期間に相当するおよそ1週間くらいだ。
ただ、早く咲くのもあれば、遅れて咲くのもあるから、3週間くらいは咲き続けているように見える。
今年のお彼岸の入りは19日だが、蕾も小さく、お中日の22日になっても一斉開花というほどではない。お彼岸明けの25日くらいが盛りといった具合に、例年に比べて5日ほど遅れた。

彼岸花というと思い出すことがある。
前にも話したことがあるが、大叔父が浄瑠璃の師匠をしていたので、お弟子さんのいる淡路島によく連れて行ってもらったことがある。
小学2年か3年の頃だ。
ちょうどこのお彼岸の頃に連れて行ってもらった時の話だが、泊まっていた親戚の家のすぐ近くに村のお墓があって、いたるところに彼岸花が咲いていた。
あまりにも綺麗ので、小脇に抱えるほど彼岸花を摘んで家に持ち帰って叔母に渡したら、喜んでくれると思っていたのに、「そら、そんなにお彼岸さん取ってきたら、もう今日中に手が腐って手が取れてしまうぞ。」と顔をしかめた。
「はよ裏山に捨てて、手をしっかり洗いな。」というので、縄だわしで痛いほどこすって手を洗ったことを思い出した。
後で聞いた話だが、その頃まだそのお墓は土葬で、大きな甕に入れて遺体を葬っていたそうだ。
余談になるが、また別の夏、大雨が降ってそのお墓の甕がむき出しになり、隙間から髪の毛が出ていたということで大騒ぎになって、もう二度とそのお墓には行けなくなったこともある。

お墓に彼岸花がよく咲いたり、田んぼの畔によく咲くのは、彼岸花の根には、球根一つにネズミだと1500匹の致死量に相当する15mgのリコリンという猛毒がが入っていて、ネズミやモグラから害を防ぐために植えられたからだそうだ。
そう言えば、彼岸花には地方地方でいろんな呼び方が100ほどあって、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあ等々、不吉であると忌み嫌われる呼び名もあるという。

一つの茎に一つのあんなに大きな花をつける植物も珍しい。
前にも、北原白秋作詞、山田耕作作曲の歌曲「曼珠沙華」を投稿したことがあるが、あれなどは多分「ゴンシャン」と呼ばれたいいところのお嬢さんがなさぬ仲で子を身ごもり、おろしたのか流れたのか、水子を偲んだ歌だともいう。
暑い暑い夏をやっとこさで越え、澄んだ秋空の下には稲もたわわに実り、あちらこちらから祭り拍子の太鼓や笛が流れ、飲み、歌い、踊り、これからまた長い冬を越さねばならない、毎年毎年のことながら巡る季節の中での人の営み。
それらがぎゅっと凝縮したような、艶やかでいて、毒々しくもあり、見ずとも見てしまう彼岸花、仏名曼珠沙華、彼岸花であって此岸花。そういえばまだ今日(9月30日)も咲いていたなあ。

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二百十日(にひゃくとおか)

 
二百十日(にひゃくとおか)、もうこの言葉をどれだけの人が知っているだろう。

子どものころ、9月に入ると大人たちが時々この言葉を口にしていたのは覚えているが、最近では聞いたことがない。
雑節と言って、人日(じんじつ、七草の節句)、上巳(じょうし、桃の節句)、端午(たんご、菖蒲の節句)、七夕(しちせき、七夕の節句)、重陽(ちょうよう、菊の節句)の五節句に入らない季節用語で、「八十八夜」と同じように主に農業用語として古来使われてきた季節言葉。

「夏も近づく八十八夜・・・」という文部省唱歌も今は歌われているのかどうか知らないが、立春(2月4日ごろ)から数えて88日(5月2日ごろ)、霜もようやく降り収めいよいよ夏に移る節目の日で、茶摘み、苗代の籾播き、蚕のはきたてなど、新しい季節に備える縁起のいい日と言われてきた。八十八夜に積んだ一番茶は良質で不老長寿の「縁起物」と言われてきたのもその由縁。
   霜なくて曇る八十八夜かな    正岡子規
裏を返せば、この時期に強い霜が降ればせっかくの良茶も台無しになるから注意しなさいよという警句でもあったわけだ。

いっぽう、やはり立春から数えて「二百十日」(9月1日ころ)は凶日。
昔、伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日と言い伝えてきた日で台風襲来の特異日とされ、奈良県大和神社で二百十日前3日に行う「風鎮祭」、富山県富山市の「おわら風の盆」など、農作物を風雨の被害から守るためにも、各地で風鎮めの儀式や祭が行われてきた日である。
統計的にはこの日近辺の台風襲来は少なく、8月下旬と9月中旬位が台風襲来のピークで、どちらかといえば台風来襲の端境期でもあるそうだ。この頃が稲の出穂期に当たり、強風が吹くと減収となる恐れがあるために注意を喚起する意味で言われ始めたのであろう。

ただ、個人的体験で今までで最も怖かった台風は、1950年9月3日徳島県に上陸し、淡路島を通って神戸市垂水に上陸したジェーン台風である。
記録では、最低気圧940hPa、最大風速50m/s、死者398人、行方不明141名、負傷者26,062名。神戸の測候所で風速40m/sまで観測できたが風力計が破損してそれ以上は計れなかったとか。途轍もない台風だった。
我が家でも、家が倒壊する恐れがあるからと筋向いの松下病院(今のパナソニックの附属病院)に避難したが、避難するべく綿帽子を被り家を出たとたん電柱から次の電柱まで吹き飛ばされ、警戒にあっていたお巡りさんにやっと助けられた。
避難所から見える我が家は見る見るうちに壁がそぎ落とされ、屋根瓦がむしり取られて木の葉のように飛んで行く。空には木の葉のように飛ぶ屋根瓦に混じって、畳1枚分はあろうかというブリキのトタンが何枚も空飛ぶ絨毯のように飛んで行く。まさに地獄絵図で今も鮮明に思い出す。
ちなみにもう一つ怖い思いをしたのは1961年9月16日室戸岬に上陸し、その日のうちに兵庫県尼崎市に上陸した第2室戸台風である。室戸岬上陸時にはなんと925hPa、瞬間最大風速は84.5m/s以上で風速計が振り切れて測定不能になったというからジェーン台風以上。当時通っていた高校の道沿いに並んでいた幹回り20cmはあろうかという柳の木が、雑巾のように捻じ曲げられて折れていたのにはびっくりした。
このように「二百十日」は現実だったわけだ。
だから子供のころ、逆にこの「二百十日」は待ち遠しかった。台風が近づけば学校が休校になるからだ。「二百十日」=休校、という等式は今も頭から消えないから、なんだか二百十日頃になると今でも少しワクワクする。

そういえば、関東大震災だって1923年(大正12年)9月1日だったし、夏目漱石にも『二百十日』というあまり知られていない中編小説がある。
華族や金持ちに反感を持つ圭さんとどちらかというとそちら側の碌さんという二人の青年の道行き小説だが、阿蘇山を旅行していてこの二百十日に嵐に出くわして道に迷い、碌さんが火溶石の流れた後のくぼみに落ちてしまってけがをするが、圭さんがやっとの思いで助け出し、そのれまでの口論はさておいて、また阿蘇登山に挑戦するという他愛無い話だが、漱石が「二百十日」にこだわったのが面白い。

今年(2016年)の「二百十日」は8月31日だったそうだから、こちら関西は幸いにも難を逃れたが、東北、北海道の方々はまさしく凶日になり、全くお気の毒としか言いようがない。
8月30日午後6時に岩手県大船渡市付近に上陸した台風10号は、そもそもが観測史上初めての太平洋側からの直撃台風で、北日本では所によって24時間雨量が8月の観測史上最大となるような記録的な大雨をもたらし、特に北海道と岩手県では河川の氾濫や浸水、土砂災害等による被害が相次ぎ、岩手県岩泉町の高齢者グループホームでは9人が死亡、また、岩手県内では岩泉町と久慈市で800人余りが孤立状態になったという。

皆さん、「二百十日」を覚えておいてください。私たちの先人が残してくれた大切な警句ですよ。