お迎え ― 極楽往生 ―

 

・大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和しうるはし – ヤマトタケル

・行きくれて木の下のかげを宿とせば花や今宵の主ならまし – 平忠度

・願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃 – 西行

・旅に病んで夢は枯野をかけ廻る – 松尾芭蕉

・人魂で行く気散じや夏野原 – 葛飾北斎

好きな辞世の句を挙げてみた。好きな句というよりも好きな人物の辞世の句といった方が正しいかも知れない。
人はこの世に生まれてきていつかは死ぬ。当たり前と言えば当たり前のことで、何かの機会にでも出くわさなければこんなことは考えない。

先日、安倍内閣が発足して間もなく、3人の殺人犯の死刑が執行された。三者三様で、一人は「生まれ変わってもまた人を殺す。」と言い残し、一人は刑の執行を催促しながら最後まで生に執着した。
その前には、テレビによく出ていた経済評論家の金子哲雄氏が41歳という若さで肺カルチノイドという癌で死んだ。

人の最期は様々で、死刑囚の死と人に慕われた人の死といっしょくたでは非難の誹りを免れないかもしれないが、死という現実を身近に感じさせられた瞬間だ。

金子氏は医師から余命いくばくもないと言われた瞬間からしばらくは「死の恐怖」で眠れなかったという。
そうだと思う。
ぼくなんか、こうして話していても自分の死なんかは考えたくないし、考えないようにしている。怖い怖い。

怖い一心で思い出したのが、去年の2012年8月29日、NHKの「クローズアップ現代」で放映された「天国からの“お迎え” ~穏やかな看取り(みとり)とは~」である。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3238.html

「死んだ親父が会いに来た・・・」など、死を間近に体験すると言われる“お迎え”現象について社会学者が調査した内容で、高齢者や遺族500人あまりを調査、自宅で看取られた人の4割が“お迎え”を体験し、そのうちの8割が死への恐れや不安が和らぎ、穏やかに看取られていったことが分かったという。そして、現代医学の進歩が、いわゆる「延命治療」を施すことによって、“お迎え”を阻害しているのではないかという懸念を投げかけた。

昔、源信和尚が「往生要集」という本を著し、死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、この書物で説かれた厭離穢土(おんりえど;この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるということ)、欣求浄土(ごんぐじょうど;極楽浄土に往生することを心から願い求めること)の心こそが極楽往生への道だと信じた当時の貴族・庶民らにも広く信仰を集め、後の哲学や文学思想にも大きな影響を与えたという。

紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れて“お迎え”にやってくる「来迎図」はなんとロマンに満ちた旅立ちんの光景ではないか。
阿弥陀如来が「親父」や「おふくろ」に姿を変えているかもしれない。死んだ恩師や友人が観音菩薩や勢至菩薩の化身かもしれない。
もう怖くなんかない。
「南無妙法蓮華経」でもいい、「Amazing Grace」でもいい、家族や友人が唱和する中で“お迎え”が来たらなお最高だ。

国を想い、故郷をたたえ、桜の花の下で眠りにつきたいなあ、御釈迦さんのところへ行くんだぞ、死んでも人魂になって野原を駆け巡ってやるぞと思って“お迎え”を待つのもまたいいだろう。

時代が変わり、環境が変わり、そんな中でも人は生きそして死んでゆく。
生まれる時は何も考えずに生まれてくるが、死ぬときはそういうわけにはいかない。
苦しまず、騒がず、できることなら安楽に死にたいものだ。
“お迎え”は決して他人事ではない。

お迎え ― 極楽往生 ―」への1件のフィードバック

  1. 私もその番組で思い出すのは、父親が医者に入院するなら今ですと言われて母と兄弟姉妹で選択して医者を嫌う父の気持ちを察し京都の自宅で看取る決意をして1ヵ月後に偶然訪れた私の息子、妹の娘、弟の息子や弟夫婦、母・妹、に看取られ13年前に亡くなりました。その後、私の娘が患う精神分裂病で多量の薬を飲みその頃のマンションの私の部屋で意識不明になり急救車中で病院探しで2時間後に運ばれた病院で昏睡状態になり医者から胃洗浄がが終つても脳に廻れば植物人間になるを告げられ1週間後

    に目覚め元の掛かりつけ病院に戻れましても、無事退院して父の葬儀にも
    出ました娘もその年の10月に自らの命を絶つべき福島県四ツ倉海岸へ入水自殺をして、悲しみの4年後に真田様とのお便りを始めた経緯があります。その娘の13回忌が今年の10月に行います。今の元気な私には忘れる事の出来ない年でした。芳子

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