| 歌好きの紀夫君、こんにちは。 俳句と和歌は世界でももっとも短い詩で、いま外国でもちょっとしたブームになっています。これからは国際化の時代、ぜひ日本の伝統文化(俳句でもいいし、お料理でもいいし、武道でもよろしい)をひとつでも身に付けておいてください。外国の方は非常に尊敬してくれます。 ところで、西行のこの歌(心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ)ですが、一般的には「俗世の執着を絶った出家の身にも深い情趣が感じられることだ。鴫の飛び立つ沢の秋の夕暮れのさまは」と解釈されているようです。確かにご指摘の「鴫立つ沢」のところの解釈は昔から異論があるようで、「鴫が立っている」と静的にとるか、「鴫が飛び立つ」と動的にとるかは難しいところです。 さん太も「三夕の歌」は長年よく授業で取り上げてきたのですが、はじめは「鴫が立っている」、中ごろは「鴫が飛び立つ」で、いまは「鴫が立っている」派です。でも今でもよくわかりません。 ただ、ここで鴫という鳥はどんな鳥かを抜きにしては考えられません。「雁」という鳥が立っていることを連想できないように、「鴫」という鳥が「飛ぶ」ということをイメージできる鳥ではないことです。もちろん「鴫」も飛ぶわけですが、よほど奇をてらったものでない限り、そういうイメージは湧いてきません。 「鴫」が、おそらく沢(岩がごつごつあって、せせらぎがこだまする)の一角、川床が砂地で音もなく清流が流れている、その流れを分けるかのように「鴫」が一本足で突っ立っている、音も何もない景色の中で、清流が淀むことなく流れつづけている。さん太には、そんなイメージが彷彿としてくるんですが、いかがでしょうか。 他の方もご意見があれば、聞かせてください。
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