俳句雑感といっても、俳句を語れるほどの知識や感性があって書くわけではない。
下手の横好きが高じてか、気が向いたときに俳句らしきものを書き始めて3年ほどになるが、何事にも飽きっぽくて執着心のないぼくにはこの俳句は長続きしている方である。
きっかけはtwitterである。
大阪から大津市の志賀に向かう途中、花見時には昼間だと込み合って車も通れない京都高野川沿いの道を走っていると、街燈に照らし出された満開の桜が目に飛び込んできた。深夜で人通りもなく、行きかう車の数もわずか。昼間の混雑ぶりが嘘のような静けさだ。枝もたわわな桜が夜風に微かに揺れ、漆黒の闇に浮かぶ桜はもう桜ではない。遊里にいざなう花魁の姿がダブル。
《 夜も更けて さくら静けく 高野川 》
とっさに浮かんだ俳句だ。
何かに書き留めたいと思ったんだが、書き留める道具がない。そうだ、twitterがある。
早速この句を書き込んでツイートした。我が句集『まほろば俳句会』の第1作である。
ツイートしたところが面白い。
記録するだけなら、なにもtwitterに書き込むことはない。メモ帳だってある。誰かにこの幻想的風景を伝えたい。知ってほしい。そんな思いがtwitterのボタンを押したんだ。
爾来、ぼくには俳句とtwitterは切っても切り離せないものになった。
twitterアプリの入っているiphoneには画質の良いカメラが付いていて、拙いぼくの俳句を写真でカバーすれば、多少なりともぼくの感動をもっと人にも伝えられるかもしれないからなおさら重宝だ。
名付けて『写俳』。写真俳句を約めて付けたぼくの造語だ。と思いきや。念のためgoogleで「写俳」を検索したら、あるはあるは、もう「写俳」という言葉とサイトが溢れている。遠うの昔にぼくと同じ思いからかどうかはわからないが着眼点が一致している人がいっぱいいたのだ。これにはびっくりした。
音楽がそう、絵画がそう、小説だって詩だってそうだ。人には人に何かを伝えたいものがあるんだ。表現せずにおかない何かがあるんだ。感動かもしれない。胸のうちの苦しみかもしれない。自分の中だけに仕舞っておけないんだ。人間の本能に根差しているものなんだ。そうしたものが新しい伝達手段を生み出す。
SNS、ソーシャル・ネットワーキング・システム。このtwitterやfacebook、mixiなどを総称してそう呼ぶそうだが、これもそうだ。
誰かと繋がり、日記を書いたり、つぶやいたり、それにコメントを付けたりすることで情報交換や会話を楽しみ、社会的な繋がりを作り出せるSNSは今や人の生活の中に深く浸透していて、皆が胸の内を吐き出すシステムになっている。
俳句雑感が思わぬ方向に来てしまったが、人は生きているうちになんでも語ろうよ。
喜びも怒りも哀しみも楽しいこともすべて吐き出すことで人と繋がり、生きていることを実感できるし、ひいては新しい時代を作っていくことになるかもしれないよ。