The only thing that I can see now is the midsummer sun and the hamahirugao crawling on the sandy beach. And the BGM is the sound of the eternal wave.
今、目の前に見えるのは碧空の太陽、大海原、砂浜を這う浜昼顔。それだけだ。あとは、悠久の昔から永遠の未来に繰り返される波の音。
これはまさしくカミュの『異邦人』の舞台。向こうに、死と太陽が合体したムルソー(フランス語で死はmort、太陽はsoteil)がたたずんでいる。
友人に遺恨を抱いているという以外に何のつながりもないアラビア人を銃殺するムルソー。法廷で動機を聞かれ、「焼けるような太陽の光のせい」と答えるムルソー。
あらゆる物事の「合理的な意味」を求める一般大衆にとっては、それは理解しがたい弁明であり、嘲笑すべきうわ言だ。
しかし、ムルソーにとっては、何事につけても合理化し、意味にしがみつく人間こそ拒絶すべき存在なのである。
人間とは無意味な存在であり、すべてが無償であるという命題は、虚無的で無力感漂わせるものに聞こえるが、それは到達点ではなくて出発点であるということを知らねばならない。
愛と正義といった「意味づけ」で安心するすること断固拒否し、「人間はなぜ生きるのか」を問い続ける。不条理を生きるということは結局はそういうことなのだ。
度重なる自然災害、人為災害、大量殺人、迫害、事件、事故。世界が、哲学不在の浮ついた政治状況の中、現代社会、世界はいったいどこに向かおうとするのか。人はどう生きていこうとするのか。
若き日に衝撃を受けた『異邦人』が、ふと思い出させたのもこの風景のせいで、といって、それがいったい何の意味があるというのか。
いつの間にか、ムルソーがのりうつった自分を感じる一日になった。