今年のさくら ― 2015 ―

 
今年の桜は、大阪では4月3日にピークを迎えた。この日の天気は晴れ、といっても全くの快晴というわけでもなく、黄砂の影響もあるのかうっすらと霞のかかったお天気だ。最高気温22.7度、最低気温10.6度、歩いていても汗ばむほどの陽気だ。ちょうど1週間前の3月26日のお天気が、最高気温14.4度、最低温度2.9度という真冬並みの寒さだったからなおさら暑く感じる。
先週から愚図ついたお天気でこの4月3日だけが晴れ、明日以降も来週いっぱいまで雨模様だそうで、テレビのお天気のお姉さんがこの日だけがお花見のチャンス、どうぞお出かけくださいと呼びかけていたので、それではということでお花見に出かけることにした。
最近はわざわざお花見に出かけなくても、いたるところに桜が咲いていて、車を運転していても、道の両脇に並んだ桜並木から舞い落ちた花びらが黒いアスファルトの上でくるくる舞っていて思わずスピードを落とすこともある。窓を開けていると車の中に花びらが飛び込んでくることもある。本当にどこも桜、桜、桜だ。
それでもお花見に出かけるのだから、お花見には別の意味があるに違いない。
長い長い冬を潜り抜けて、梅が咲き、桃が咲き、桜が咲くと何もかもがパーッと明るくなる。あの桜の花の咲き様はなんだ。枝もたわわにという表現があるが、たわわどころではない。なぜあんなに花をつけなければならないんだろう、一本の桜に咲く花びらの数は一体いくつあるんだろうと思ってしまうほどだ。一本の桜の木でもそうなんだから、それが何十本、何百本と並んだお花見どころは圧巻としか言いようがない。それに酔いしれたいからお花見に出かけるんだ。生きる勇気が湧いてくるというか、その生気を身体いっぱいに染み込ませたいから出かけるんだ。
今年は、大阪の浜寺公園に出かけた。
昔は白砂青松、白い砂浜に青い松が延々と並び、『小倉百人一首』にある祐子内親王家紀伊の「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れこそすれ」と歌われたほどの大阪一の海岸だった。夏にもなると、関西一圓から海水浴客がどーっと押し寄せたが、今はその面影はない。今でも『日本の名松100選』に選ばれるほどの松は残ってはいるが前には海岸はなく、『マリンスポーツパーク浜寺』という、幅100m、総延長2㎞の漕艇場があって、海には続いているが、その先は大きな埋立地になっていて、そこには大きな石油会社や化学会社が立ち並んでいる。
『マリンスポーツパーク浜寺』の両岸が公園で、どちらにも見事な桜並木がある。
海側の桜並木を散策した。
ピンクがかったソメイヨシノと白っぽいオオシマザクラが交互に並んでいてもう満開だ。向こう岸と違って人も少なく、水面には、落ちた桜の花びらを大きなボラが寄って来て飲み込み、その向こうにはもう2,30㎝にもなったサヨリがたくさん群れを成して泳いでいる。中には水面から高く飛び上がって、折からの陽光を浴び銀色に輝くやつもいる。
漕艇センターの前を通ると、所狭しと漕艇が並んでいて、高校生の漕艇部員たちが艇の手入れをしていたり、体操をしていたり、皆明るくてのびのびとしている。
もう1週間も前に満開を迎えた東京の上野公園には毎年200万人以上の花見客が訪れるそうだが、昨年は4割程度だった外国人比率が、今年は5割以上になったとみられ、中でも人混みで飛び交う中国語が目立つそうだ。「爆買い」から「爆花見」という言葉まで現れたという。大阪でも、大阪城公園にはわんさと外国人が、特に中国や台湾さらにインドネシア、タイというところから押し寄せている。ツイッターを見ると、今流行りの自撮り棒で桜をバックに自分や友達と一緒に撮影した外国人画像がいっぱいだ。
生きとし生けるものすべてが桜に酔いしれているいるようで、こちらまでわくわくする。
こうしてまた1年が始まる。暦では1月が年の始まりだが、命のサイクルは4月から始まる。その門出を華々しく飾るのが我が桜だ。
今テレビを見ているが、またケニアで銃の乱射による死者が127人と出ている。複雑な気持ちだ。
どうか世界の人々よ、いちど日本に来ておくれ。銃を捨てて、憎しみを捨てて、この桜を見りゃ、命の大切さと、生きることの喜びがふつふつと湧いてくるよ。
今年の花見もよかった。

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【さくら関連】
さくらーそして日本人ー
願わくは
今年のさくら ー2013―
今年のさくら ―2014―

私信 ― マッサンにはまってます ―

今日も涙涙です。一馬が出征し、海軍の仕事を請け負うマッサンの工場も空襲を受けるかもしれないと、避難場所と十年物の酒樽の安全確保で大忙しの中、エリーが故郷に手紙を書いています。
「この国の人たちはつらい時に互いに励ましあい、わずかなものを分けあい、助けあい、奥ゆかしく、慈愛に満ちています」
明後日3月11日がまたやってきますね。辛いけれども忘れてはならない一日です。
その時思い起こすのが、いち早く現場入りした外国特派員が母国に向け発信したエリーと同じこの言葉です。
時宜を得たとはこのこと。まさに朝ドラの真骨頂というところですね。朝ドラが受けるわけですね。
脚本がいいのか、演出がうまいのか、俳優陣の演技が素晴らしいのか、多分そのすべてが相まって多くの人に感動を呼び起こし、国民的人気を得ているんだと思います。
ぼくなんか、ドラマなんてついぞ腰を落ち着けて見たことがない。別に嫌いじゃないんですが、今まではそんな時間もなかったし、どうも辛気臭いのが嫌で、もともとテレビもそんなに見ないんですが、見るといえばどうしてもニュースものに偏りがちだったんですね。
ところがこのところ、NHKのオンデマンドを利用するようになって、好きな時に好きな番組を見られることに味を知り、好きなドキュメンタリーとか教養番組はもちろん、その合間にドラマもよく見るようになった。
どのドラマもいい。脚本もそうだし、演出、俳優の演技、昔と比べたらそりゃあ良くなっていますね。その時代のその時代の特徴があって一概には比べられませんが、昔のを見るとやはり合わない。時代の流れというものがあって多分向上もしているんでしょうが、変化していることは事実ですね。
大河ドラマも「風林火山」あたりから見るようになって、次の「篤姫」は初めから最終章まで初めて全編見ましたね。それではと、ずっと昔のを見てみようと見ましたが、腰折れた。やっぱり辛気臭いんです。
朝ドラで目覚めたのが「あまちゃん」、これも初めて全部見ました。主演の能年くんの素人ぽさと脇役陣の絶妙な取り合わせと、それにオープニングテーマが強く印象に残りました。
そして今見ている「マッサン」、これも途切れることなく見ています。最近は傍らに必ずタオルを置いてのウオッチです。誰か突然訪れて、涙目では恥ずかしいですからね。
言っちゃあ悪いが、主役のマッサンはあまり上手くない。エリーがいいですね。ぞっこんです。よくこんな俳優を見つけたもんだ。外国人とは思えないほど日本人の心をとらえていますね。それにやはり脇役陣。小池君なんてボインで有名だとは知っていましたが、ここでは何とも言いようのないいい雰囲気を出している。見直しましたよ。
あれやこれや好き勝手な感想を書きましたが、もうすぐこのドラマもおしまいだとか。
3月11日とエリーの手紙が重ねあって、ついお便りしたくなりました。
悲しく辛い思い出ですが、幸せな気分にもなっています。
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると同時に、この幸せ感をいただいている感謝の気持ちを率直に申し述べます。

神の国

今から15年前の2000年5月15日、時の内閣総理大臣森喜朗が、神道政治連盟国会議員懇談会において、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」と発言し物議をかもしたことがある。いわゆる「神の国発言」である。
その詳細はWikipediaにも「神の国発言」として載っているが、内閣総理大臣の発言としてはいかがなものかと思うが、野党、特に共産党や朝日新聞、毎日新聞のように目くじらを立てて批判するほどのものではなく、全体としてはまっとうなことを言っているのではないか。
日本が「天皇を中心とした神の国」であるかどうかは俄かには首肯しがたいというか、正直わからないが、日本の歴史を見たとき、天皇が中心かどうかはともかく連綿と継続的に存在してきたことは事実だし、外国から見ても、日本は天皇の国だと思っているだろう。
ギネスブックにも「日本は最古の国」と認定されているそうだが、世界の歴史が王朝が交代する歴史である中、紀元前660年2月11日建国という事実認定は置くとしても、日本が世界最古の国であることは確かだし、誇りにしていいことだと思う。
ちなみに、「中国6000年の歴史」とかなんとかよく言うが、これは国として歴史ではない。中国の建国は1949年なのである。世界で3番目に古いイギリスが1066年。2番目に古いのはデンマークで10世紀前半。フランスは1789年。アメリカは1776年。いかに日本が古い国かということがわかる。
しかし国古きが故に尊しとして言っているのではない。その古い歴史から生み出された文化こそ尊いものだし、誇りにし大切にしたいものだ。
2013年に日本を訪れた外国人が初めて1000万人を突破し、2014年には1340万人、2015年1月は2014年1月に比べて30%は増えているという。そして訪れた外国人の多くが日本の文化、日本人のホスピタリティに一様に賞賛の言葉を贈ってくれている。
日本は神の国なんだ。海にも山にも川にも、大きな樹にも岩にも、いたるところに神がいる。お寺にも行くし、神社にも行く。クリスマスは好きだし、いまイスラム教にも関心を持ち始めている。中国の道教、儒教の影響はもう身に染みついてしまっている。
なぜか。地震あり。津波あり。山崩れがあり、大雨がある。日本人は有史以来ありとあらゆる自然の驚異にさらされ翻弄されてきた。恐れおののき、身を寄せ合い、じっと耐えてきた。それでも大地を愛し、海を慕い、自然の懐に抱かれて安堵してきた。自然に宿る神々に、時には叱咤され、時には恵みを受け、教えを受けてきた。日本人ほど自然とのかかわりが深い民族はいないのではなかろうか。自然に宿る神々が日本人を育んだのだ。いま世界がそんな日本に、そして日本人に関心を寄せている。
深さ1万メートルの日本海溝の絶壁にへばりつく日本は危うい。またいつ何時、大地震が来るかもしれない。日の出を拝んで、夕日に祈る。
明日もまたつつがなき一日でありますように。さあ、眠りにつくとしよう。

「建国記念の日」と「建国記念日」

今日2月11日は「建国記念の日」である。
この日いちばん目に留まったニュースは、Yahoo!ニュース(産経新聞)の『建国の日「知っている」2割未満 米中では9割超 『自国誇り』は7割』という見出しの記事だ。
日本青年会議所(日本JC)が11日の建国記念の日を前に、「自国の建国・独立の日」に関する意識調査を行ったところ、中国の10割をトップに、カナダ、米国、フランス、ドイツ、そして最後のイタリアが8割弱を示す中、日本はどーんと下がって2割弱。「日本人の建国に対する意識の低さが鮮明に浮かび上がった。」とし、最後に日本JC国史会議議長の棟久裕文(むねひさ・ひろふみ)氏が「日本では自国を誇りに思いながら、建国は知らないという矛盾した状況になっている。グローバル社会に向け、義務教育段階から建国を含めた国史教育を充実させていく必要がある」と話している、と締めている。

むべなるかな。
この「建国記念の日」制定のいきさつからしてすったもんだで、戦前の「紀元節」が1948年(昭和23年)に廃止され、間髪を置かず紀元節復活の動きが1951年(昭和26年)頃から見られ、「建国記念日」制定に関する法案が提出されが、当時野党第1党の日本社会党が保守政党の反動的行為であるとして反対し、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となるなど、この法案はその後9回の提出と廃案を繰り返すも成立には至らなかった。結局、「建国記念日」の名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにして社会党も妥協、1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した、といういわくつきの祝祭日なのである。
つまりは、「日本が建国された日」ではなく、「日本が建国されたという事実を記念する日」として制定されたわけで、多くの国民は「建国記念の日」と「建国記念日」の区別がつかないし、制定のいきさつと目的が曖昧模糊としているわけだから、「建国記念の日」の受け止め方もいい加減なもので、多くの国民が骨休みの休日くらいにしか受け止めていないのも仕方ない。上のアンケート調査もいったい何を問うたものか定かでないというわけだ。
世界の主要国を見ても「建国・独立の日」は歴史的にも日が浅く、明確な根拠がある。一方、日本では「建国記念日」が設定に建国神話が用いられ、記紀中で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年2月11日)であるから、今年で建国2675年ということになり、世界でも類を見ない長寿国ということになるが、これとても確たる根拠があるわけではないから、いっそう曖昧さに拍車がかかる。
さりとて、ほとんどの国民は日本を誇りにし、うまし国と思っているのは確かだろう。

ちょうどこの記事の下に、
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「敬服すべし」中国も驚愕、日本人人質家族のふるまい…「恐ろしい」の声も
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いうのが載っていて、まあ今日の「建国記念の日」も良しとするかという気持ちにあいなった。

クールジャパンと大和しうるわし

夜はもっぱら家庭教師という勤労老人にはテレビと無縁である。
それでもお正月とかたまの休みに見るテレビに一つの特徴を感じる。
学校か塾かと錯覚するような学習クイズ番組がやたら多いことと、グルメ番組そして日本礼賛番組が多いことである。
クイズ番組といえば思い出すのが『二十の扉』。
1947年(昭和22年)から1960年(昭和35年)まで毎週土曜日の夜7時30分から30分間放送されたクイズ番組の草分けで、大人から子供まで世代を問わずに誰もが楽しめることから国民的な知名度と人気を誇ったNHKラジオの看板番組である。
昨今のクイズ番組のようにもっぱら知識を試す内容ではなく、機知と想像力を試す趣向が強かったように思う。
そのNHKがいまやたら力を入れている番組が『cool Japan 発掘!かっこいいにっぽん』である。そのキャッチフレーズは「『COOL JAPAN』というキーワードが世界中で飛び交っている。ファッションやアニメ、ゲーム、料理など、私たちが当たり前と思ってきた日本の様々な文化が外国の人たちには格好いいモノとして受け入れられ、流行しているのだ。『COOL JAPAN 発掘!かっこいいニッポン』は外国人の感性をフルに活かして、クールな日本の文化を発掘して、その魅力と秘密を探ろうという番組です。」とある。
作家で演出家の鴻上尚史と、父親はアメリカ人、母親は日本人のタレント、リサ・ステッグマイヤーが司会をして、ご意見番1人、そして来日間もない各国の外国人8人くらいで構成され、例えば『文房具』というテーマを取り上げ、商品映像や商品が開発、発売されるまでのドキュメンタリーを交えながらディスカッションするというバラエティ番組である。
そう言えば昔、もう30年も前になるが、思い出されるのが講談社が外国人向けに出版した『DISCOVER JAPAN』という2分冊である。知日派の外国人がこの『COOL JAPAN』と全く同じようなテーマを取り上げて日本の文化を広く深く紹介していたが、そのリフレッシュ版のような気がする。受験生に読ませたのが懐かしい。
この『COOL JAPAN』が始まったのが2006年で、海外向けにも放送され、その影響もあってか、当初は主に秋葉原に代表されるようなマンガやアニメ、渋谷・原宿のファッションなど、ポップカルチャーを指していたこのクールジャパンは、今では食品・食材や伝統工芸、家電、神社仏閣のたたずまいなど広範囲にわたった日本文化の特徴を指すようになり、2010年には経済産業省が日本の文化産業の海外進出、人材育成などの促進を行うクール・ジャパン室を創設、その後文部科学省、外務省の2省も加わって、政府としてもクール・ジャパン現象を推進することに力を入れている。民放テレビでも花盛りになったわけだ。
東京オリンピック招致で一躍有名になった「お・も・て・な・し」は日本人の精神性をも表すものと理解され、クールジャパンをさらに裏打ちした。
来日した外国人のブログを見ていると、あまりの日本礼賛ぶりにこそばゆくなるが、クールジャパン、かっこいいニッポンだけを見ているのではない、日本のおもてなしの精神をしっかり受け止めてくれているのがうれしい。
岡倉天心が『The Book of Tea 』で著した「たかが茶されど茶」が、明治維新の欧化思想吹きすさぶ中、偏った国粋主義ではなく日本文化を掘り起し、外国にも広く日本文化の特徴を紹介したように、いまや「Cool Japan」は「戦後レジームからの脱却」を声高に叫ぶより早く戦後レジームから解放され、世界に羽ばたこうとしているのだ。
ともすれば慢心するのが人の常だし、国の常だ。日本礼賛、クールジャパンを自ら声高に発するのではなく、世界からそう受け止めてもらえることが大切だ。
日本武尊の辞世の歌「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし 」の『うるわし』は実にいい言葉だ。
うるわしの国、日本。なってほしいものだ。 

ベラスコ ―日本の秘密諜報員―

 
2015年平成27年未年、目の前にかかっているカレンダーをあらためて見直している。
戦後70年、長いような短いような、わが人生を振り返ってみても平々凡々だったのか波乱万丈だったのか、アルツハイマーではあるまいに、思い出のほとんどが霧の彼方へと消えて行っていることを自覚することがある。
参考のためにと、日本の人口構成の統計を調べてみたら、70歳以上、つまり1945年昭和20年以前に生まれた人が約2200万人、日本の総人口の約19%、2割弱が存命している。戦前生まれがまだこんなにいたのかと驚くと同時に、あの世界大戦とその後の歴史が他人事ではなく、自分たちがそこに生きてきたんだという実感と、この戦後70年という節目を考えてみる意味は大きいと思う。

そんな中、この正月に、あまり見たい番組もなく、そんな時よく見るNHKのオンデマンドで探していたら、30年ほど前に見た『NHK特集 私は日本のスパイだった ~秘密諜報員ベラスコ~』があった。びっくりした。こんなに古い番組が残っていることと、ちょうど戦後70年という節目にまた出くわした奇遇を思ったからだ。しかし、よく考えてみるとNHKもこの年だから紹介欄に掲げたんだろうから、ぼくが見つけ出したわけでもない。
それでも30年は古い。
1982年に放送され、第37回芸術祭大賞、第15回テレビ大賞優秀番組賞ほか多くの賞に輝いた作品だそうだが、当時どれだけの人がこれを見たのか、今このブログをお読みいただいている人の中にもそんな人がいたらうれしい思いだ。

番組内容もほとんど忘れていたが、いまあらためてこの番組を見たとき、今次世界大戦がいかに無謀で無防備だったのか、今もそうだが、当時も情報戦を制さずして勝てるわけがないわけで、開戦1年前にはすでに日本の暗号はすべて解読されていて、これが敗因の一つになったといわれている。
その解読文書がアメリカの公文書図書館に残っていて、日本の交信記録を紐解く中、日本の秘密諜報機関に「TO」という組織があり、その中心人物がユダヤ系スペイン人「ベラスコ」であることを突き止めたNHKのスタッフが、当時存命中のベラスコに接触、インタビューした記録がこの『ベラスコ』である。
アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコは日本では当時まだ知る人もほとんどなく、この放送で初めて明るみに出、実は世界ではよく知られている一流スパイで、ドイツナチス、とりわけヒトラーの信頼厚い人物であったことが知られることになるのである。
その後、作家の高橋五郎氏がこのベラスコに接触し、『超スパイ ベラスコ──今世紀最大の“生証人”が歴史の常識を覆す』で著した内容は、歴史事実を覆すことばかり。
ベルリンの『フューラー・バンカー(地下官邸)』で愛人エバ・ブラウンと自殺したことになっているヒトラーは実はそこを脱出していたこと、第一側近のマルティン・ボルマンも同じく同所で青酸カリを飲んで自殺と断じられたがこれも嘘であることを、その現場にいたという生き証人ベラスコが語っている。
さらに驚くことは、広島に落とされた原爆が実はナチス制原爆で、ナチスドイツはそのときすでに2発の原爆を保有し、それがドイツ国防軍元帥ロンメルの裏切りで連合国に渡ったものであることも語っている。
NHKの番組ではなるほどそこまでは踏み込んではいず、「TO」組織で日本に多くの連合国情報を伝えたが、日本がその情報を真剣には取り上げなかった悔しさを語るのみで終わっている。

伝えられる歴史というのはそういうもので、我々が学んだ歴史もよく「英雄史」だと言われた。表面に出た出来事の奥底にはそれとは裏腹な事実が存在し、実のところはそれが時代を変えているんだという認識も大切だ。
今話題の「イスラム国」問題もアラブの体制側、アラブ産油国の大富豪たちの安泰が西側にとっても有益だから、その側から問題を取り上げ、それが報道され、それこそが真実だと思わされてはいないか、なにも「イスラム国」に賛同するのではなく、パリで起こったテロに同情的になるのでもなく、表に出た「真実」のみを鵜呑みにする愚は避けたいものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=Z7PR8MVIaSo
https://www.youtube.com/watch?v=MxDPsuEkEzg
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc101.html
https://www.youtube.com/watch?v=WVsgsJzJWUA

街のサンドイッチマン ーカラオケ考ー

 

♪♪♪ 街のサンドイッチマン ♪♪♪

作詞:宮川哲夫、作曲:吉田 正、唄:鶴田浩二

ロイド眼鏡に 燕尾服(えんびふく)
泣いたら燕が 笑うだろ
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者(どけもの)
とぼけ笑顔で 今日も行く

嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺(おい)らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく

あかるい舗道に 肩を振り
笑ってゆこうよ 影法師
夢をなくすりゃ それまでよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
胸にそよ風 抱いてゆく

2014年ももう間もなく幕を閉じようとしている。クリスマスも終わり、忘年会もめっきり減ったことだろう。
忘年会でもないが、生徒に誘われカラオケに行くことになった。
年に二三度行くか行かないかで、人に誘われてやっと行くほうで、よく勝手もわからない。持ち歌も大した数はなく古い歌ばかりだ。
そんな中、唯一心から歌える歌がこの『街のサンドイッチマン』である。
以前このブログでも書いた『誰か故郷を思わざる』と同じで、子供のころ、路上に石炭箱を並べて作ったにわかステージで、近所のおばちゃんやおっちゃんが歌う『町内歌謡大会』で初めて聞いた歌だ。
サンドイッチマンに扮した戦闘帽のおっちゃんが、真っ白な顔の両頬にまーるい日の丸を書き、プラカードをふりふり歌っていたその姿と歌いぶりが何とも印象深かった。忘れられない。
ドーナツ盤のレコードを買い、テープレコーダーに入れ、カセットテープに入れ、ウォークマンに入れ、今ではiphoneにまで入れている。
今こうして歌詞を読んでいても胸がジーンとなってくる。歌っている鶴田浩二がまたいい。特攻隊崩れの哀愁漂う歌い振りが心にしみる。
ぼくたちの時代はこんな時代だったんだ。
敗戦から立ち上がり、来年2015年で戦後70年、ずいぶん変わったものだ。この変わりようはぼくたちにしかわからない。
だからぼくの歌う歌は生徒たちにはわからないだろう。聞いてはくれていて、歌い終わると拍手はしてくれるが、お愛想だよおあいそ、優しいお愛想だ。
おなじで、一緒に行った生徒たちの歌はまるで分らない。異邦人の歌かなと思ってしまうほどだ。ちゃかちゃかちゃかとまるで早口言葉のような歌を歌う生徒もいる。なんじゃこれは、という感じだ。
曲探しのタブレットが右に渡り、左に渡り、歌っている人の歌にはまるで関心がない。しかし歌い終わると必ず拍手し、時にはほめ言葉を投げかける。
しかし不思議なことに、ぼくがこの『街のサンドイッチマン』を歌いだすと皆の動きが止まり、じっと耳を傾けてくれる気配を感じる。三番の「あかるい歩道に 肩を振り・・・」と歌いだすと手拍子をし、ぼくが肩を左右に振るのに合わせて皆も肩を左右に振っている。うれしい。鼻の奥がジーンとしてきて、涙が出そうになる。涙を抑えて歌い終わると、みんなが不思議そうにぼくの顔をじっとみている。心が通い合った瞬間だ。

ぼくはこの歌だけはのびのびと歌える。本当に街中をゆくサンドイッチマンになった気分だ。俺らは街のお道化者、胸にそよ風抱いてゆく人生の道化者だという感じだ。
戦闘帽のおっちゃんがのりうつったのか、鶴田浩二がのりうつったのか、自分が歌っている気がしない。大げさで叱られるかもしれないが、生きた時代がのりうつったような気がする。
だからみんなカラオケなんだ。あの四畳半か六畳位の暗い空間は、人が集っていても孤独であり、孤独であるがゆえに歌に浸り、それぞれがしょい込んだ喜怒哀楽をるつぼに溶かし、お互いの絆を確かめ合い、また新たな活力を生み出すブラックボックスなんだ。

日本のトイレはもはや排泄するだけの場所ではない。

東洋経済オンラインで表題に掲げた内容の日本のトイレ文化の考察が掲載された。
日本人の「清潔好き」と「技術力の高さ」が相互にトイレ環境を磨き上げ、独自の発展を遂げ、かつてない高みに到達している、といい、この特集では、日本のトイレ文化が世界にもたらす未来について5日連続で紹介されて実に興味深かった。
http://toyokeizai.net/category/toilet
確かに最近のトイレはきれいだし、まったく至れり尽くせりだ。
我が家にはまだないが、知り合いのトイレを借りてびっくりしたことがある。
トイレの入り口のスイッチを入れドアを開けると、便座のふたが自動的に空き、便器の中にはそれこそ今話題の青色発光ダイオードが青い光を放っている。
きれいで幻想的だ。横の壁には操作ボードが取り付けられていて、使い慣れないぼくには使い方もよくわからないいろいろなボタンが並んでいる。用を足し、最低限度の操作をして立ち上がると、水が便器の周りをくるくる回り出し、やがてふたが自動的にしまる。まるで誰かがぼくを見ていて世話をしているようだ。

昔、トイレ、いや便所は怖かった。
便所は部屋から離れていて、廊下伝いに行かねばならない。夜などは怖くて怖くて、便所に行くには一大決心がいる。それでも行けなくてとうとう寝小便、小学生の高学年まで続いたような記憶がある。
今でも覚えているが、一度などは、昼間だったけれども、廊下を歩いていると、廊下脇の土壁がもそもそと動いて次の瞬間、その土壁がどさっと崩れ落ち、同時に大きな蛇がお腹をいっぱいに膨らませて横たわっていた。土壁の隙間をネズミを追って丸呑みし、もがいて土壁を突き破ったとか。もうびっくり仰天、しばらくは一人で便所に行けなくなったこともある。
それにそうそう、昔は1か月に一度は近くのお百姓が便所の汲み取りに来てくれ、おまけに採れたての野菜や時には新米まで置いて行ってくれる。夏にはスイカを持ってきてくれるので、夏の汲み取りが楽しみだった。
牛に曳かせた大きな荷車に木製のタンクを積み、天秤の両側に吊った大きな木の桶に汲み取ってきたし尿をタンクに掛けた板梯子を伝ってタンクに上り、それをタンクに入れるのだが、一度、そのお百姓が板梯子を踏み外して転げ落ち、道中がし尿でいっぱいに広がったことがる。それ以来、そのお百姓を口さがない近所の人たちが「落ち目のおっさん」と呼ぶようになり、子供心に胸が痛んだこともあった。

もう隔絶の感だ。たった半世紀くらいの間に、トイレ事情もこんなに変わったのだ。
確かに日本人は伝統的にトイレには格別の思いと配慮を受け継いできている。
『古事記』にもある「厠(かわや)」はトイレの下に水を流す溝を配した「川屋」から来たそうだし、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」「手水(ちょうず)」といったり、中国の伝説的な禅師の名から「雪隠(せっちん)」という語を使うようにもなった。昭和になると「ご不浄」から「お手洗い」「化粧室」としだいに表現がより穏やかなものが使われるようになったという。
石造りの手水にはいつも清澄な水が注ぎこみ、カタンコトンと鳴る手水鹿威しはなんと風情のあることか。

ここで思い出したんだが、「エスコート」の由来である。
昔イギリスはロンドンでも街中の家にはトイレがなく、し尿便を利用したそうだ。それが溜まると窓から通りに平気で投げ捨てた。通りがかりの人にはお構いなし。特にきれいに着飾ったレイディには大迷惑で、連れの男性は女性を守るため必ず窓側に並んで手をつないだ。それがエスコートだそうだ。

10年ほど前、中国北京でも実際に経験したことだが、かの有名な天安門広場のすぐ南側に大きな商店街がある。そこで突然便意を催したんだがトイレがない。何軒かの店に掛け合ったんだがすげなく断られ、途方に暮れていると知人がやっと公衆トイレを見つけてくれた。通りから少し入った公衆トイレにもう一目散で駆け込んだんだが、ぎょっと立ちすくんでしまった。コンクリート製の大きな台座があって、そこに男4人が並んでこちらを向いて排便中だ。もう何もかも丸見え。しかもお互いに顔を見合わせて談笑している。しかしもう我慢がならない。あと一つ空いていた場所に駆け上がって事なきを得たんだが、背に腹は代えられないとはこのことだ。

もう便所とは言わない。日本人の多くがトイレという。おトイレともいう。toiletが語源だが、アメリカでは、toiletは「化粧室」を意味する場合もあるが、「便器」を意味する直截的な単語でもあるため、日常会話では「bathroom」と呼んだり、「rest room」、あるいは「men’s/lady’s room」と婉曲的な表現を用いることが一般的だそうだ。できたら「トイレ」は避けて「手水(ちょうず)」くらいがいいんだがなあ。

この記事を読んで「トイレ」がまた日本の文化を象徴するだけでなく、世界の環境保護にも大きく貢献すること、世界の文化レベルを一段と引き上げる大きな役割を担っていることを再確認した。

時刻Wのお話 ーワルシャワ蜂起ー

 

♪♪♪ 夜想曲 20番 ♪♪♪

2014年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワ、時刻W(午後5時)、街中の人の動きがピタッと止まる。けたたましいサイレンが鳴り響く中、1分間の黙祷が始まった。子供も大人も、男も女も、家族連れも恋人同士も微動だにせず黙祷をささげている光景は今や異様にさえ見える。
NHK BS1スペシャル『ワルシャワ蜂起 葬られた真実~カラーでよみがえる自由への闘い~』には、またまた魂が揺さぶられた。

1944年8月1日、ナチスドイツ占領下にあったワルシャワでポーランド国内軍約5万人が一斉蜂起した。
その5年前の1939年9月1日、ドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍がポーランド領内に侵攻し、ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告して始まった第二次世界大戦。大戦当初は、最新兵器を装備した近代的な機甲部隊を中心とするドイツ軍に対し、偵察部隊などに騎兵を依然として多く残し機械化の遅れていたポーランド軍は不利な戦いを強いられ、勇ましくもドイツに宣戦布告した英仏両国もドイツとの全面戦争をおそれるあまり本格的な戦闘行為には踏み切れず傍観する事に終始、間髪を入れずの9月17日には、ドイツとポーランド分割の密約を結んでいたソビエト連邦が東部地域に侵攻して1ヶ月足らずでポーランドのほとんど全土が分割占領されてしまったのである。
1944年にはそれまでヨーロッパ本土でのドイツ軍勢力のほとんどがソ連に向けられていたが、ソ連のヨシフ・スターリンの第二戦線構築の呼びかけでイギリスやアメリカが西部戦線を拡大、ドイツ軍はこの対応のため東部戦線は縮小せざるを得なくなる。その隙をついてのワルシャワ蜂起であるが、川ひとつ隔てた所にまで進駐したソ連赤軍を頼りにしたのが大間違い。イギリスに置く亡命政府のポーランドの解放と自由を求めるポーランド国内軍を援助する目的はさらさらなく、ドイツ軍に打撃を与え、ひいてはポーランド国内軍の自滅を図ってのそそのかしで、それを察知したアドルフ・ヒトラーは、ソ連赤軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じる。そして8月31日にはポーランド国内軍は分断され、9月末には一部のゲリラ部隊を残し壊滅するのである。
ワルシャワ蜂起による市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑され、国内軍は1万6000人、ドイツ軍は2000名の戦死者を出したといわれている。
その後のポーランドは長くソビエト連邦の影響下に置かれたが、1980年、東側社会主義国で初めての自主管理労働組合である「連帯」が電気技師レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサで有名)によって結成されることにより、いわゆる「東欧諸国」から離脱、1989年9月7日、非共産党政府のポーランド共和国(現在)が成立するのである。そして第三共和国初代大統領に「連帯」のワレサが就任したことは、後のソビエト連邦崩壊につながっていく。

このワルシャワ蜂起に立ち上がった人たちがまだ存命していて、つい3か月前の2014年8月1日の記念日に参列、一人の女性戦士が現大統領を新しくできたワルシャワ蜂起の同志の名が刻まれたモニュメントに案内する場面が映されていた。
20世紀はそんな時代だったんだ。
いつも思うんだが、大きな感動はどうして大きな悲劇の中でしか生まれないんだろう。
戦場のピアニスト』という映画、これにもいたく感動した覚えがある。
ナチスドイツがポーランド侵攻したその日、ポーランドの首都ワルシャワのラジオ局で、ユダヤ人ピアニスト、ウワディクことウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)がショパンの『夜想曲 20番』を演奏している場面から始まるこの映画も、ワルシャワ蜂起の中で起こった一エピソードを描いたものである。
それにそうそう、ユダヤ人の悲劇の数々とその感動のドラマ。ポーランド。ショパンか。行ってみたいなあ。

東京は高円寺、純情商店街の銭湯には、

東京・高円寺の「純情商店街」を抜けた裏路地に、創業以来80年という老舗の銭湯がある。四国道後温泉を思わせる木彫り屋根を少しあしらい、「本物の自然回復水使ったいます」というのぼりを立てた「小杉湯」には昔懐かしい人情の機微と人生の哀歓が溢れていた。
10月31日、NHKの『ドキュメント72時間』で放映された下町の銭湯風景である。

お昼の3時半にオープンして深夜2時まで開いている「小杉湯」には、時間時間に応じた実に様々なお客がやって来る。
「ミルク風呂」と書かれた玄関の硝子戸を開け、番台を通り抜け、何もかも脱ぎ捨てて湯けむり蒸せる風呂場に入ると、正面向こうには一面に、富士山を描いた大きなタイル絵があり、もうかなりたくさんのお客が湯船につかり、体を洗っている。
湯船から溢れ出る水の音、蛇口から出る水の音、シャワーの音、あの銭湯独特の談笑しあう小気味のいいくぐもり声。
お爺さんと息子とその孫三代が一緒になって湯船ではしゃいでいるのが微笑ましい。
女風呂から出てきた二十歳前後の女性ふたり。淡路島から東京に出てきて、将来は原宿あたりでお店を開くのが夢だという女性と、その女性を三日間訪ねてきた幼馴染の二人連れ。風呂上がりのいい気分のところで冷たいフルーツ牛乳で乾杯!
真っ赤な鉢巻にサングラス、髭ぼうぼうの46歳は建築現場の労働者。怖そうな風貌とは裏腹に、ぶっきらぼうな受け答えにもどこか優しさが隠せない。銭湯を出ると、隣のコインランドリーで洗濯しておいた作業服三日分を大きなボストンに詰め、今日の疲れをすっかり洗い落としたに違いない。「よしっ!」と言って街中に消えていく。
番台あたりで何かを探している21歳の若者。失くした下駄箱の木札の鍵を探しているのだという。マン喫(マンガ喫茶店)に寝泊まりして一か月。お笑い芸人を目指して敢えて厳しい環境に置きたいと家を出たそうだ。木札が見つかるとほっとしたように、生活用品を詰め込んだバッグからノートを取り出し、その中から選び出した自慢のネタをパフォーマンス。見ていてまったく面白くもない。がんばれよ。
こちらには日本語ペラペラのイタリア青年が顎まで湯につかっている。大学で日本語を勉強したが、不況真っ只中のイタリアでは職もなく、日本にやって来て就活中。就活中のストレスはここのお風呂で解消するという。
お昼の3時半にはシャッターが開く前から人の行列。いちばん風呂を目指したお客はシャッターが開くのもももどかしく、潜り抜けるように入っていく。この時刻にはやはりお年寄りが多い。中にたまたまいた若者に72歳の詩吟の先生が近づいて来て、「今日行く(教育)ところ、今日用(教養)を足すところ」と風呂になぞらえて人生訓を垂れ始める。若者は嫌がることもなくにこにこ聞いている。
89歳の母親を連れた娘さん(?)がやってきた。60年間通い続けているという。商売の合間を縫って、生まれたての娘をきれいないちばん風呂に入れたくてやって来て以来ずっと通い詰めているというからこの風呂いちばんの常連さんだ。
6時半頃、今度は87歳の杖を突いた老人と67歳の男性が介添え役のようにやってきた。元塗装工で上司と部下だったという。奥さんを亡くし一人住まいの上司とこうして週に何回かは一緒に来て、一人前に育ててくれた上司の今でも大きな背中を流し、もう負けないくらいに大きくなった元部下の背中を流しあうこの二人には、そこに刻まれた年輪の深さと計り知れない心の絆を知る思いだ。
日付が変わるころ、疲れた風の若いカップルがやってきた。25歳の青年はサーカス団でピエロをやっていたがそのサーカス団が倒産、今は大道芸人で生計を立て、パートナーの女性もパントマイムをやっているという。今一番の悩みは、結婚はしたいんだが女性の親からは「書類審査」で不合格になり、今はひたすら合格点に届くべく、二人で支えあって修行中だそうだ。将来の夢は大きく、世界中を笑顔に変えたいというこの純情な青年には思わず拍手した。
腰まで届く長髪の青年服飾デザイナーとその部下、と言ってもほとんど歳の変わらない茶髪にアフリカのどこかの部族がする大きな耳輪にピアス満載の青年の二人連れ。誰にも負けたくない。ゴキブリブランドを立ち上げるのが夢だという。お風呂の中では風呂仲間だが、いったんお風呂を出ると厳然とした上司と部下だと認め合う。上司の自転車を追って部下は赤いテールランプを点滅させながら寝倉に帰っていった。
49歳の独立間もないコンサルタント経営の独身女性。風呂上がりのビールを屋台で引っ掛けてから出勤するというママさん。車椅子に乗った母親を押してやってきた青年。風呂上がり、前の食堂「丸長」で「ネギ風味鶏のから揚げ」定食650円を頬張る31歳の警備員。車椅子生活を余儀なくさせられた娘とこの先のことを心配げに語る65歳の男性。
いろいろだ。様々だ。しかし、どれもこれも、いや誰も彼も、風呂上りの何とも言えないほっこり感が伝わってくる。一時とはいえ至福の極みとはこのことだ。

「小杉湯」の路地を出ると、路上でギターを弾く若者、上海で見かけたような路上食堂、自転車が行きかい、決して不快でない食の匂いと様々な騒音がこだますここ東京の下町が、遠ーい昔の感懐を呼び起こし、もう二度と戻ってくることはないと思っていた原風景にいざなうこのテレビ画像に食い入るだけであった。