真田幸村の末裔?― 歴史の真実 ―


 

私の本名は真田泰昌です。SNSでもっぱら使う「佐分利翔」はペンネームで、「佐分利」は曾祖母の旧姓から拝借しました。

私はいま70を越えましたが、自分のルーツに関してそれほど強い関心は持ってきたわけではありません。

ただ、2016年にNHKの大河ドラマで放映された『真田丸』に関心を持って観て以来、今はもう他界して15年以上になる父が晩年家系図をつくることに執心していたことを思い出し、そういえばということがいろいろ思い出され、歴史の真実ということにも関心が向かったわけです。

『真田丸』が放映され始めたころ、書店にも様々な「真田」関連の書籍が並べられ、中でも、歴史研究家の川口素生氏が書かれた『真田幸村は生きていた!』(PHP出版)や仙台真田家14代当主、真田徹氏監修で宝島社が発行した『真田幸村の真実』は興味深く読んだり、和歌山県の九度山町にある「真田ミュージアム」を訪れたりするうち、ますます関心を深め、歴史に埋もれた真実を掘り起こしたくなった次第です。

もう一つの動機は、このブログでも取り上げた『ベラスコ―日本の秘密諜報員―』で語られている歴史の真実、実はどれが歴史の真実であり、どれが真実ではないかはにわかには判定できない歴史的事実が存在するはずだということに衝撃を受けたことにもあります。

わたしの父は明治45年に生まれ、先ほども申した通りもう他界して15年余になりますが、今から60年ほど前にもなりましょうか、私がまだ小学生の折、同居していた大叔母(佐々木タマ)に連れられて訪れた広島県世羅郡甲山町にある今高野山と先祖代々住んでいたという屋敷跡のことを思い出しました。

今高野山は、鎌倉時代、もともと後白河院領の荘園であった世羅郡甲山の大田荘が紀州高野山に寄進され、その政所寺院として創建されたそうです。

その管理運営を任された今高野山そして大田荘は、中国山地の奥地に位置する内陸の荘園ではあるが、盆地が広がり、芦田川が流れ、土地も肥沃であったうえに、瀬戸内の尾道や三原にも水路が開け、島根県太田市にある石見銀山の運搬路が通じていてその宿場町としても栄え、往時は12院を擁する中国地方いちばんの大寺院であったそうです。

また、今高野山参道の左側寺院(廃寺)に大きな石碑が立っていて、甲山の真田紐組合の石碑だと大叔母から聞かされました。4,5年前に訪ねたときはもうその石碑も見当たりませんでした。世羅郡は真田紐の原料である麦稈真田の良質の産地でもあったそうです。

我が真田の墓所がこの今高野山にあり、父が晩年に家系図作成のため足しげく通ったわけです。

ただ、今高野山は明治の廃仏毀釈の流れの中で、ひところは住職もいないような廃寺同然になり、今では龍華寺一院のみになって、過去帳などは一切残っていなくて、断念した経緯があります。

本籍も父の代まで世羅郡甲山町(多分添付写真の場所)にあり、私の代に奈良の生駒市に本籍を移しました。

60年前に大叔母に連れられて訪れた折、

龍華寺境内の池のたもとに『真田休平』という文字と1700年代初頭の元号が刻まれた(なにぶん、小学生くらいであったので、家に帰って調べはしたのですが、記録に残せませんでした)小さな石碑があり、その「休平」さんが今高野山に寄進した記念の石碑であると聞かされました。

龍華寺のお寺関係の墓所には古くて文字も読みずらい『真田』のお墓が2つか3つと小さなお墓が7つか8つ並んで立っていました。

また参道の入り口がある「太田街道」を渡った所、芦田川のたもと角にある屋敷(添付写真、1枚は2000年前後の写真。もう一枚は江戸時代の古地図、赤丸印)が曾祖父の代まで住んでいた屋敷で、代々今高野山の寺領(紀州高野山領大田荘)から上がるお米の販売を任されて、ここから三原や尾道に水運を利用して運び出していたことを大叔母から聞きました。

この大叔母は祖父(真田友一)の妹で、九条家の流れをくむ侯爵佐々木家(京都)に嫁いだ人で、夫佐々木博は京都で僧籍を継ぐところ近衛兵を志願して、日露戦争時には武勲により金鵄勲章をもらったという、唯一広島時代の『真田』を知る人でした。

この大叔母が佐々木家に嫁いだ経緯は、私がまだ子供であったので詳しくは聞かされませんでしたが、若いころは体が弱く、佐々木に嫁いだ後も箱根の「富士屋旅館」によく療養に出かけたと聞いていましたが、この「富士屋旅館」は箱根でも一番格式の高い旅館で、皇族方も利用される旅館だということを最近知り、びっくりした次第です。

この大叔母には一回り以上離れた姉(和久山タカ)がいて、夫(和久山徳太郎)は義太夫の師匠で「鶴澤友春」といい、熱海で義太夫や芸者に三味線を教えていました。熱海の大火で関西に移り住み、晩年には私に浄瑠璃を教えてくれ、お弟子さんのいる淡路島によく連れて行ってくれました。参照;『三つ違いの兄さんと・・・

曾祖父(真田右兵衛)のお嫁さんは、つまり曾祖母は槍術佐分利流の家元(現在の広島県府中市)から嫁いできたそうで、曾祖父の時代に尾道に転居したか別荘があったのか、この曾祖父は商売は番頭任せ、もっぱらの粋人で、裏千家や池坊の免許皆伝の資格を持つ俳人でもあり、その別荘には『放浪記』で有名な林文子や文豪志賀直哉など、当時の文人、画家が集う文化サロンのようなものであったと聞きました。

そしてなぜか、おそらく明治維新になり、廃仏毀釈運動の高まりで、今高野山も寺院自体の存続が危ぶまれる中、それまで営んでいたお米販売では立ち行けなくなっのでしょう、祖父(真田友一)の代に大阪に出てきて、大阪市此花区四貫島で『水月』という料亭を開きましたが、父親譲りというか、当時の大名商売の例にたがわず、やがて廃業に追い込まれることになったとか。

この祖父は大阪に出てきて結婚し、一女をもうけましたが早逝、後を追うように奥さんもなくなって、当時『水月』で仲居をしていた「渋谷こふさ」との間にできていた子が私の父、真田義徳(後、幸冶と改名)で、祖父も若くして亡くなったこともあり、子供がいなかった佐々木の大叔母夫妻が引き取って、その後ずっと一緒に暮らすことになりました。私もこの大叔母がなくなるまで一緒に暮らすことになりました。

この大叔母がいつも嘆いていたのは、終戦後間もなく、真田に代々伝わってきた名刀(「村正」だと聞かされていました)と佐分利家から譲り受けた「鍵槍」を進駐軍に没収されたことです。父はビルマに出征中であり、私と母とこの大叔母が留守宅を守っていたわけですが、日本が戦争に敗け、進駐軍が進駐してくるとすぐ、刀剣その他武器類の提出を求め、応じなければ何をされるかわからないという怖さから、やむなく提出に応じたそうで、家宝であり、唯一「真田」の証であったのにと、死ぬまで事あるごとに悔みを聞かされていました。

父からは、こうした真田の歴史はほとんど聞かされたこともなく、晩年になって家系図作りに執着していた父の姿に、私自身もその当時はほとんど関心もなかったので、奇異に感じたほどです。

おそらく父には出生に関わる上のような複雑な事情があって、真田のことはあまり触れたくなかったからかもしれません。

今、気に掛かるのは、

川口素生氏が書かれた『真田幸村は生きていた!』に紹介されているように、様々な「真田幸村伝説」が残っていることです。

真田信繁(幸村)の次男(大八、片倉四郎守信、仙台藩)、三男(信幸、岩城隆、出羽亀田藩主)は東北に生き延び今でも命脈を保っているそうですが、長男大助(幸昌)は父信繁の命により秀頼の守護を命じられ、大阪城落城の折、秀頼、その母淀殿(浅井三姉妹の長女、母は織田信長の妹で於市、妹、江は徳川秀忠の正室)と共に自害したというのが定説になっています。

しかし、これとて噂の域を出ず、川口氏が言うように、秀頼の側室である千姫(徳川秀忠の娘、家康の孫)は助け出され、幸村の次男、三男も助け出されているわけですから、淀殿を含め、秀頼、幸村、大助も実のところ、うまく逃亡を図り、その生存説が各地に長く語り伝えられてきているのも決しておかしくない状況にあったわけです。

我が真田は、信繁が九度山に蟄居した折の監視役が初代紀伊和歌山藩主浅野幸長であり、その父浅野長政はもともと秀吉の信任厚く、五奉行筆頭に任ぜられたくらいですから、大坂夏の陣後家督を相続した弟の長晟は徳川方について戦功により紀伊和歌山藩から安芸国広島藩42万6千石に加増転封されはしましたが、秀吉が秀頼護持を託した五大老・五奉行の家康を除く大半の大名がそうであったように、特に西側の諸大名をはじめ幸長、長晟も腹の中では家康を好とせず、心情的には隠れ豊臣派であったと憶測されても不思議はなく、その浅野家が守護管理したのが今高野山であることなどから、浅野と真田の関わりは浅からぬものがあったのではないかと推測するわけです。

大坂夏の陣後、もし、秀頼、幸村、大助が生きながらえたとすればその誰かが、また、幸村逃亡の折、四国の讃岐市近辺で土地の女性との間にできたと噂される四男之親(一説には、幸村が九度山に蟄居していた折に、土地の娘との間に生まれたのが之親だという説もある)、周防山口に伝承される五男幸春も含めて、真田の男系の誰かが浅野家の庇護のもと、この山深い甲山の地に血脈は繋ぎ、少なくとも1700年初頭から堂々と『真田』の姓を名乗り続け、今高野山参道入り口で米問屋を営みながら、その姓が私の代まで引き継がれたのではないか。その他、九度山ゆかりの真田紐の原料が大田庄で明治まで栽培され、真田紐を生産し、その同業組合の記念石碑が残っていること、広島を中心に、隣の岡山(ここでも真田紐の生産が近年まで行われていた)、さらに兵庫の姫路あたりまで真田姓を名乗る方々がいて、真田の落人の噂が絶えないこと等々を思うとき、川口氏が唱えられている真田幸村生存説はさることながら、四国から九州島津を頼っての逃亡説は根拠痕跡が不明瞭であると同時に、むしろ、そのような噂を流布することによって、当時の徳川の目をそらし、実は縁の深い浅野家の手引きによりその領地広島に「真田」が生き延びたという方が現実味があるように思えるわけです。

いずれにしろ、真田幸村その他一族の生存説はロマンのあるお話ですが、源義経伝説をはじめ、宮本武蔵や佐々木小次郎といった英雄伝説と同じで、歴史的に見ればどうってことのない、今はやりの動画の登場人物のたぐいでしかないのですが、我が真田にとっては、ルーツをたどればそこに至り、間違った歴史があれば正さねばならない、そういう気持ちで、長々とお話し申しあげたわけです。






コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください