ふき掃除 ―小さな文明論ー

ひょんなことから文化、文明の端くれのようなことに思いが及んだ。

今朝、黒豆を炊いていて、煮具合を確かめるため、しゃもじ(みなさん、「おたま」と呼ぶんだそうだけど、ぼくなんか小さい時からそう呼んでいたんで)に数粒すくってお皿に取ろうとしたら、もうだいぶとろけていた汁が床に落ちた。床がフローリングだからスリッパを履いていたんだが、その落ちた汁を踏んづけちゃって、そしてそのまま数歩歩いたものだから、足元が粘つき気持ち悪いこと限りなし。
さっそくスリッパの裏を雑巾で拭き、ついでに床を拭こうとしたんだが、長いこと床のふき掃除もしたことがないし、いっそのことと台所だけでもいいから床掃除でもするかと一大決心をした。
根っからの無精者で、掃除機くらいは数日おきかな、一応掛けてはいるが、床拭きなんかめったにやったことがない。
バケツに水を汲み、雑巾も二枚用意して、ほんとに久しぶりに手ずから床掃除を始めたわけだが、広くもない台所の床半分も拭き終わらないのに、足腰が痛くて痛くて。
ちょっと休んでからと、炊き立ての黒豆とコーヒーを用意し、これが好きなんだよね、甘い黒豆とコーヒーが実によく合うんだよね、これをパソコンも置いてある電気炬燵に運んでと、おっととっとと・・・

思えば、昔同居していた大叔母がとても掃除好きで、毎朝毎朝、部屋という部屋を柄の長い箒で掃き、その後いつも雑巾がけをしていたっけな。今の僕みたいに、ちょっと掃除の真似事をしただけで「ああしんど」と休んだ姿を見たことがない。確か午前中はずっと掃除をしていたように思う。
六十は過ぎていただろうか、元気でよくあんなに働けたものだ。
そうだよ。この床拭きだけでもかなりの重労働だよ。それを毎日日課にしてたんだから、そこらそん所のスポーツジムに通うよりよっぽどハードなトレーニングをこなしていたわけだ。きっとこれが元気の源だったんだよな。

目の前のパソコンに「拭き掃除」と入れ、検索したら、「クイックワイパー」という商品がやたら目についた。
そういえば僕も持っていたっけ。忘れていたなあ。どこかに仕舞い忘れたままだ。
便利だよね。長い柄のついたアルミ棒の先に化学洗剤のついた雑巾をセットし、床を拭きゃいいんだ。足腰を痛めることなく床掃除もできる。
そういえば電気洗濯機、掃除機、皿洗い機、みんなそうだよ、何もかもが実に便利で快適だ。
人を「苦痛」や「苦役」から解放することは決して悪いことではないし、そのためにいろんな戦いがあり、工夫があり、文化文明の発展があったわけだし、まだまだ解放しきれていないことだっていっぱいある。これから先、もっともっと便利で快適な世の中が実現していくんだろうな。
でも今日図らずも体験したこの「苦痛」は何だ。
日常生活の中でもっと体を使い、畑で鍬を振るような生活をしておれば自然と解消されていたこの苦痛は、大げさかもしれないが、これから発展していく文化、文明の裏返しを予感させるものを感じ取らせた。

何年前だったか、佐倉統という学者が出した『「便利」は人を不幸にする』という本のことを思い出したが、原発問題だってそうだ。
今日本ではこれからのエネルギー問題として原発の利用と廃棄で国論が二分している感じだが、一度手にした「原発」の便利さはその危険性をどんなに指摘しても手放せいない気がする。日本がではなくて世界が、人類が手放せないだろう。

さて、確か納戸にしまったはずのクイックワイパーを出して拭き掃除でも再開するか。

ぼくの時間、ぼくの寿命

さーてと、もう1月も今日でおしまいだ。
長かったなあ。
いつもそうなんだよなあ、1月は長いんだ。
月の途中で2月と勘違いして、あれあれっとどぎまぎしたこともあったけなあ。
どうしてなんだろう。
お正月があったりして、いつもとは違う生活がリズムを狂わせ、時の流れを堰き止めるからだろうか。
もしそうで、長生きしたかったら、どの月も非日常的であればいいということになるんだが。
のんべんだらりといつの間にか時が過ぎていく生活を送っていると早く年を取る気がする。
昨年もそうだった。1年が実に速かったなあ。あれよあれよと思っている間にもう12月だというのが実感だった。

今から20年ほど前に『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達夫著)という新書版を面白く読んだことがある。
基本的には、生物の分野の動物のサイズに関する知見が語られている実に学術的な本だが、我々余人にとっては余談が面白かった。
ネズミ以上の哺乳類では心臓の拍動数が決まっていて大体15億回であり、1回にかかる拍動時間が普通のネズミは0.2秒、ネコで0.3秒、ウマで2秒、そしてゾウだと3秒かかるそうだ。
これを人間に当てはめてみると、1回心臓が打つ時間が大体1秒だから、1秒×1,500,000,000回÷3600秒(1時間)÷24時間(1日)÷365日(1年)≒47.5年ということになり、同じ計算でネズミが9.5年、ネコ14年、ウマ95年、ゾウ143年という結果になるが、ゾウで大体寿命が70年くらいといわれているからどうなんだろう。
気になるのは人間の寿命だが、生物学的には47.5年は妥当なところだろう。
縄文時代の日本人の平均寿命は24歳だといわれているそうだが、日本の近代だけを取ると、明治維新頃で32歳、大正で44歳、昭和25年で60歳、そして今や80歳であるから、近代からこっちの寿命の伸びは実に顕著であるわけだ。人間の寿命は生物学的な要因よりもっともっと多様な要因で決まるようだ。

さて、ネズミの9.5年がゾウの143年に相当し、縄文人の24歳が現代我々の80歳に相当するとすれば、ネズミや縄文人の時の流れは実に速く、ゾウや現代のわれわれの時の流れはゆったりとしたものだということになり、絶対時間では測れない相対時間があって、同じ1カ月、1年が自分の中でも違い、人によっても違うものになり、これが充実した生活、人生であったり、悔いの残る人生であったりするのかもしれない。
考えさせられるなあ。

さてと、2月3日は節分。恵方巻を準備して。梅便りもぼつぼつかな。

瓢箪はひょこりんたん

♪♪♪ 瓢箪の歌 ♪♪♪

気になってしょうがない歌がある。
うる覚えだが歌ってみたのが上の『瓢箪の歌』である。
歌詞は、

瓢箪は ひょこりんたん
月の夜更けに 夢を見る
何時か何処かで 何かをしたい
何って何さ 何処って何処さ
何時って何時だかわからない
わからないけど そんな夢
そんな夢見て ひょこりんたん

で、題名もわからないし、歌詞も旋律もうる覚えだが、未だに覚えているから不思議だ。
そして驚いたことには、これが今の時代なんですね。
「瓢箪がひょこりんたん」と検索してみたら、同じ思いの人がいるはいるは、YouTubeで歌っている人までいる。

皆さんの書き込みから、どうも昭和35年(1960年)前後にNHKで放映された子供番組の主題歌らしい。
4回しか放映されなかったらしいから、僕の記憶も大したものだと言ったら叱られるか。
そうじゃなくって、それほどぼくにはインパクトがあったということだ。
豊臣秀吉が日吉丸と呼ばれていたころ、夢を求めて天下を放浪する物語だったように記憶している。
実に素朴でちょっと寂しさの漂う、今歌ってもいい歌だなと思う。

NHKにも問い合わせた人もいるいるそうだが、NHKにも資料が残っていないそうだから、ほんの単発番組であったんだろう。
これを読んでいただいた人の中にも思い出していただける方がいればうれしいなあ。

遺伝子検査

「GeneLife2012」という遺伝子検査キッドが話題になっている。
「NHKスペシャル あなたは未来をどこまで知りたいですか~運命の遺伝子~」で取り上げられてからである。
29,800円でそのキッドを購入し、その中に入っている採取ケースに必要量の唾液を採取し発売元に送ると、2か月後の検査結果がメールで送られてくる。
36項目の検査内容が報告されていて、脳梗塞、心筋梗塞、2型糖尿病などの生活習慣病や、片頭痛、痛風、リウマチ、鼻炎アレルギーなど病気の発症リスクがわかるそうで、それ以外にも、免疫力や記憶力、アルコール耐性などの体質、身長や筋力の発達タイプによる運動能力などの特徴的な要素もわかるそうだ。
NHKスペシャルでは、俳優の平岳大がアメリカで1万円で手に入る同様のキッドを購入し検査すると、心房細動のリスクが標準の2倍あるという結果が出てショックを受けたり、アルツハイマーの発症確率が高いということに不安の表情を浮かべたりする場面があるが、まさに遺伝子検査はこれからますます広がる様相である。

1953年にアメリカのジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによってDNAのB型二重らせん構造のモデルが示されて以来、半数体遺伝子が人ならば約31億個の、たったA,T,G,Cという4つの記号であらわされる塩基対で構成されていることが解明され、その遺伝子情報の解読に挑戦することになる。
当初は全情報を解読すること自体が無謀だとさえ思われたが、その後の科学技術の発展で解読可能性が高まり、1990年には15年先を目標にヒトゲノム解読計画が立てられ、1993年にアメリカ、イギリス、日本、フランス、ドイツ、中国を中核にした国際的協力のもと本格始動、その後のコンピュータやその周辺技術の発達と相まって、予定より早く2003年、ワトソン、クリックが予言してちょうど50年目にヒトの遺伝子情報がほぼ100%解読されたわけである。
そして驚くべきことに、こうして10余年かかったヒトゲノムの解読がシーケンス(並んだ順番にデータや手順を処理していくこと)技術の飛躍的発展で今や1日で可能になったのである。

その遺伝子解析技術を応用したキッドが売り出され話題を呼んでいるわけだが、医療現場においても、例えば肺がんであれば、DNAの塩基配列のある個所の通常CのところにAが入ってALK融合遺伝子ができるとその指令によってできるタンパク質はコントロールが利かなくなり、細胞の無制限な増殖つまり癌になる、だからこのたんぱく質を攻撃することによって細胞の癌化を防ぐことができるわけで、そういう薬を開発すればよく、実際、例えば「ザーコリ」という新薬はピンポイント薬剤として肺がん治療で一定の効果を上げている。
こうした医療分野における期待は実に大きいわけで、今までは手の付けようがなかった難病もやがて治癒できる可能性も出てきたわけだ。
しかし人間の欲望はそれだけにとどまらない。
ダイエットに使いたい、肌を白くしたい、何とかタバコをやめたいが、くらいならまだ可愛いが、知能指数の高い子を授かりたいとか、将来オリンピックに出られるようなアスリートに育てたい、世界一のピアニストにしたいが、ということにまで手を伸ばしたら、ちょっと待ってよということになる。
実際、中国では英才児を育てるために、どの才能が優れているかを知るために遺伝子検査キッドを購入する親が増えていたり、その会社までできているそうだ。それどころか遺伝子を組み替えることで理想通りの子供を育てたいという相談が絶えないとか。

そうそう、これなら他愛なくて面白そうですよ。
「祖先遺伝子検査キッド」というのがあって、現代の世界の人々はおよそ35人の母親の子孫で、日本人の95%はその中の9人に起源をもつそうで、それがわかるというキッドです。
どうですか。だから、みんな仲良くしなくちゃあ。
世界のみんなはこの35人のお母さんの子孫だし、われわれ日本人は9人のお母さんの子孫なんですからね。

恥の文化

 

「恥の文化(Shame culture)」とは、知られているように、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史がその著『菊と刀(The Chrysanthemum and the Sword)』で、欧米の「罪の文化(Guilt culture〉」に対比して提示した日本の文化の型である。
名著の誉れ高い著書であり、それまで捕えがたい日本、日本人と思われてきた日本文化の特質を明確に描き出し、第二次世界大戦以後の占領軍による日本統治に寄与したと同時に、我々戦後日本人の心理形成にも大きな影響を与えたことは事実である。
確かに日本の諺や格言、慣用句には「恥」にかかわる警句や錬言は多く、いかに恥じることのない人生を全うするかはどんな日本人の心にも宿っている。
ベネディクト女史の観察及び指摘は根底に白人優越思想があって、宗教観、特にキリスト教の「Guilt」をバックボーンにした西欧の文化は自律的で正義を重んじ、「恥」を基調にした日本の文化は依存的で常に他人の目が価値判断の基準になると言って、「内面」重視の西欧人の規範が「外面」重視の日本人の規範に勝っているかのように言っている。

ところが今ここにきて、日本の「恥の文化」がその真価を発揮し始め、日本の文化が世界の注目を集めている。
「お・も・て・な・し」で際立った感のある日本人のホスピタリティのすばらしさをはじめ、文化、芸術、アニメ、食、職人芸、ありとあらゆる分野で日本の文化は世界に浸透しつつある。その根底になっているいるのが「人に恥ない」心意気である。
ベネディクト女史が指摘したように日本人は「他人の目」を気にするからこそ恥じないものを生み出しているのだ。
今人の目がなくとも、いずれ人の目に晒される、その時にも恥じないように気を配るのだ。
人が見ていないから手抜きをしようとか、骨休みをしようなんて考えはさらさらない。
人が見ていない時こそ自分を磨き、研さんに励み、もっと高みを極めたいと念じるのが日本人だ。
前のブログでも書いたが、この心意気は今に始まったことではない。日本人が古くから持ち合わせている気質なのである。
だからどんな職種、どんな分野にも達人がいるし、与えられた仕事に誇りを持ち、だれにも負けない技術と知識と経験を持ち合わせ心のよりどころにもしている。
一神教から生まれた自己規範は時には独りよがりに陥りやすい。自分だけが正しいと思い込み、自分こそが正義だと他を制圧する。
日本人にはそれがない。森羅万象なんでも神さんであり、仏さんで、どこかで自分を見守っている。変なことをできるはずがない。

日本は21世紀初頭からバブルのあおりで勢いをなくし、東北大震災に見舞われ、福島原発で類を見ない試練に立たされているが、なんだかやっと光明が見えてきたような気がする。
世界がいま大いに日本を気がかりにしている。チャンスだ。
紅葉の季節真っ盛りの今、外国人観光客が競って日本に押し寄せていると聞く。
どの国にも紅葉はあるそうだが、日本のあの真っ赤な色づきはどの国にもないそうだ。
今年の外国人観光客の数が初めて1000万人を越えそうだというが、それでもフランスの年間8000万にには遠く及ばない。
2020年東京オリンピックはまたとない機会。これを機に世界からもっともっと多くに人が来てくれるよう、日本をもっともっと美しく、居心地の良い国にしなければならない。
福島原発問題。韓国、中国との付き合い方。国内外の問題も山積しているが、何とかこれらを克服して、21世紀の輝かしい日本を築き上げたいものだ。

じぇじぇじぇ

まさしく、じぇじぇじぇ、である。
「朝ドラ」という言葉は知ってはいたし、中でも「おしん」は人気ナンバーワンであることくらいも知ってはいたが、今までまともにこの手のドラマは見たことはなかったし大した関心もなかったが、この「あまちゃん」だけは第1回から最後の第156回まで、およそ3か月くらいかかったが、やっとこの11月17日に観終わった。
iphoneを持ち歩くようになってから、NHKの「オンデマンド」を視聴するようになったが、「あまちゃん」が人気になっていることを知って、暇なときにたまたま喫茶店で見たのが最初だった。
「オンデマンド」なら時間に縛られることはないし、好きな時に好きなように観られるから、第1回目から、時間があれば何回分も連続して観ることもできる。
ドラマ構成のことはよくわからないが、まず出だしの音楽がいい。スッタカタッタ、スッタカタッタとまずこのリズムに引き込まれる。
俳優のことも宮本信子を知っているくらいで初めて見るような俳優ばかりだが、色とりどりのあくの強そうなキャラクターを持ち合わせた俳優たちが十二分に持ち味を発揮し、主演の能年玲奈の素人っぽさと言おうか、地のままの明るさを際立たせ、視聴者との距離感を縮めたのが人気の原因ではないかとも思った。
笑いあり、涙あり、どこにでもあるような日常性が大げさにあぶり出され、パアッとはじけるようなハチャメチャ振りも、東北大震災以来塞ぎがちな国民感情の鬱憤を払いのける効果があったのではなかろうか。
朝の15分のドラマだそうだが、それゆえか、どの場面にも見せ場があり濃い内容で、よくもまあ150回も160回も綴り合せられるものだと感心もしたし、見直しもした。
ドラマの感想をどう書き表しらいいのかよくわからないが、観終わって、心が明るくなったのは確かだ。

年齢差別 ―エイジズムー

ある日生徒が新聞の折り込み広告を持ってきた。市内中学の「学習支援ボランティア」の募集広告である。
応募要項があって、氏名、住所、電話番号の欄にはもうすでに僕のことが書き込んであって、これを出してもいいかとその生徒が聞く。
空いている時間があればああいいよと気軽に返事をしたんだが、先生歳幾つだと聞かれたとたん体が硬直した。
年齢欄があって僕の歳がわからないから今書き込むというんだが、また来たか、これを聞かれることがいちばん苦痛なんだよ。
「年齢不詳」と書き込んでおけと言ったら、生徒は怪訝そうな顔で「不詳」という漢字がわからないからひらがなで書き込んでいた。
別に望んで応募するわけでなし、そんないい加減なことでいいんかなと思ったりもしたんだが。
そんなこともすっかり忘れていたころに近くの中学校の校長から招請があってあらためて自分の不真面目さに反省した次第。

よく女性に歳を聞くほど野暮なことはないというが、男だってぼくくらいの歳になるとそれは嫌なことだ。苦痛以外の何物でもない。
アメリカに長く滞在したことのある親戚に何かの機会にこのことを言ってみたら、アメリカでは早くからagism (ageism)という意識があり、もうすでに1967年に年齢差別禁止法(ADEA)が制定されていて、使用者が履歴書や応募書類に応募者の年齢や生年月日を記載させることはできない。そのためアメリカの応募書類に年齢や生年月日の項目はなく、面接の際にも年齢を聞くことは禁止されていたり、事前の写真送付さえ禁止されているというから徹底している。
さすがアメリカだ。
人種のるつぼといわれるアメリカだから差別意識も多様で根が深く過敏にならざるを得ない事情もあるんだろうが、その分人権意識も高く、この点でも確かにアメリカは世界をリードしている。
日本はというと、2007年にやっと「雇用対策法」でそれらしい法律はできたものの、履歴書では生年月日及び年齢を書くのはいまだに当たり前、年齢は人を雇う際の重要なポイントにもなっている。
それではヨーロッパではどうなのかと調べてみたが、EUでも2006年になって初めてすべての加盟国が年齢差別を禁止する法律を制定したというから、日本だけが年齢差別後進国でなかったわけだ。

1970年代まで「定年」といえば55歳というのが常識で、それが60歳まで延び、今では60歳で定年を迎えた社員のうち希望者全員の65歳までの継続雇用を義務付ける「改正高年齢者雇用安定法」が今年4月から施行されたが、内実は以前と全く変わらない。
日本人の平均寿命も男性に限っても100年前で42歳前後、50年前で60歳、今や80歳の一歩手前まで延びているから、100年前と比べたらおよそ2倍に伸びているのである。
無聊を託つ(ぶりょうをかこつ)」という言葉がいつからできたのか知らないが、そんなことを口にする友人や知り合いが最近急速に増えてきた。こうした年齢と雇用制度、その意識のギャップがますます拡大してきている証拠だ。
働きたくとも働けない。実に残酷なことだ。
年金制度がいくら充実しても「人はパンのみにて生きるにあらず」、まさに「人は社会的動物なのである」。

FM-MENU

 
【追伸】Windows10 でも使っています。(16ビットの時代のソフトで、32ビット時代を経て今や64ビットの時代。アンティークもいいところですね。)

10月18日、Windows8 の改良版である Windows8.1 が発売になる。
先日もあるソフトを Google の Chrome を使ってダウンロードしたところ、「Hao123」という中国のブラウザと、よくは忘れたが不良レジストリーの掃除をするとかなんとかいう謳い文句の寄生虫ソフトががくっついてきて、「hao123」は簡単に除去できたが、もう一つの寄生虫ソフトが厄介な奴で、寄生されたとたんパソコンの動きが悪くなり、だからレジストリーを掃除しなさいよと言わんばかりの悪質な奴なんで、除去するのも面倒だから、いっそのこといい機会だからということで、windows8.1 のプレビュー版をインストールすることにした。
18日まで待ってもよかったんだが、今まででも大概新ソフトが出るときはプレビュー版を手に入れてあまり不都合も起こったことはないし、発売されると、例えば Windows8 の場合プロで3万円近くのものが、プレビュー版から使っていると今回は3千円で手に入れることができたという特典があったりしてプレビュー版から使うことは当たり前になっている。
今回の Windows8 から Windows8.1 のバージョンアップは、Windows8 を使っていたら無料でということもあって早めのインストールとなったわけだ。

嫌なソフトがくっついてきても嫌なので、真っ新のリカバリーとなると結構時間もかかる。
Windows8.1 も無事インストールし、Windows Office やメールの設定、様々なアプリケーションのインストールとなるともう半日がかりだ。
そしていつもそうなんだが、おおむね主要なアプリケーションを入れてしまうと、最後にインストールするのが、もうかれこれ20年にはなるだろうか、「FM-MENU」というランチャーソフトである。
ランチャーソフトというのは、ご存知の方も多いだろうが、様々なアプリケーションのショートカットキー(簡単にソフトを起動できる出先キー)を一か所に集めて機能性と機動性を持たせた一覧表で、パソコンを開いたときに左下から出るスタートキーの便利版といったようなもの。
この「FM-MENU」は「FM」というから富士通パソコンにインストールされていたものだが、その後様々なパソコンをとっけひっかえ使ってきたが、最後にはもうケースも傷だらけの「FM-MENU アプリケーションCD」を取り出し挿入ということになると、いつも感慨にふけってしまう。
20年余り、パソコン環境はまるで様変わりし、高度で高機能なアプリケーションソフトが満ち溢れ、もちろんランチャーソフトもそれなりの進化を遂げているわけだが(https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=lV9SUs-FM4GUkQWw7oGQBw&sqi=2&ved=0CEkQsAQ&biw=1440&bih=813&dpr=1)、ランチャーだけに関してはこの「FM-MENU」に勝るものに出くわしたことがない。
実に素朴で単純で、そこに盛られたショートカットキーを押せば目的のソフトにヒットするだけ。それ以外何の飾りもなければ余計な機能もない。それがいいのだ。これほど重宝するソフトはないのである。
16ビット時代の代物だから、今では16ビットの変換ソフトを導入しますかとパソコンから問われる。もちろんOKだ。
そして Windows がバージョンアップされるたびに、もう使えなくなるんじゃないかとびくびくだ。
今回も、他にもぼくのような人はいないかとWeb上を探したら、いた。いるんだなあ。やっぱりいるんだ。うれしくなっちゃたよ。
最新の Windows8.1 に化石ソフト「FM-MENU」が乗っかって、さあ出発!

fmmenu

リニアモーターカー

先日8月29日中央新幹線の「リニアモーターカー」がついにお披露目された。
2027年東京―名古屋間を40分、2045年東京―大阪間を67分で東京と大阪を行き来できるようになるというのだから驚きだ。
今の東京新幹線が開通したのが1964年。同年の東京オリンピック開催直前の開通となったわけだが、たしか東京―大阪間で4時間。
その前年に東京に用があって、特急の「つばめ」だったか「はと」だったか、大阪を朝9時に出て夕刻の4時頃に東京に着いた記憶があるから7時間くらいはかかったわけだから、この4時間がいかに驚異的だったか。
ちなみに思い出すのが高校の修学旅行。大阪から国鉄の在来線に乗って九州の長崎に向かったわけだが、朝9時に大阪駅を出て長崎に着いたのがたしか翌日の朝8時だったから、おおかた24時間。今だったら5時間もかからない。新幹線や飛行機が当たり前の今の若い人たちに言ったら嘘みたいな話になる。

たかだか60年かそこらの人生にしてこの目まぐるしい時代の変化は何を意味するのか。
「弾丸列車」という言葉がもうすでに第2次世界大戦以前から語られ、それに向かっての研究がその時から始まっており、1964年に「東海道新幹線」となって実現し、その2年前の1962年に研究が始まった「リニア」が今や現実化し、さらにもう21世紀後半に向かっては無燃料の重力を利用した「真空チューブ列車」の研究が始まっているという。
いつの時代もそうだったのか、それともこの20世紀、21世紀があまりにもその変化が激しいのか、比べるすべもない。
人類の夢には限りがない。
しかしどうかその夢が実現した暁には人類にとって幸い多きものであってほしい。

ただ、2027年のリニアには乗りたいが2045年のリニアには乗れまいという人間としてのはかない現実を突きつけられたショックは大きい。