毎年この時期になると「さくら」のことが書きたくなる。
 と言っても、もう桜もほとんど散ってしまったし、今年ほどさくらに接する機会がなかった年はない。
 看護師を目指す21歳の若者二人と医師を目指す20歳の女性が頼りにしてくれ、なんとか彼らの力になりたいものだと老体に鞭打つ日々が続いているせいかどうか。
 でもありがたいものだ。桜もいいけど、やはりこんな若者がもっといい。なんとか花を咲かせてやりたい。
そんな中、古文の授業で、
 『さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな』
 と歌った平忠度の歌がたまたま出てきて、大好きな歌人なものでつい熱が入り、うんちくを傾けることになった。
『平家物語』には数々の名場面があるが、「忠度の都落ち」の段は高校の時に知り、授業中にそっと涙を拭った覚えがある。
 平家一門が源氏に追われ西国に落ちのびてゆくおり、薩摩守忠度は手勢6人を従えて敵中命も顧みず師俊成卿の屋敷を尋ねて、
 「世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はあらんずらん。これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」
 と自作の歌集を託す。
 俊成卿はこのような貴重な忘れ形見を疎略にすることは絶対にないと答えると、薩摩守は喜んで、
 「もうこれで、西海の底に沈んでもかまわない」
 と別れを告げ、馬に乗って、西の方に向かって行った。俊成卿がずっと見送っていると、忠度とおぼしい声で、
 『前途(せんど)程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す』
 と高らかに口ずさむ声を聞いて、俊成卿は涙を押さへて屋敷へ入っていった。
 その後、一ノ谷の戦いで薩摩守忠度は源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。
 その際、岡部忠澄が目にしたのが、鎧の時箙(えびら)に結びつけられた「旅宿の花」という題の一首、
 『行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし』
 という歌。
 戦の後、岡部忠澄は薩摩守忠度の菩提を弔うため埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立し、今に至っているそうだ。
 そして『千載集』が撰じられたおり、身は朝敵となったので、「読人知らず」として師俊成卿が入れたのが、『さざ波や』である。
また目頭が熱くなった。生徒と視線が合うと、生徒の眼も閏でいたのがうれしかった。
 今年の花見はこれで良し。
 
 