見てござる

 

♪♪♪ 見てござる ♪♪♪

村のはずれの お地蔵さんは いつもにこにこ 見てござる
仲よしこよしの じゃんけんぽん ほい 石けりなわとび かくれんぼ
元気にあそべと 見てござる それ 見てござる

たんぼ田中の かかしどんは いつもいばって 見てござる
チュンチュンバタバタ すずめども ほい おこめをあらしに きはせぬか
おかたをいからし 見てござる それ 見てござる

山のカラスの かんざぶろうは いつもカアカア 見てござる
おいしいおだんご どこじゃいな ほい お山の上から キョロキョロと
あの里この里 見てござる それ 見てござる

夜はお空の お月さんが いつもやさしく 見てござる
あちらのおうちの 良い子供 ほい こちらのおうちの 良い子供
おねんねしたかと 見てござる それ 見てござる

もうご存じでない方がほとんどだろう。
昭和20年、大戦に敗れた日本は、一方では希望に満ちた戦後日本の出発点だった。
食は乏しく、ぼろはまとってはいたが、まさに心は錦という日本人も多くいた。
この「見てござる」もそうだ。
山上武夫作詞・海沼實作曲のこの童謡は、受信もままならないラジオを叩きながら聞き、多くの子供たちの心をとりこにした。

名著の誉れ高いルース・ベネディクトの『菊と刀』が出たのもこのころだ。もう何十年も前に読んだ本で内容もほとんど忘れてしまったが、アメリカ人特有の優越感というか他民族蔑視の思想が読み取れて、当時皆が評価する割には不快感だけが残ったような気がした。
確かにベネディクトにはそういう意識はなく、「白人」に染みついた無意識がにじみ出ただけであって、我々日本人だからこそ感じ取れるものであろう。
「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実を述べたもう一冊の本によってそれを補わねばならないというようなことは、普通はないことである。」という言葉で最後を締めくくられていることから、彼女が決して日本人を蔑視していたとは思わない。
日本の文化は「恥の文化」であるのに対して西洋の文化は「罪の文化」であるとその内容は簡略に紹介されていると思うが、簡単に言うと、日本の文化は「傍目を気にする」文化であり、西洋のそれは「神の眼を気にする」文化である。だから、日本人は傍目がなければ恥もかき捨てだが、神の眼を気にするキリスト者はそういうレベルではない、もっと次元の高い自律を求められているんですよ、と言っているような気がして不愉快を感じたわけだ。

しかし、日本の文化は「恥の文化」という指摘は的を射ている。
日本人ほど「恥じる」ことを気にする民族はいないのではないか。
生きることから、生活すること、働くこと、人との付き合い方、ありとあらゆる局面で、恥じないことを最重点にしている。
「生き恥をかくなら死を」、「粗相のないように」、「恥ずかしい製品は作れない」、「おもてなし」、「ちょー、恥ずかしぃ―!」、・・・

東北大震災の折、取材に訪れた外国人ジャーナリストは一様に日本人を称え、海外に伝えた。
住むところもなく、食べるものも満足にないのに、ただ取材に訪れただけの彼らの宿泊場所を心配したり、食べ物はあるのかと心配する被災者は彼らの範疇にある人間ではなかった。
アメリカでならこんな大騒動の折には必ず起こる略奪や暴動がここでは起こらない不思議をアメリカに打電した。
東京では電車が止まり、徒歩で帰宅する数百万人の人々がみな黙々と列をなし、ひたすら歩く。怒鳴り声など聞こえないし、渋滞する車からはクラクションの音ひとつ聞こえてこない。数百人が避難した広場ではタバコを吸う人はいない。 係員が走り回って毛布、お茶、ビスケットなどを配る。すべての 男性が女性を助けていた。3時間後広場は解散となったが、地面にはゴミ一つ落ちていなかった。日本人は、むやみに悲しみを表に出さないのは周りに心配させたくないからだ。家族を失ったというのに泣きわめいたりしない。深い悲しみをただひたすら黙って受け止めている。助けてもらつて「ありがとう」ではなく、「すみません」と言う。これは「迷惑をかけて申し訳ない」という気持ちの表れだ、と中国人ジャーナリストが母国に伝えた。

もう天国にいらっしゃるベネディクト女史に是非とも伝えたい。
日本人は決して人目だけを気にして生きているんではないんですよ。
お地蔵さんが見ているし、案山子やカラスも見ているし、お月さんもお天道様も、そしてご先祖様も見てござる。
とね。

「見てござる」― いい言葉だなあ。

わがノスタルジー

 

♪♪♪ 笛吹童子の歌 ♪♪♪

1989年のイタリア映画で「ニュー・シネマ・パラダイス」という映画がある。ご存知の方も多いだろう。 映画好きの少年トトと「シネマ・パラダイス」の映写技師アルフレードの友情と、数奇な運命をたどるトトを描いた感動の名作だ。 ※あらすじはこちら⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~eigatodokusyo/syuminoheya/eiga/eiga-1/eiga-11/paradaisu.htm 「ニュー・シネマ・パラダイス」がトトのノスタルジーであったように誰にも語っておきたいノスタルジーがあるに違いない。 「ヒャラーリヒャラリコ ヒャリーコヒャラレード・・・」 この音楽が聞こえてきたらもう居ても立っても居られない。5球スーパーラジオの前に座って、雨が降ろうが槍が降ろうがわれ関せずの構え。 憎っくき赤柿玄蕃を菊丸(笛吹童子)よ何とかやっつけてくれと、拳を固めて血湧き肉躍ったものだ。 毎日夕方5時45分から始まるので、冬場はいいが、日の明るい季節のころは大変だ。 当時は学校が終わってもすぐには家に帰らない。放課後は大概校庭で、小使いさん(校務員)に追い払われるまで野球なんかをしていたから、5時半位になると気が気でない。野球好きな奴が帰さない。これとの戦いが大変だった記憶がある。それでも毎日聞いていたから、多分うまい具合にやっていたんだろう。 「音楽 福田蘭童」もはっきり覚えている。後で知ったんだが、この「福田蘭童」、明治の洋画家、「海の幸」で有名な青木繁の息子で、蘭童の息子がクレジーキャッツのピアニスト石橋エータローというそうだから、ここまでくればやっと一世代後の諸君と接点があろうかと。 そして夜が明ければ、今度は「少年ケニア」だ。 アフリカのケニアを舞台に、孤児になった日本人少年ワタルが仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物たちと冒険をする物語で、「産業経済新聞」(のちの「産経新聞」)に連載されていた。 朝起きると、いの一番に朝刊を取りに行き、誰にも開けられていない新聞を開くときのインクの匂いが今もツンと鼻に残っている気がする。 山川惣治原作の絵物語でこの挿絵が実に良い。当時「産業経済新聞」は「ケニア新聞」とも呼ばれたそうだから、その人気たるや推して知るべしである。 そして月に1回。今度は雑誌「少年」である。 江戸川乱歩の「怪人二十面相」。探偵明智小五郎が助手の小林少年とともに怪人二十面相に立ち向かう物語は少し怖かったけれども布団をかぶりながら読んだものだ。 手塚治虫の「鉄腕アトム」は言わずと知れた日本アニメの元祖。実に夢があり、この「鉄腕アトム」に刺激されて様々な分野で羽ばたいた人も多いはず。未来を予見した作品だった。 発行日には必ず父が買ってきてくれ、その日はもう朝からわくわくだ。待ちきれなくて駅まで父をよく迎えに行ったことがる。 それに付録がまたこれが圧巻。今でも鮮明に覚えているが、紙製の組立幻灯機や映写機とかがあって、それを完成させて家族全員に見せたところ、全員が感動してくれていっそうの励みになった。 これらすべてが小学校低学年頃の思い出だ。 そうそう、もう少し学年が進んだころと思うが、ほのぼのと思いを寄せていたハットリさんが、NHKのラジオドラマ「君の名は」が好きだと聞いたんで、夜何時だったか同じ思いを寄せたくて聞いたものだ。ハットリさん、今はどうしているんだろうなあ。

今年のさくら ー2013―

毎年この時期になると「さくら」のことが書きたくなる。
と言っても、もう桜もほとんど散ってしまったし、今年ほどさくらに接する機会がなかった年はない。
看護師を目指す21歳の若者二人と医師を目指す20歳の女性が頼りにしてくれ、なんとか彼らの力になりたいものだと老体に鞭打つ日々が続いているせいかどうか。
でもありがたいものだ。桜もいいけど、やはりこんな若者がもっといい。なんとか花を咲かせてやりたい。

そんな中、古文の授業で、
『さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな』
と歌った平忠度の歌がたまたま出てきて、大好きな歌人なものでつい熱が入り、うんちくを傾けることになった。

『平家物語』には数々の名場面があるが、「忠度の都落ち」の段は高校の時に知り、授業中にそっと涙を拭った覚えがある。
平家一門が源氏に追われ西国に落ちのびてゆくおり、薩摩守忠度は手勢6人を従えて敵中命も顧みず師俊成卿の屋敷を尋ねて、
「世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はあらんずらん。これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」
と自作の歌集を託す。
俊成卿はこのような貴重な忘れ形見を疎略にすることは絶対にないと答えると、薩摩守は喜んで、
「もうこれで、西海の底に沈んでもかまわない」
と別れを告げ、馬に乗って、西の方に向かって行った。俊成卿がずっと見送っていると、忠度とおぼしい声で、
『前途(せんど)程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す』
と高らかに口ずさむ声を聞いて、俊成卿は涙を押さへて屋敷へ入っていった。
その後、一ノ谷の戦いで薩摩守忠度は源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。
その際、岡部忠澄が目にしたのが、鎧の時箙(えびら)に結びつけられた「旅宿の花」という題の一首、
『行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし』
という歌。
戦の後、岡部忠澄は薩摩守忠度の菩提を弔うため埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立し、今に至っているそうだ。
そして『千載集』が撰じられたおり、身は朝敵となったので、「読人知らず」として師俊成卿が入れたのが、『さざ波や』である。

また目頭が熱くなった。生徒と視線が合うと、生徒の眼も閏でいたのがうれしかった。
今年の花見はこれで良し。

テレビの栄枯盛衰

先日、新聞の紙面に「苦境に立つ“日の丸電機”テレビはさらに悪化」という活字が目についた。
日本の家電大手8社の平成25年の業績見通しは至って暗く、パナソニックとシャープ2社に限っても最終損益の赤字額が合計で1兆2150億円に達し、その大半がテレビ事業の失敗に原因があるという。
韓国のサムスン電子が2011年には1年間の世界テレビ販売台数のシェアで初めて20%を達成し、同じく世界第2位の韓国のLG電子の13%を合わせると世界市場シェアが33%に達するという。これに対し、日本の第1位ソニーがシェア9%で世界第3位、以下パナソニック9%、東芝7%、シャープ6%というから、“日の丸電機”はもう苦境どころではない。瀕死の状態なのだ。
サムスン電子のこの躍進は、バブル崩壊で家電メーカーから吐き出された日本の優秀な人材をかき集め、今日の躍進の土台を築いたというから、バブル崩壊の影響はここでも甚大だ。

テレビと言えば、1953年1月にシャープから国産第1号の白黒テレビが発売され、同年2月にNHKが本放送を開始されると、1950年代後半には白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるまでなり、はじめのころは一般家庭にとっては高根の花で、公園などに設置された街頭テレビはいつも人だかりだったし、「国民的英雄’力道山’」が出ようものならプロレスを見たくてどこかテレビはないかと探し回ったものだ。
1960年になると、東芝から国産初のカラーテレビ(サイズ17インチで価格は42万円)が発売され、1964年の東京オリンピックでは「裸足の英雄’アベベ’」がマラソンゲートを一番で潜り抜ける光景が今でも鮮明に記憶に残っている。そしてカラーテレビはクーラーや自動車などとともに「新・三種の神器」(3C)の一つに数えられるまでになった。
1969年に日本のテレビ受像機生産台数が世界1位になると、放送技術の進化に合わせてやがて音声多重放送対応テレビ、ハイビジョン放送対応テレビ、地上デジタルテレビ放送対応テレビがそれぞれ発売されることになるし、1897年ドイツのフェルディナント・ブラウンが作り出して以来、1926年浜松高等工業学校の高柳健次郎がそのブラウン管を電子式に変えて受像機に初めて「イ」の字を表示させたブラウン管も、半世紀以上の主流の座を薄型テレビ(液晶テレビ・プラズマテレビ等)に譲ることになる。

こう見てくると、時代の流れ、栄枯盛衰は世の常とはいえ、その流れの速さはまさに「光陰矢の如し」だ。
戦後日本を牽引してきた“日の丸電機”の戦士たちよ、決して卑下することはない。
次の時代をしょって立つ新しい戦士たちのために、誇らしく歴史を語り、君たちの技術と精神を確実に伝えてほしい。

鶯とディクラン老人

アメリカの小説家で劇作家のウィリアム・サローヤンに「冬を越したハチドリ」という短編がある。
主人公の私が冬のさ中のある日、日曜学校から帰って来て家に入ろうとすると、通りの向こうに盲目の老人ディクランが手のひらに何かを載せて近づいてきた。そして何かと尋ねるので見ると死にかけたハチドリである。老人は私、少年を家に連れて入り、手伝ってもらって何とかハチドリを助けようとする。手のひらのハチドリに温かい息を吹きかけ、少年に指図して蜂蜜を温め、それを飲ませ、その甲斐があってか、ハチドリは徐々に元気を取り戻し、やがて、空中で静止していたかと思うとヒューっと飛び立つあのハチドリ独特の飛行を始めるようになる。その間、目の見えないディクラン老人は少年に一部始終説明を求める。元気になったハチドリがしきりに外に出たがる様子を察知した老人は少年に「窓を開けてやりなさい。」と指図するが、少年は寒さが気がかりで窓を開けることができない。それでも老人は、今は元気になったんだから窓を開けてやりなさいというので、窓を開けると、ハチドリはしばらく静止飛行をしてやがてかなたへと飛んで行く。
夏が巡ってきて、たくさんのハチドリが戻ってきたが、もちろんどのハチドリが助けたハチドリか見分けがつくはずもなく、少年は老人に「あのハチドリは生き延びたんだろうか。」と問い掛ける。老人は「あそこにいるハチドリ一羽一羽が私たちのハチドリだよ。」と答えるだけだった。
というあらすじだ。

昨日の朝、いつものように朝散歩に出かけたんだが、通りすがりの竹やぶから、聞き慣れた鶯の声がする。
去年も、その前の年にも聞いた声だ。
相変わらずのへたくそで、「ホー、ホケッ」と鳴くがその後が続かない。
また来よったかと懐かしくも、ちょっとした苛立ちも覚える。
毎年、同じ鶯が来ているのか、代替わりした鶯が来ているのか知る由もない。
へたくそ加減だけは一致しているからどうなのか。
ディクラン老人の気持ちになって、前の年にも、その前の年にも来た奴だと言い聞かせ、もう少し勉強して、この春中くらいにはいい鳴き声を聞かせてくれよと竹藪を抜けた。

お迎え ― 極楽往生 ―

 

・大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和しうるはし – ヤマトタケル

・行きくれて木の下のかげを宿とせば花や今宵の主ならまし – 平忠度

・願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃 – 西行

・旅に病んで夢は枯野をかけ廻る – 松尾芭蕉

・人魂で行く気散じや夏野原 – 葛飾北斎

好きな辞世の句を挙げてみた。好きな句というよりも好きな人物の辞世の句といった方が正しいかも知れない。
人はこの世に生まれてきていつかは死ぬ。当たり前と言えば当たり前のことで、何かの機会にでも出くわさなければこんなことは考えない。

先日、安倍内閣が発足して間もなく、3人の殺人犯の死刑が執行された。三者三様で、一人は「生まれ変わってもまた人を殺す。」と言い残し、一人は刑の執行を催促しながら最後まで生に執着した。
その前には、テレビによく出ていた経済評論家の金子哲雄氏が41歳という若さで肺カルチノイドという癌で死んだ。

人の最期は様々で、死刑囚の死と人に慕われた人の死といっしょくたでは非難の誹りを免れないかもしれないが、死という現実を身近に感じさせられた瞬間だ。

金子氏は医師から余命いくばくもないと言われた瞬間からしばらくは「死の恐怖」で眠れなかったという。
そうだと思う。
ぼくなんか、こうして話していても自分の死なんかは考えたくないし、考えないようにしている。怖い怖い。

怖い一心で思い出したのが、去年の2012年8月29日、NHKの「クローズアップ現代」で放映された「天国からの“お迎え” ~穏やかな看取り(みとり)とは~」である。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3238.html

「死んだ親父が会いに来た・・・」など、死を間近に体験すると言われる“お迎え”現象について社会学者が調査した内容で、高齢者や遺族500人あまりを調査、自宅で看取られた人の4割が“お迎え”を体験し、そのうちの8割が死への恐れや不安が和らぎ、穏やかに看取られていったことが分かったという。そして、現代医学の進歩が、いわゆる「延命治療」を施すことによって、“お迎え”を阻害しているのではないかという懸念を投げかけた。

昔、源信和尚が「往生要集」という本を著し、死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、この書物で説かれた厭離穢土(おんりえど;この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるということ)、欣求浄土(ごんぐじょうど;極楽浄土に往生することを心から願い求めること)の心こそが極楽往生への道だと信じた当時の貴族・庶民らにも広く信仰を集め、後の哲学や文学思想にも大きな影響を与えたという。

紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れて“お迎え”にやってくる「来迎図」はなんとロマンに満ちた旅立ちんの光景ではないか。
阿弥陀如来が「親父」や「おふくろ」に姿を変えているかもしれない。死んだ恩師や友人が観音菩薩や勢至菩薩の化身かもしれない。
もう怖くなんかない。
「南無妙法蓮華経」でもいい、「Amazing Grace」でもいい、家族や友人が唱和する中で“お迎え”が来たらなお最高だ。

国を想い、故郷をたたえ、桜の花の下で眠りにつきたいなあ、御釈迦さんのところへ行くんだぞ、死んでも人魂になって野原を駆け巡ってやるぞと思って“お迎え”を待つのもまたいいだろう。

時代が変わり、環境が変わり、そんな中でも人は生きそして死んでゆく。
生まれる時は何も考えずに生まれてくるが、死ぬときはそういうわけにはいかない。
苦しまず、騒がず、できることなら安楽に死にたいものだ。
“お迎え”は決して他人事ではない。

節分 ― 恵方巻 ―

 

もう二月に入った。
この間正月を迎えたばかりなのに明日は節分。通りがかりのコンビニやスーパーにしてもどこを見ても「恵方巻」の宣伝がやけに目につく。
「恵方」とはなんでもその年の幸運を招く方角だそうで、2013年の恵方は南南東になるそうだ。
節分と言えば豆まきしか知らなかったが、今ではこの恵方巻が主流になりつつある。
大豆を炒って「鬼は外、福は内」と玄関口に福豆を撒き、家族同士が歳の数に一つ足した数の豆を食べてこの先一年の無事息災を祈る。
若いご夫婦家族が子供たちと豆まきをしている光景は見ていてもほのぼのとする。
これはこれで古き良き伝統で続いて行ってほしいと思うが、どうも恵方巻には勝てない気もする。
年々豪華になるようで、今年の極めつけは、名鉄百貨店本店の「金銀福寿巻」なる恵方巻だそうで、老舗のすし店が金ぱく・銀ぱくを付けたノリで巻いた2本組み、お値段末広がりの8800円、限定50組を予約受付をしたところ、早々と完売というから恐ろしい。
こんなのは話題の一つとしても、スーパーで買う恵方巻も結構豪華で食べ応えがある。
これを丸かじりするというのだから面白い。
どういういわれがあって、誰が考え出したのか、どうも大阪が発祥の地だと聞いて納得だ。
豚や牛の贓物を放ってはもったいないと「ホルモン」として売り出した大阪だ。
食べるものもいっぱいあって、それほど見向きもされなくなった巻きずしを売り出そうと、どこかのすし店がそれこそ巻き返しを図ったに違いない。
恵方巻もいまや全国区。
ミツカンの調査によれば恵方巻の認知度は、全国平均は2002年(平成14年)時点の53%が2006年(平成18年)には92.5%となったという。
もうすぐ、バレンタインデー、母の日に父の日、こんなのは昔なかったと思うんだけど。

2013年成人式

今年成人式を迎える新成人は122万人で、第一次ベビーブーム世代が成人を迎えた1970年の半分だそうだ。

1970年といえば大阪万博があった年で、東洋の奇跡(Japanese Miracle)といわれた戦後の経済成長が安定成長期に入る一歩手前、円相場が1ドル=360円にかろうじて踏みとどまった最後の年になる。
翌年の1971年にはニクソン・ショックで円が一気に306円に急上昇、1990年代初頭のバブル崩壊まで経済成長は続いたものの、円はどんどんどんどん上がり続け、一時は70円も突破かというところまで上昇、それに比例するかのように景気は下降の一歩をたどることになる。
日本人の平均年収も1997年の471万円をピークに今や406万円に下落した。

新成人の親達世代(50歳前後)はある意味経済成長期の恩恵に浴し、お爺さんお婆さん世代(75~80歳)はその働きもあって余剰金を貯蓄にも回せる余裕もあった。
そして今や日本の家計貯蓄残高1500兆円、上場株式会社の内部留保金300兆円、合わせて1800兆円が国の借金1000兆円を上回っているからギリシャの財政破綻とはわけが違うという論理がまかり通っているわけだ。

20歳代、30歳代は住宅購入のために負債が貯蓄を上回っている一方、60歳代、70歳以上で平均貯蓄残高が2千万円を超えていて、60歳代で年収が566万円、70歳代でも460万円もあるというから、老壮世代と大会社がひたすら貯蓄を増やし、財を抱え込み、経済循環を閉ざし、景気を後退させ、それが故に自らをいっそう不安に駆り立てる負のスパイラルに陥っているのが現状で、安倍政権がこれをいかに取り崩し、経済の淀みを解消して景気好転を図るが問われている。

新成人は違う。
時計・精密機器の「セイコーホールディングス」(東京)が新成人を対象に実施したアンケートでは「将来への不安を感じている」との回答が、9割近い87.9%に。これから大切にしたいものはという問いには、「お金」が41.3%でトップとなったそうだ。
就職難や国の先行きの不透明さなど、日本の冷え込みぶりを肌で感じている新成人。閉塞した現状への強い失望感がにじみ出ている。

いい歳をした息子や娘たちに結婚資金を出し、家を買ってやり、孫の学資金まで出してやる。だから、孫の学資金には免税をということまで叫ばれ出している。
変だと思わない?
活力に満ちた20代、30代がもっともっと生き生きと、爺さん婆さんの世話は任してよと言うくらいの社会でなきゃ、健全な社会とは言えないと思うんだけどなあ。

男女平等

世界経済フォーラム(WEF)による世界各国の男女平等の度合いを指数化した2012年版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は135か国中101位だそうである。
この調査では、
1.経済活動の参加と機会・・・給与、参加レベル、専門職での雇用
2.教育・・・初等教育や高等・専門教育への就学の度合い
3.健康と生存・・・寿命の男女比
4.政治への関与・・・意思決定機関への参画
の4つの分野における男女格差を指標化して順位付けをしている。
日本は、
3.では女性の平均寿命が世界一であるから当然のこととして1位。
2.の分野では初等教育では識字率も含め1位であるが、高等・専門教育への就学率で男女格差が大きく50位前後に順位を下げ、
特に評価を下げた最大要因は経済界と政界への進出率が低いこと。特に管理職への登用(女性10%,男性90%)や議会への従事(女性9%,男性91%)において男女の格差が大きく、結果的には101位ということになるのだそうだ。

この「ジェンダー・ギャップ指数」には様々な批判もあり、別の国連調査では日本もかなり高順位に評価するものもあるから、この指標、評価をもって一部マスコミが騒ぎ立てるほど日本が男女平等後進国だと卑下することもないと思うのだが、日本の現状をあぶりだしているのも確かだ。

経済活動における男女平等は、1986年から施行された「男女雇用機会均等法」、さらに1997年の全面改訂を経て2007年の再改定でほぼ法的には整備され、後は具体的な企業の取り組みにかかっているが、管理職への登用となるとまだまだ先の先ということになり、政治への関与に関しては逆行現象さえ起こっている。
また1999年(平成11年)には「男女共同参画社会基本法」が制定され、男女が互いに人権を尊重しつつ、能力を十分に発揮できる男女共同参画社会の実現を目指し、家庭生活だけでなく、議会への参画や、その他の活動においての基本的平等を理念として、それに準じた責務を政府や地方自治体に求める法整備も行われた。

世界経済フォーラム(ダボス会議)がこうした男女格差の問題を取り上げるのも人権問題から取り上げているのではなく、女性の地位向上が経済の発展につながるという観点から取り上げているのであるが、それではGDP世界第3位の日本の101位はどう解釈していいのか迷うところだ。
この指摘を逆手にとれば、日本における男女格差がもっともっと縮まれば、GDP世界第3位はおろか1位に躍り出てもおかしくないということにもなる。
それはジョークとしても、男女格差が原因の一つにもなっている少子化問題も喫緊の課題で、国の債務残高1,000兆円は解消しえない、なぜなら、少子化による国力減退は避けられず、日本の国債に手を出すことは極めて危険だと真顔でいう外国人経済アナリストも少なからずいるほどだ。

国の発展史は一直線で、近代ではアメリカがその先頭を走り、どの国もその後を辿っているという歴史観がある。
世界経済フォーラムもこうした歴史観に立つものと思われ、指標の基準を統一して、その標準に世界の国々を誘導しようとする意図さえ感じて嫌だが、日本は国内においてもそう、どうも横並びが好きなところがあって、こういう指標を示されたらすぐその標準に合わせなければというところがあるような気がしてならない。
確かに男女不平等な点は様々な分野で見られることは事実で、男であれ女であれ不当な扱いに対しては毅然として排除、改善を進めていかなければならないが、長い歴史で切磋琢磨されてきた伝統に基づく文化の表象でもある男女の役割分担も必然性に裏打ちされたものがあるのではないだろうか。
中国のように唯我独尊的かたくなさも考えものだが、ともすれば国のアイデンティティを喪失しがちな日本もいただけない。

何はともあれ、これからの日本を思うとき、男と女で担うのだから、どちらもが生きやすい国にしていかなければ豊かで幸せな国にはならない。