♪♪♪ 薪能 ♪♪♪
今日から6月。旧暦でいう水無月だ。梅雨の月なのに水無月というのも変だが、旧暦の6月は新暦の7月後半に当たるから、まさに梅雨が明けて、カラカラの真夏で水も枯れるから水無月というのが有力な説だ。ただ奈良時代頃の古語では「無」は「の」の意味で、「水無月」は「水の月」という意味にもなるので、これも一説だ。
それにしても月日の経つのは全く早いものだ。月並みな感想だが実感だからしょうがない。
梅を追い、桜を追い、バラを追いかけていたらいつの間にか菖蒲ですぐ紫陽花だ。もう今年も半ばにさしかかっている。
花ばかり追いかけるのも歳のせいだといわれるのはしゃくだから言っておくが、昔は高山植物にとりつかれ命を賭して深い山々まで分け入ったこともある。
自然の造形はなぜかくも美しいのか、なぜこんなに美しくなければならないのか、人を喜ばせるために単に美しいわけではないだろう。
梅を追い、桜を追い、バラを追いかけていたらいつの間にか菖蒲ですぐ紫陽花だ。もう今年も半ばにさしかかっている。
花ばかり追いかけるのも歳のせいだといわれるのはしゃくだから言っておくが、昔は高山植物にとりつかれ命を賭して深い山々まで分け入ったこともある。
自然の造形はなぜかくも美しいのか、なぜこんなに美しくなければならないのか、人を喜ばせるために単に美しいわけではないだろう。
そこにはやはり己が生命の保全と種の永遠性を保つための進化と適応性から生まれ出た象形が美しさとして感知されるのだろう。
フィボナッチ数列というたわいもない数列が、自然の造形美を人に説明していることはつとに知られている。
オウム貝の渦巻き、ヒマワリの種の配置、松ぼっくりの鱗片の付き方、マウスの繁殖の仕方、植物の葉の付き方、はたまた、パルテノン神殿の構造美、北斎の「神奈川沖浪裏」にみられる構図の美しさ、数え上げればきりがない。
自然の造形美が数(すう)であらわされる神秘は、自然のそして人工の造形美にも法則があることを告知している。でたらめではないのだ。
その自然の美しさに人は見とれ、ため息をつき、歳をとればとるほどひきつけられるのは、暇だからでもなければ、心に余裕ができたからでもきっとない。
神にすがり、仏にすがるのと同じで、命の安全性、永遠性を願ってのことに違いない。目の前に具象化された花々の美しさにそれを観るのだ。
6月1日と言えば、京都では平安神宮で「薪能」が奉納され、学生時代には毎年のように出かけていたものだ。夕闇の中で篝火が焚かれ、平安神宮の朱塗りの社殿が映し出されるなか、特設の能舞台が闇夜に浮かび上がり、幻想的な雰囲気が辺りを包む「京都薪能」は、今や京都の初夏の風物詩となっている。
緩にして急、能舞いからも窺える人の一生は、まさに花と同じ、緩にして急なのである。