お迎え ― 極楽往生 ―

 

・大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和しうるはし – ヤマトタケル

・行きくれて木の下のかげを宿とせば花や今宵の主ならまし – 平忠度

・願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃 – 西行

・旅に病んで夢は枯野をかけ廻る – 松尾芭蕉

・人魂で行く気散じや夏野原 – 葛飾北斎

好きな辞世の句を挙げてみた。好きな句というよりも好きな人物の辞世の句といった方が正しいかも知れない。
人はこの世に生まれてきていつかは死ぬ。当たり前と言えば当たり前のことで、何かの機会にでも出くわさなければこんなことは考えない。

先日、安倍内閣が発足して間もなく、3人の殺人犯の死刑が執行された。三者三様で、一人は「生まれ変わってもまた人を殺す。」と言い残し、一人は刑の執行を催促しながら最後まで生に執着した。
その前には、テレビによく出ていた経済評論家の金子哲雄氏が41歳という若さで肺カルチノイドという癌で死んだ。

人の最期は様々で、死刑囚の死と人に慕われた人の死といっしょくたでは非難の誹りを免れないかもしれないが、死という現実を身近に感じさせられた瞬間だ。

金子氏は医師から余命いくばくもないと言われた瞬間からしばらくは「死の恐怖」で眠れなかったという。
そうだと思う。
ぼくなんか、こうして話していても自分の死なんかは考えたくないし、考えないようにしている。怖い怖い。

怖い一心で思い出したのが、去年の2012年8月29日、NHKの「クローズアップ現代」で放映された「天国からの“お迎え” ~穏やかな看取り(みとり)とは~」である。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3238.html

「死んだ親父が会いに来た・・・」など、死を間近に体験すると言われる“お迎え”現象について社会学者が調査した内容で、高齢者や遺族500人あまりを調査、自宅で看取られた人の4割が“お迎え”を体験し、そのうちの8割が死への恐れや不安が和らぎ、穏やかに看取られていったことが分かったという。そして、現代医学の進歩が、いわゆる「延命治療」を施すことによって、“お迎え”を阻害しているのではないかという懸念を投げかけた。

昔、源信和尚が「往生要集」という本を著し、死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、この書物で説かれた厭離穢土(おんりえど;この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるということ)、欣求浄土(ごんぐじょうど;極楽浄土に往生することを心から願い求めること)の心こそが極楽往生への道だと信じた当時の貴族・庶民らにも広く信仰を集め、後の哲学や文学思想にも大きな影響を与えたという。

紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れて“お迎え”にやってくる「来迎図」はなんとロマンに満ちた旅立ちんの光景ではないか。
阿弥陀如来が「親父」や「おふくろ」に姿を変えているかもしれない。死んだ恩師や友人が観音菩薩や勢至菩薩の化身かもしれない。
もう怖くなんかない。
「南無妙法蓮華経」でもいい、「Amazing Grace」でもいい、家族や友人が唱和する中で“お迎え”が来たらなお最高だ。

国を想い、故郷をたたえ、桜の花の下で眠りにつきたいなあ、御釈迦さんのところへ行くんだぞ、死んでも人魂になって野原を駆け巡ってやるぞと思って“お迎え”を待つのもまたいいだろう。

時代が変わり、環境が変わり、そんな中でも人は生きそして死んでゆく。
生まれる時は何も考えずに生まれてくるが、死ぬときはそういうわけにはいかない。
苦しまず、騒がず、できることなら安楽に死にたいものだ。
“お迎え”は決して他人事ではない。

節分 ― 恵方巻 ―

 

もう二月に入った。
この間正月を迎えたばかりなのに明日は節分。通りがかりのコンビニやスーパーにしてもどこを見ても「恵方巻」の宣伝がやけに目につく。
「恵方」とはなんでもその年の幸運を招く方角だそうで、2013年の恵方は南南東になるそうだ。
節分と言えば豆まきしか知らなかったが、今ではこの恵方巻が主流になりつつある。
大豆を炒って「鬼は外、福は内」と玄関口に福豆を撒き、家族同士が歳の数に一つ足した数の豆を食べてこの先一年の無事息災を祈る。
若いご夫婦家族が子供たちと豆まきをしている光景は見ていてもほのぼのとする。
これはこれで古き良き伝統で続いて行ってほしいと思うが、どうも恵方巻には勝てない気もする。
年々豪華になるようで、今年の極めつけは、名鉄百貨店本店の「金銀福寿巻」なる恵方巻だそうで、老舗のすし店が金ぱく・銀ぱくを付けたノリで巻いた2本組み、お値段末広がりの8800円、限定50組を予約受付をしたところ、早々と完売というから恐ろしい。
こんなのは話題の一つとしても、スーパーで買う恵方巻も結構豪華で食べ応えがある。
これを丸かじりするというのだから面白い。
どういういわれがあって、誰が考え出したのか、どうも大阪が発祥の地だと聞いて納得だ。
豚や牛の贓物を放ってはもったいないと「ホルモン」として売り出した大阪だ。
食べるものもいっぱいあって、それほど見向きもされなくなった巻きずしを売り出そうと、どこかのすし店がそれこそ巻き返しを図ったに違いない。
恵方巻もいまや全国区。
ミツカンの調査によれば恵方巻の認知度は、全国平均は2002年(平成14年)時点の53%が2006年(平成18年)には92.5%となったという。
もうすぐ、バレンタインデー、母の日に父の日、こんなのは昔なかったと思うんだけど。

2013年成人式

今年成人式を迎える新成人は122万人で、第一次ベビーブーム世代が成人を迎えた1970年の半分だそうだ。

1970年といえば大阪万博があった年で、東洋の奇跡(Japanese Miracle)といわれた戦後の経済成長が安定成長期に入る一歩手前、円相場が1ドル=360円にかろうじて踏みとどまった最後の年になる。
翌年の1971年にはニクソン・ショックで円が一気に306円に急上昇、1990年代初頭のバブル崩壊まで経済成長は続いたものの、円はどんどんどんどん上がり続け、一時は70円も突破かというところまで上昇、それに比例するかのように景気は下降の一歩をたどることになる。
日本人の平均年収も1997年の471万円をピークに今や406万円に下落した。

新成人の親達世代(50歳前後)はある意味経済成長期の恩恵に浴し、お爺さんお婆さん世代(75~80歳)はその働きもあって余剰金を貯蓄にも回せる余裕もあった。
そして今や日本の家計貯蓄残高1500兆円、上場株式会社の内部留保金300兆円、合わせて1800兆円が国の借金1000兆円を上回っているからギリシャの財政破綻とはわけが違うという論理がまかり通っているわけだ。

20歳代、30歳代は住宅購入のために負債が貯蓄を上回っている一方、60歳代、70歳以上で平均貯蓄残高が2千万円を超えていて、60歳代で年収が566万円、70歳代でも460万円もあるというから、老壮世代と大会社がひたすら貯蓄を増やし、財を抱え込み、経済循環を閉ざし、景気を後退させ、それが故に自らをいっそう不安に駆り立てる負のスパイラルに陥っているのが現状で、安倍政権がこれをいかに取り崩し、経済の淀みを解消して景気好転を図るが問われている。

新成人は違う。
時計・精密機器の「セイコーホールディングス」(東京)が新成人を対象に実施したアンケートでは「将来への不安を感じている」との回答が、9割近い87.9%に。これから大切にしたいものはという問いには、「お金」が41.3%でトップとなったそうだ。
就職難や国の先行きの不透明さなど、日本の冷え込みぶりを肌で感じている新成人。閉塞した現状への強い失望感がにじみ出ている。

いい歳をした息子や娘たちに結婚資金を出し、家を買ってやり、孫の学資金まで出してやる。だから、孫の学資金には免税をということまで叫ばれ出している。
変だと思わない?
活力に満ちた20代、30代がもっともっと生き生きと、爺さん婆さんの世話は任してよと言うくらいの社会でなきゃ、健全な社会とは言えないと思うんだけどなあ。

男女平等

世界経済フォーラム(WEF)による世界各国の男女平等の度合いを指数化した2012年版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は135か国中101位だそうである。
この調査では、
1.経済活動の参加と機会・・・給与、参加レベル、専門職での雇用
2.教育・・・初等教育や高等・専門教育への就学の度合い
3.健康と生存・・・寿命の男女比
4.政治への関与・・・意思決定機関への参画
の4つの分野における男女格差を指標化して順位付けをしている。
日本は、
3.では女性の平均寿命が世界一であるから当然のこととして1位。
2.の分野では初等教育では識字率も含め1位であるが、高等・専門教育への就学率で男女格差が大きく50位前後に順位を下げ、
特に評価を下げた最大要因は経済界と政界への進出率が低いこと。特に管理職への登用(女性10%,男性90%)や議会への従事(女性9%,男性91%)において男女の格差が大きく、結果的には101位ということになるのだそうだ。

この「ジェンダー・ギャップ指数」には様々な批判もあり、別の国連調査では日本もかなり高順位に評価するものもあるから、この指標、評価をもって一部マスコミが騒ぎ立てるほど日本が男女平等後進国だと卑下することもないと思うのだが、日本の現状をあぶりだしているのも確かだ。

経済活動における男女平等は、1986年から施行された「男女雇用機会均等法」、さらに1997年の全面改訂を経て2007年の再改定でほぼ法的には整備され、後は具体的な企業の取り組みにかかっているが、管理職への登用となるとまだまだ先の先ということになり、政治への関与に関しては逆行現象さえ起こっている。
また1999年(平成11年)には「男女共同参画社会基本法」が制定され、男女が互いに人権を尊重しつつ、能力を十分に発揮できる男女共同参画社会の実現を目指し、家庭生活だけでなく、議会への参画や、その他の活動においての基本的平等を理念として、それに準じた責務を政府や地方自治体に求める法整備も行われた。

世界経済フォーラム(ダボス会議)がこうした男女格差の問題を取り上げるのも人権問題から取り上げているのではなく、女性の地位向上が経済の発展につながるという観点から取り上げているのであるが、それではGDP世界第3位の日本の101位はどう解釈していいのか迷うところだ。
この指摘を逆手にとれば、日本における男女格差がもっともっと縮まれば、GDP世界第3位はおろか1位に躍り出てもおかしくないということにもなる。
それはジョークとしても、男女格差が原因の一つにもなっている少子化問題も喫緊の課題で、国の債務残高1,000兆円は解消しえない、なぜなら、少子化による国力減退は避けられず、日本の国債に手を出すことは極めて危険だと真顔でいう外国人経済アナリストも少なからずいるほどだ。

国の発展史は一直線で、近代ではアメリカがその先頭を走り、どの国もその後を辿っているという歴史観がある。
世界経済フォーラムもこうした歴史観に立つものと思われ、指標の基準を統一して、その標準に世界の国々を誘導しようとする意図さえ感じて嫌だが、日本は国内においてもそう、どうも横並びが好きなところがあって、こういう指標を示されたらすぐその標準に合わせなければというところがあるような気がしてならない。
確かに男女不平等な点は様々な分野で見られることは事実で、男であれ女であれ不当な扱いに対しては毅然として排除、改善を進めていかなければならないが、長い歴史で切磋琢磨されてきた伝統に基づく文化の表象でもある男女の役割分担も必然性に裏打ちされたものがあるのではないだろうか。
中国のように唯我独尊的かたくなさも考えものだが、ともすれば国のアイデンティティを喪失しがちな日本もいただけない。

何はともあれ、これからの日本を思うとき、男と女で担うのだから、どちらもが生きやすい国にしていかなければ豊かで幸せな国にはならない。

TPP

 

TPP問題は実に難しい。
参加すべきかそうでないか、国論は真っ二つに分かれている印象だ。
我々一般の人間にとっては、どちらに与(くみ)すべきか、確かな知識を持って判断するにはあまりにも問題が多義にわたっているし、そのどれ一つをとっても専門性が高すぎて難しすぎる。
だからと言って、高みの見物を決め込んでいいかというと、そういうわけにはいかないし、いけないと思う。
民主主義の原点は、自分の持てる限りの判断材料で自分の意見を述べ、社会に参画していくことだ。
専門家の意見を聞き、できる限り多くの人の主張に耳を傾け、自分自身の主義主張を持つことは大切なことだ。
そうした一人一人の意見の集積が世論になり、国を動かしていくのだし、土台になる。

昔、岸信介という政治家がいた。
1960年安保のとき、「声なき声」に耳を傾けるのが政治家だというようなことを言ったが、彼の主義主張を超え強く印象に残った言葉だ。
ちなみに、1969年のニクソン演説でも「the great silent majority(物言わぬ多数派)」と言って、兵役を逃れんがためにヴェトナム反戦運動をする学生に対して使ったこの言葉も、岸の「声なき声」を引用したものだろう。
我々一般の人間は「声なき声」をあげ、「物言わぬ多数派」を形成してこそ国民だ。

TPPに参加すべし。これがぼくの意見だ。
おおざっぱなことしかわからない。
いろいろ自分なりに勉強もしたし、テレビ番組その他で政治家や専門家の意見を聞いては見たが、結局はよくわからない。
無責任な判断かもしれないが、賽の目を振ってみよう、メリットに一部の利ありという判断だ。

デメリットに重きを置く意見は、日本の弱点、短所がさらに助長され、国内的にも国際的にも立ち行かなくなるというような、保守的、保護的ニュアンスの強い意見だと思う。
それに比べて、メリットに重きを置く意見は、日本の強点(ぼくの造語;弱点の対義語が見当たらない)、長所を助長し、国内的には既得権益にしがみつこうとする勢力をぶっ壊し、国際社会に打って出ようとする勇ましさ(何と情緒的な表現!)がある。

下に掲げたTPP参加による「◆デメリット」、「◇メリット」は、「デメリット」を主張する「Hatena Diary」の「未知の楽園」から引用させてもらった。(http://d.hatena.ne.jp/rio_air/20111020/p1

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◆デメリット
1. 公的医療制度の崩壊。(手術・入院で数百万円・お金の無い人は治療が受けられなくなる。)
2. 生産性の低い正社員の大量リストラ・非正規雇用の増加。
3. 採算の合わない工場の海外移転加速とそれに伴う大量失業。
4. 公共事業の入札への外資参入による地方の経済疲弊。
5. エネルギー・放送・通信・鉄道・航空・貨物・武器等の基幹産業の企業を外資が買収可能になる。
6. 郵貯・簡保・共済を外資に買収され、その資金(数百兆円)の運用権を握られる。
o (その他の金融機関・保険会社も今以上に買収のリスクに晒される。)
7. (関税の撤廃による)第一次産業の衰退とそれに伴う失業と食料安全保障の危機。
8. 総GDPは効率化により増えるかもしれないが、経済格差や生活の質(特に医療面で)が悪化する可能性大。
◇メリット
1. 様々な分野での構造改革の起爆剤になる。
2. 外交上、アメリカとの関係がより緊密になる。(より強い隷属という形で。)
3. 海外進出を進める多国籍企業にとって大きなビジネスチャンスになる。
4. 労働市場において、本当の能力主義が育つ可能性が高くなる。
5. 外資のベンチャーキャピタル等から投資を受けて、新しい事業が生まれる可能性が増える。
6. 選挙を通じては成し得ない、様々な社会保障費(医療・介護)の削減を「外圧」を理由に断行できる。
7. 既に「社会の公器」という理念を忘れかけている電力・マスコミ業界を競争に晒して原点に立ち戻らせる。

原子力

12月16日の総選挙を控え、テレビをはじめとするマスコミは連日総選挙関連の報道番組一色である。
そんな中、米航空宇宙局(NASA)は3日、1977年に打ち上げられた無人探査機「ボイジャー1号」が、太陽系の果てに近い新たな領域に到達したというニュースが流れた。(http://www.cnn.co.jp/fringe/35025216.html)。
1977年といえば、1964年の東京オリンピック、同年の新幹線開通、1970年の大阪万博、その間1968年にはGDPが西ドイツを抜いて世界第二位に躍進というように、まさに日本の高度成長期を経て、1973年の第一次オイルショックで一時的落ち込みはあったものの、日本列島改造論が飛び出し、高度成長の余波が続いていたわけだ。
この高度成長を支えていたのがまさしく電気エネルギーで、その電気エネルギーも水力発電では追いつかず、エネルギー効率も良い石油、石炭を燃やしてできる火力発電が主力になってゆく。
日本列島改造論に合わせて、道路網・鉄道網の建設とともに火力発電所lの設置が急速に拡大してゆくわけだが、当初、原油価格は安く、石炭に比べればはるかにエネルギー効率の良いということで火力発電は原料をもっぱら石油に依存してゆく。
三池炭鉱、夕張炭鉱といった石炭炭鉱は次々と消えていき、もう石炭は見向きもされなくなる。
そんな中の第一次オイルショック、そして1979年の第二次オイルショック。
民族意識に目覚めた産油国は次々と原油価格を上げてゆく。エネルギー資源としても石油に大きく依存していた世界中がパニックに陥ったわけだ。
石油、石炭に依存しないエネルギー。
それまでにも原子爆弾のとてつもないエネルギーをなんとか平和利用できないかと研究開発を進めていた原子力エネルギー、日本もいち早く原子力エネルギー獲得を目指して原子力発電の開発に取り組むわけだが、オイルショックがさらに拍車をかけることになる。
1975年には官民一体になって今や原子炉の標準型になっている「軽水炉」の標準化に向けてスタートしてからは、国内のいたるところに原子力発電所が設置されていくわけだ。
さらにさらに拍車をかけたのが、深刻化する大気中の二酸化炭素増大による地球温暖化問題。
民主党政権に代わってすぐの2009年9月、鳩山首相が国連で、二酸化炭素を2020年までに1990年比で25%、2005年比で33.3%削減して地球温暖化を防ごうと提案、各国首脳から拍手をもって賛同されたわけだが、この時点で、建設中4、計画予定9、合わせて13の原子力発電所を新たに作ろうとしていたわけだ。
福島原発事故はこの原子力エネルギ―活用の継続を巡って大問題を提起した。
今回の総選挙でもこれは最重要な争点になっている。
今後の日本の行き先を左右する重要問題だ。

冒頭に「ボイジャー1号」のニュースを取り上げたのは、光の速さ(約30万キロメートル毎秒、つまり太陽から地球まで約8分20秒、月から地球は2秒もかからない速さ)で13時間もかかる距離にあるボイジャー1号から送られてくる信号の動力源が「原子力電池」であることに注目したからだ。
人間が獲得した叡智は、人類に多くの恩恵をもたらしたが、使い方を間違えば、多くの災害、被害、虐待ももたらした。
それは原子力という20世紀最大の発見だけではない。
原子力が生み出すエネルギーもうまく活用すれば、まだまだ人類に恩恵をもたらす気がするのだが、この考えは甘いのだろうか。

私信 ― 迷い ―

あなたが輝けば、土も輝きます
あなたが泣けば、土も泣きます
土のぬくもりは、あなたのぬくもりです
土に火(いのち)を与えると、あなたの炎(こころ)が躍ります

陶芸を始められたとか。
とっさに浮かんだ詩です。
女40、男もそうでしょうが、齢(よわい)40は確かに人生の岐路です。
それでも多くの男は迷いはあってもこれまでの道をたどって行くのでしょう。
夢はあっても、家族のこと、能力や財力を考えた時の夢の実現性、いろいろなことを斟酌すれば余りにもリスクが大きいし、確かな道を選んでしまうのも悪い選択ともいえません。
それに比べたら、女の道は複雑です。
子供がいたら、まだまだ手を離せない方も多いでしょうし、さればといって、このままで人生いいのかという自問と、自分探しに気が急く思いもわかります。
いい旦那がいて、仕事もあればまた話は別ですが、あなたのように、ある意味、境遇に恵まれ、何不自由ない生活を送ってきた人ほど、その迷いは深いと思います。
いっそう子供の教育に傾いていく人、外に仕事を見つけていく人、いろいろなことで結局旦那と折り合わず離婚に踏み切る人。実に様々です。
いずれの道をたどろうとも、結局は自分だけの道、平たんな道だけでは終わらないでしょうし、いばらの道だけではないはずです。
さしあたり、迷いの中に見出した陶芸は正解だと思います。
女40、迷いの情念と作り上げた土くれを窯に放り込み、しばしの間を取ることは大切です。
これはという作品ができたら是非見せてください。
楽しみにお待ちいたしております。

北斎展

11月3日文化の日にちなんでということではないが、大阪天王寺にある市立美術館で開催されている「北斎展」に足を運んだ。
目の前には通天閣が聳え立ち、大阪の下町中の下町とも言っていい「新世界」、その隣には東の山野と並び称せられるドヤ街大阪釜ヶ崎が目と鼻の先という立ち位置が、なんとも大阪のらしい大阪市立天王寺美術館なのである。
葛飾北斎といえば、世界に最も知られた日本人画家であり、ゴッホやモネその他西洋画家にも多大な影響を与え、ドビッシーの代表作「海」は北斎からインスピレーションを得て作曲されたというエピソードが語り伝えられていて、事実、1905年に出版されたスコアの表紙には、葛飾北斎の浮世絵である冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」が使用されているそうだ。
そのくらいの知識を携えての鑑賞と相成ったわけだが、実際に見た北斎は予想をはるかに超えるものだった。
どの作品もどの作品も、言われている構図の見事さは言うに及ばず、一部の隙もない完璧さで仕上げられていて、全体からみればごく一部でしかない登場人物の表情、所作、足遣い、邪道かもしれないが細部を余すところなく見たが、ただ唸るだけである。
しかもその作品数の膨大さと囚われるところのない自由闊達さ、ユーモアあふれる漫画から襟を正さざるを得ない作品まで、ち密でしかも魂を揺さぶるような伝達性はまさしく芸術一級品であることがぼくにもわかるような気がした。いくどか感動のあまりそっと目頭を押さえたことを告白しておく。
鑑賞順路半ばで疲れ果ててしまった。
うまい具合に図書室のような休憩場所があって腰を下ろしたわけだが、ふと、フェノロサと岡倉天心の顔が頭をよぎった。
明治維新の西洋崇拝と伝統文化の唾棄が吹きすさぶ中、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と日本人の感性の豊かさと芸術作品の秀逸性を訴え続けたフェノロサ、そしてその教えを守り実践活動をした天心。
また涙がこみあげてきて、休憩が休憩にならず、引っ張られるように次の展示室に向かった。

上海余話その二

中国の交通マナーの悪さと言おうか特異性はつとに有名である。
北京や上海と言った大都市圏ではさすがに規制も厳しくなって昔ほどのことはないが、中国をはじめて訪れた日本人ならそれでもびっくりするに違いない。
主要な交差点には最近は交通指導員がたくさん立っていて、ここだけは日本とあまり変わらないが、指導員のいない交差点では、歩行者はまず信号無視、自動車は横断中の歩行者がいてもまず止まらず、結構なスピードで突っ込んできて歩行者をかいくぐるようにして走り抜けていく。
正式の横断歩道を横断するのはまだいい方で、片道3車線4車線あるような幹線道路でもいたるところで人が横ぎっていく。車が車なら、人も人。
ある時こんなことがあった。
上海の裏町の一角で、人も車もいっぱいの交差点で横断歩道を渡ろうとしたとき、背後から左折車が突っ込んできたので危険を感じて立ち止まると、車は止まるどころかこれ幸いと前を走り抜けていく。渡り終わったところにはたまたま警察のパトカーがいてその横に警官が立って平気な顔でこちらを見ている。ちょっと腹が立ったので、その警官に、中国でも歩行者優先の交通法規があるはずだが注意しないのか、と咎めると、「私はそんな専門的なことは知らない。命が惜しければここのルールに従いなさい。」。もうあきれ返って二の句も次げなかった。
またこんなこともあった。これは中国に行かれる皆さんには是非注意していただきたい。
上海駅のすぐ南に天目西路という幹線道路があってたくさんの人が渡る横断歩道がある。
ここで信号待ちをしていたんだが、歩行者道路の向こうからは何台ものモーターバイクが走ってくる。中国ではこうして歩行者道路をバイクが走っている光景はよく見る光景で、さほど気にも留めていなかったんだが、突然右手にしていた旅行用のキャリーバッグがバイクに引っかけられ転倒、キャリーバッグを離さなかったものだからそのまま数メートルは引きずられたであろうか、運よく女性運転のそのバイクから外れて事なきを得たわけだが、ここでもまた怒り心頭。
というのも、すぐそばに警官が立っていて、立ち上がったぼくを見てニヤニヤ笑っている。本当なら、ちょっとした交通事故なんだからニヤニヤ笑っている場合ではないだろうに、まったくこん畜生ったらありゃしない!
これには後日談があって、このことを西安にいる友人に話したところ、上海では少ないが地方ではしょっちゅう起こる犯罪で、バイクの下に引っかける金具を取り付け、ぼくのようにボーっと立っている旅行者を狙らう「引っかけ引き」ならぬ一種の置き引き犯罪だということだそうで、またまたあの警官はいったい警官なのか、と怒髪天を衝いた次第である。
まだまだこれだけではない。
中国、良くも悪しくも、過去からずーっと関わってきた国であり、これからも関わっていかなければならない国である。
交通事情一つをとってもこと左様に、こちらの常識では測れないカオスの国なのである。

[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=S2qPhlWkVQ4[/youtube]