太陽と 浜昼顔と 波の音


The only thing that I can see now is the midsummer sun and the hamahirugao crawling on the sandy beach. And the BGM is the sound of the eternal wave.
今、目の前に見えるのは碧空の太陽、大海原、砂浜を這う浜昼顔。それだけだ。あとは、悠久の昔から永遠の未来に繰り返される波の音。
これはまさしくカミュの『異邦人』の舞台。向こうに、死と太陽が合体したムルソー(フランス語で死はmort、太陽はsoteil)がたたずんでいる。
友人に遺恨を抱いているという以外に何のつながりもないアラビア人を銃殺するムルソー。法廷で動機を聞かれ、「焼けるような太陽の光のせい」と答えるムルソー。
あらゆる物事の「合理的な意味」を求める一般大衆にとっては、それは理解しがたい弁明であり、嘲笑すべきうわ言だ。
しかし、ムルソーにとっては、何事につけても合理化し、意味にしがみつく人間こそ拒絶すべき存在なのである。
人間とは無意味な存在であり、すべてが無償であるという命題は、虚無的で無力感漂わせるものに聞こえるが、それは到達点ではなくて出発点であるということを知らねばならない。
愛と正義といった「意味づけ」で安心するすること断固拒否し、「人間はなぜ生きるのか」を問い続ける。不条理を生きるということは結局はそういうことなのだ。

度重なる自然災害、人為災害、大量殺人、迫害、事件、事故。世界が、哲学不在の浮ついた政治状況の中、現代社会、世界はいったいどこに向かおうとするのか。人はどう生きていこうとするのか。
若き日に衝撃を受けた『異邦人』が、ふと思い出させたのもこの風景のせいで、といって、それがいったい何の意味があるというのか。
いつの間にか、ムルソーがのりうつった自分を感じる一日になった。

湖畔には 鬼百合咲いて 青い富士


Oniyuri blooming on the shore of the Kawaguchi lake and blue Fuji which is far away from the opposite shore are producing brilliant contrast.
変てこ台風12号は大した被害をもたらすこともなく九州付近で消滅した。
普通の台風なら九州では勢力最大になって上陸するのだが、ここで消滅する台風なんて聞いたことがない。
台風一過、今のところ快晴とはいかないまでも青空は広がっているが、各地とも不安定な天気が続くようで注意を要するようだ。
7月も30日になった。鬼百合がよく見かけるようになったから、夏も本格的になった。
40度を超す日も何日かあった記録破りの7月だったが、例年なら8月の方が暑さも厳しくなるはずで、この調子でいくと40度半ばもあるかもしれないとちょっぴり不安にもなる。
でも、台風通過直後の富士山を見ると、湿度も高いせいか青くかすんで見えるが、夏日を浴びた手前の鬼百合がひときわ目立って、またこれはこれで絵になる。恥ずかし気にこうべを垂れて、真っ赤な顔をしている姿が可愛い。
さくら、つつじ、芝桜、紫陽花、ルピナス、百合、四季折々の花が季節季節の富士山を取り囲む風景はまさに日本の象徴だ。
いろんな災害に見舞われてもこの富士山の姿を眺めると、日本人なら誰しもつらさも忘れホッとする。
どうかこの八月は大過なく、いい思い出がたくさん残る八月になってほしいものだ。

高原の 涼しさ増すや ノカンゾウ


Nokanzou is in full bloom on the plateau. The sunlight is shining, but the wind is also cool, I feel more refreshing.
百合とよく間違える人がいる。確かに百合の近縁種ではあるが、まったく別種と考えてよい。
有名なところでは、ニッコウキスゲ。今頃は、尾瀬沼はこのニッコウキスゲを見る人で溢れ返っているはずだ。
ノカンゾウは百合とは別れ、このニッコウキスゲとともにワスレグサ属に属している。地方地方で呼び名がありややこしい。
よく似た名前で、甘草という薬草があるが、これは全く別種で見た目にも全く違う。
ノカンゾウによく似たヤブカンゾウとともに食用にも供せられ、地方の民宿や旅館では揚げ物にしたり、おひたしにしてよく出される。体にもいいそうで、宿の主からうんちくを聞かされることがよくある。
日当たりのいい高原ではよく見かけるが、こんな暑い盛りにも元気よく咲いていて、涼風と相まって心休まる思いがするものだ。

飛火野の 涼を楽しむ 奈良団扇


The Nara Park where Todaiji Temple, Kasuga Taisha Shrine, Kofukuji Temple are lined up belongs to the Tobihino field. This is part of the World Heritage site. There are a lot of deer in the wide park, it is a tourist idol. The Nara-fan is a traditional craft of Nara and we are enjoying cool while watching deer.
東大寺、春日大社、興福寺が立ち並ぶ奈良公園は飛火野(春日野)の一角にあります。
日本で一番最初に文化遺産として登録された『法隆寺地域の仏教建造物』とともに、東大寺(正倉院を含む)、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、春日山原始林の8件を合わせて、『古都奈良の文化財』として世界遺産に登録されています。
昔、この飛火野が原野の名残を留めているころ、父に連れられて絵を描きに来た時の光景が忘れられません。
夏の夕方、ホルンが鳴ると、飛火野一帯に群がっていた鹿たちが夕飯を求めて一斉に集まってきます。
タオルで汗をぬぐい、持ってきた団扇で扇ぐとひときわ涼しく、今まで忘れていた空腹感が急に感じられ、家路を急いだものです。

かき氷 それも苺が ナンバーわん


Speaking of summer is shaved ice. Among them, strawberry syrup is the most traditional, delicious and beautiful.
夏と言えばかき氷。かき氷と言えばイチゴ・シロップ。これがぼくの定番だ。
子供のころ、お隣が駄菓子屋さんで、夏になるとかき氷を売っていた。
イチゴにレモンのシロップ、砂糖水を掛けるミゾレ、この3つに小豆の餡をのせる何々金時。この4種類しかなかった。何々金時はちょっと高いから、買うのは決まって赤いイチゴ。
隣のおじさんはぼくをよく可愛がってくれ、いつも2倍ほど盛ってくれる。
今では考えられないことだが、そのかき氷を盛るのは、新聞紙。新聞紙を円錐状にしたのを器代わりにして盛る。不衛生極まりないことだと思うだろうが、実はこの新聞紙はインクが殺菌作用があって、ちゃんと洗わない食器よりよほど清潔なのだ。
しかし、新聞紙ではさすがに見かけもよくないし、不衛生に思うだろうから、間もなくコメからできた器に代わった。
今はどうだろう。写真の紙カップに入ったのは、海水浴場とか、たまに街中で見かける程度で、ちょっとした店に入っても豪華なかき氷が出てくる。氷に掛けるシロップも抹茶やマンゴーといったものから、イチゴもメロンもスイカまで盛られていて、すべて実物。昔のような単純な氷は探しても見つからない。
変わったところでは、酢醤油がかかっていたり、ジャガイモをアレンジして名物だったり、イナゴの佃煮が乗っかっていたり、タコ焼きがのっているのも見たことがある。何でもありだ。
しかし、やっぱりいいのは、あっさりとしたイ・チ・ゴ!

川風に 泳ぐ真夏の 鯉のぼり


Carp streamers are also swimming in the summer. It is a sight that I saw in San’in area. While watching it in the cabin along the river, I ate delicious cold Warabi Mochi.
国道9号、別名山陰道の道の駅、名前は忘れたが、その横を流れる川に季節外れの鯉のぼりがたくさん泳いでいました。
暑い暑い日差しを受けて涼しげに泳ぐ鯉のぼりを見ながら、川横の瀟洒な小屋で冷えたわらび餅を食べる気分は最高です。
季節外れの鯉のぼりと書きましたが、後で調べてみたら、意外や意外、全国のあちらこちらにもあるんですね。
5月節句の鯉のぼりは、子供たちを元気づけるため、夏の鯉のぼりは大人たちも含め、みんなを元気づけるために泳ぐんだと思いました。
今年も暑い暑い。
でも、こういう風景を見ていると、この暑さだからこそ余計に心にしみます。

浜木綿(はまゆう)に 埋もれて聞くは 熱中症


When I was taking a walk on the hamayu blooming coast, news of heat stroke came from my smartphone. I would like to express my sincere condolences to those who died.

連日40度を超す地域があると聞いてびっくりしている。そんな中やはり怖いのは熱中症だ。
10年ほど前の話だが、まだそれほど世間で熱中症のことが騒がれていないとき、それらしいことに罹った経験がある。
ちょうどこの時期だったと思うが、よく自転車であっちこっちを散策していたことがあり、近くの海に行った。
その帰り、ペットボトルのお茶もなくなり、のども乾いたので自動販売機を探したんだが、探せど探せどどこにもない。そのうちたまたま喫茶店が見つかり飛び込んだ。ところがこの喫茶店、冷房が効きすぎて寒い寒い。とりあえず出された水を2杯いただき、アイスコーヒーを飲んだ。それでまたいっそう寒さが増したので、早々に店を出た。日はガンガン照るし、なんだか体が変だ。帰宅途中3km手前辺りにスーパー・イオンがあり、そこにマクドナルドがあるので、とりあえず何とかそこまで行きついて、自転車を預け、そこからバスで帰ろうと思った。
やっとの思いでマクドナルドに入ったんだが、注文のカウンターに並ぶのもしんどいので、先に椅子に座った。しばらく休んで、注文しに行こうとしても行けない。店員に頼んで注文の品を運んできてもらった。ところが何ものどを通らない。コーヒー、この時はホットコーヒーなんだが、それを飲んで、後はじっとしていたんだが、苦しい苦しい、もう救急車を呼んでもらおうと何度思ったか。
1時間か2時間か、やっと落ち着きも出てきて、窮地を脱したようだ。そのあと、バスで帰宅した。
今から思えば、かなり危険な状態にあったのではないだろうか。まだ今から10年若かったから助かったようなもので、今ならニュースになったかもしれない。
皆さん、我慢をせず、体に異変が起こったら、躊躇わずに助けを求めてください。

儚(はかな)しや 夏の夜空の 美人草


Fireworks bloom for a moment in the summer night sky and disappear instantly. It reminds us of a transient life.
夏は花火のシーズンでもあります。
今日本全国のあちらこちらで花火大会が催され、暑い夏のひと時を、暑さも忘れ、老若男女、夜空にに繰り広げられるいちだいページェントに酔い痴れます。
春の桜が、パーっと咲いて、パーっと散る、あの桜の生き様が日本人には何とも答えられない共感を呼び起こすように、花火も同じ共感を呼び起こします。。
悠久の時の流れの中で一瞬しか生きることのできない人間、いや、生きとし生きるものの儚さを、桜に見、花火に見るからです。

この句は、句頭に、は、な、び、を配して詠みました。
儚さと遊びは切り離せません。それを句に結びたかったのです。
美人草という草花は正式にはありません。
ヒナゲシ、ホウセンカ、サネカズラの別称です。
漱石の『虞美人草』という小説の題名も、この美人草に由来し、中国の『三国志』に出てくる項羽の愛人「虞姫」に掛けたものです。
最後には、毒をあおって自死した、虚栄心の強い美貌の女性甲野藤尾の生涯を描いた作品です。

潮騒に 揺れる心と 仏桑華


When hearing the sound of waves by the seashore of hibiscus’ blooming, my heart beats up.
夏と言えば海。海岸線をたどると、砂浜が広がるところにはカラフルなパラサルが立ち並び、磯あたりには、シュノーケルを付けた若者や子供たちが海の獲物を探しています。聞こえてくるのは波音だけ。動きはあっても静けさそのものです。八重咲のハイビスカスが潮風にゆったり揺れています。こんな海もいったん狂えば、われわれもひとたまりもありません。東南海地震がここ30年以内に70%の割合で起こると予測されています。こののどかな風景が永遠にと祈りたくなる気持ちです。

仏桑華(ぶっそうげ)、または仏桑花。ハイビスカスがポピュラーです。

蝉時雨 緑陰茶屋で わらび餅


I entered a tea cafe by the approach to the temple surrounded by greenery. The warabi-mochi eating while hearing the cicada chirps tastes the best.
季語てんこ盛りの俳句になった。蝉時雨、緑陰、わらび餅、いずれも夏の季語である。
俳句は原則一句に一季語である。5,7,5のたった17音で心象風景を表す俳句において、中心テーマは季語であって、それが2語以上だと焦点ボケになるからというのがその理由である。
 
     目には青葉 山ほととぎす はつ松魚(かつお)

山口素堂の有名な俳句であるが、青葉、山ほととぎす、はつ松魚、これも季語三語である。
この三語のどれを抜いても、これほど有名にはならなかったであろう。
型破れだから有名になったわけではなく、やはり春を代表する三語が重層的に重なったからこそ、春をいっそう際立たせているのだ。
芭蕉にも、

     一家(ひといえ)に 遊女も寝たり 萩と月
     蛤の ふたみにわかれ ゆく秋ぞ

という句があり、萩と月、蛤と秋、が季重ねになっている。しかし、これも季重ねの効果が利いている句として有名だ。
また、一茶の句に、

     猫の子が 手でおとすなり 耳に雪

というのがあるが、これは猫の子(春の季語)、雪(冬の季語)で季節違いの季語が使われていて、季違いといい、これも原則禁句である。

いずれにしろ、一定の原則があるからこそ、俳句には俳句の伝統美がある反面、あまり原則にこだわっては不自由で、言いたいことも言えない、表現したいことも表現できない、いわば芸術の大原則である自由が奪われるという結果になる。
これもまた、芭蕉の唱えた「不易流行」の真髄なのである。
今日はちょっと技術論のお堅い日記になってしまった。