ひとりの日本人の初詣

 
2015年、平成、うーんと、28年ももう間もなく閉じようとしている。
このところ恒例になっている近くのお寺への初詣までまだ少し時間がある。
初詣と言ってもテレビに映し出されるような仰々しいものでなく、ごくごくひっそりしたものである。
山里の小部落の真っ暗な夜道を、懐中電灯の明かりを頼りに辿るとそのお寺があり、山門もない狭い境内に入ると左側にいきなり立派な鐘楼が建っている。このお寺にはそぐわない大きさだ。 
前回の初詣の折は雪が深々と降っていて、2組の家族連れ、合計5人が鐘を突く順番を待っていた。遠くの方からも除夜の鐘の音が聞こえてくる。
除夜の鐘百八つを規則正しく打つものと思っていたから、このお寺は例外だ。境内を見回しても誰一人いるわけでなく、近くからお参りした信者が好き勝手に突くのがおもしろい。
人間には百八つの煩悩があり、大晦日から新年にかけてその煩悩を振り払い、新しい門出とするいわれがあるそうだが、はたしてこのお寺には百八つを打つほどの人が訪れるのか、はたまた百八つを超えることになるのか、ちょっと心配になった。お陰で一つ煩悩が増えた。
鐘を突き終って本堂の座敷に昇り、無作法なお祈りを済ますと住職の奥さんらしき人が甘酒を持ってきてくれた。右隣には老夫妻が同じ甘酒を振る舞われていた。
住職は40代半ばの人で、サラリーマンを辞めて僧職に就き、このお寺にきてまだ新しいという。
このお寺は浄土真宗の末寺で、しばらくは住職のいない無住寺で、その間村の人たちが寺守をしてきたという。
時代の流れといってしまえばそれまでだが、初詣客が何十万というお寺があるかと思えば、こんなお寺が全国に万とあるというから驚きだ。
むべなるかな、この当人だってたしか真言宗のはずなのに、初めこのお寺の宗派も意に介さず、初詣客の真似事をしようと思ってかどうか、それさえも定かでないような不謹慎な初詣客なのだ。
先年も西国三十三か所を五年がかりで回り終えたが、これとて確とした信仰心があったわけではない。

どうだろうか。お寺に行くのは一年で墓参りと初詣くらい。日本人にはこの程度の宗教心というか、信仰を持たない日本人が結構多いような気がする。
今年の初めにはいきなり、イスラム国の人質になった日本人2人が惨殺され、イスラム教という宗教の怖さ、たとえイスラムの教えとは真反対な集団による事件だったとはいえ、宗教の持つ怖さの一面を実感したわけだが、現代社会にも、また歴史的にも、宗教対立が原因の戦争や動乱、人権蹂躙、虐殺の例は枚挙に暇がないことを考えれば、現代日本人の宗教心の薄さはただ憂うるだけではないような気もする。
よく言われるように日本人の宗教観とキリスト教やイスラム教を信じる人たちの宗教観は異次元のもので、日本人の宗教観はアニミズムにその根源があり、そこから発するシャーマニズムどまりで、その上部構造としての仏教やキリスト教そしてイスラム教ですら受け入れる素地がある。日本人はおおむね世界のあらゆる宗教に対して実に寛容なのである。

いま年越しそばを食べている。
12月31日と言えば年越しそば。そして除夜の鐘に初詣。しきたりははるかに薄くなったとはいえ初雑煮。
つい先日はハロウィンにメリークリスマス!だったのに。

さてさて、年越しそばを食べ終わったら、今年も甘酒に惹かれてあのお寺にお参りするとするか。

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