紅葉追う 人は知らずや 秋の薔薇

People are all crazy for autumn leaves, but here the autumn roses are blooming so beautifully. Pure and fragrant.

俳句には「有季定型」という原則があります。季節を表す言葉「季語」を入れて季題、春、夏、秋、冬を明確にする。五七五音の定型を守る。しかしこれはあくまでも原則であって、季題無用論もありますし、非定形の自由律と言って五七五音に囚われない俳句もあります。

もともと俳句の起こりは和歌(五七五七七)を引き継いだ連歌、つまり和歌の上の句と下の句を別人が創り、100の連作で一区切りにする歌遊戯の上の句五七五を取り出し完結したもので、世界最短の定型詩です。「俳句」という言葉も江戸時代前期から散見されますが、一般化したのは明治に入ってからで、正岡子規の文芸革新運動以降です。芭蕉も俳句という言葉は使っていません。俳諧の発句くらいの認識しかなかったのではないでしょうか。

芭蕉や一茶もそうですが、「有季定型」の原則は守られていますが、季語は一語でなければならないとか、五七五でなければだめだという頑なさはありません。

今日の拙句も、「紅葉」、「秋」、「薔薇」の3季語が入っていますが、有名な俳句で、『目には青葉 山ほととぎす 初鰹』という、江戸の俳人、山口素堂の句にもありますように、これも季語3語で、芭蕉の句にも複数の季語を使っている句は沢山あります。ましてや今の時代のように、花も食材も自然の風物もいつの季節のものか区別がつきにくくなれば尚更です。

五七五の原則にしても、字余り、字足らずの名句は沢山あり、あくまでも原則であって、少々原則をはみ出しても感動がより的確に伝わればいいようです。

ただ自由律の俳人の代表格である種田山頭火のように『どうしようもない私が歩いている』がはたして俳句と言えるのかどうか、大いに疑問です。山頭火の何者にも囚われない自由な生き方に共鳴し、コピーライターが書いたような文言まで俳句に入れるのは?です。

芭蕉の言う「不易流行」は俳句の真髄をよく表していて、「温故知新」もそうですが、本質を失わず自由にというのが俳句の基本だと思います。