私信 ーそれでも秋がー

 
九月のかかりに、あれっもう秋かな、と感じる日がありました。そんな日も2,3日。もう九月も半ばを過ぎましたが、連日の暑さには閉口いたしております。
その後いかがお過ごしでしょうか。昨年の今頃は、肺がんの手術を2回もなさって、その大変さと入院病棟の涼しさとが相まって世間の猛暑便りも蚊帳の外、そんな感想も漏らしておられましたが、今年の暑さにはさぞ参っておられるのではないでしょうか。
手術後の経過も順調で、お聞きするところ、畑仕事にも精を出され、食欲も旺盛でダイエットを盛んに気になさっておられるとか。なんと申し上げたらいいのか、お元気はいいのですが自信過剰は禁物、体調管理にはもう少し気を配られたほうがいいのではと老婆心ながら申し上げたい気持ちです。
それでも確かに秋は近づいてきましたね。稲の刈取りがあちらこちらで始まり、稲の切り株からまた新たな芽が青々と出てきているのもあれば、まだ手つかずの稲田もあります。その畔にはお彼岸を前にあの真っ赤な彼岸花が目立ち始めました。湖岸には例年のようにアユの稚魚が群れを成して遊弋しています。もう少しすると湖岸にびっしり群れを成し、勢い余って湖岸に跳ね上がり干からびるアユも出始めます。昨年は何とかこのアユを掬い取りたいと網を買ってきましたね。ダメでしたね。今年も挑戦してみますか。
今年も本当にいろいろなことがありました。3月11日のことは言うに及びません。あんな天災はめったにあるものではありません。日本国中いまだに右往左往していますし、今後何年かかって復興ができるのやら、被災された方にはお気の毒としか言いようがありません。
昨日はテレビで、東北地方の人たち100人が取れたてのサンマをトラックいっぱいに積んで東京にやって来て、せめてものお返しだと、テントを張って、ながーい炭火コンロで焼き立てのサンマを東京の皆さんに振る舞っていました。涙が出ましたね。
東北地方の人たち、中でもお亡くなりになった人たち、取り残された人たちには申し訳ありませんが、この方々のおかげでどれだけ日本国民が浄化され、温かい心を取り戻し、子供たちには最高の教育機会を与えたことでしょう。
さっそくサンマを買ってきましたよ。本当に今年のサンマは美味しい。丸々太っていて実に脂の乗りがいい。でも、テレビでも言っていましたが、今年は三陸沖は水温が高くてサンマが寄り付かず、北海道沖まで出かけねば取れないそうです。またこれも心配です。
今度お伺いするときはサンマの美味しそうなやつを持って伺います。今年は大根はまだですか。あれば最高なんですがね。それとあの手作りの柚子ポン酢がね。

 

ゴーヤ

 
この夏はよく食べた。開けても暮れてもといった感じだ。なぜって?
この夏が始まるころだったと思うが、テレビで京セラが社屋の壁面をゴーヤを這わして夏の節電対策にするという報道があったのが動機と言えば動機で、だからと言って壁面に這わしたわけはでなく、小さな畑で三つか四つ苗を買ってきて植えてみた。
かわいいもので、ずぼらして水やりを忘れても日に日に育っていき、夏の初めには初収穫。光沢のあるいぼいぼは逞しく、いかにも精の付きそうな野菜である。
調べてみると、「ゴーヤ」ではWikipediaにも載っていない。たどりたどって、「ツルレイシ-Wikipedia」で初めてゴーヤにたどり着いたわけだが、「ゴーヤ」は沖縄地方での呼び名で、正式には「ツルレイシ」または「ニガウリ」ということだそうだ。水溶性のビタミンCが豊富で、苦味成分は健胃効果があって夏バテにはもってこいとのこと。
このゴーヤ、初めて食べたのが昨年の夏。名前も知らなくて生徒に聞いて初めて名も知ったわけだが、そのお母さんがさっそくゴーヤ料理を作って持ってきてくれた。豚肉と味噌で煮込んだもので、最初は「なんじゃ、この苦さは」と正直思ったが、食べるごとに調理もうまいのか病み付きになりそうな苦さがある。それからというもの、時々ゴーヤを買ってきては見よう見まねで何度か食したわけだ。
今年はそのゴーヤができるはできるは、ほかの野菜と一緒に炒めたり、リンゴとバナナとネーブルのジュースに加えたり、余ったやつは陰干しして「ゴーヤ茶」にしてみたり、まさにゴーヤ三昧。おかげで今年は熱中症にかかることもなく、何とか夏も越せそうだ。
ゴーヤさまさまである。

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上海の夏

お盆のころから鳴き出したツクツクボウシもこのところすっかり勢いをなくし、近くの田んぼもすっかり黄ばんできた。お百姓に聞くと9月初めには刈り入れに入るとか。もう今年の夏も終わりだ。
そういえば、先日中国上海の夏の様子がテレビで放映されていて、懐かしくいろいろなことが思い出された。
上海の夏も暑い。しかも日本と同じで蒸し暑いからたまらない。ただ,日本と比べていいところが一つある。それは,最近日本ではめったに見られなくなった夕立が時折あるということだ。それも日本の夕立と違って実に大陸的だと思えるのだが,遠くで雷の音がしているなと思っていると,間もなく砂塵を巻き上げながら猛烈な突風が吹き出し,黒雲が空いっぱいに広がるや否や稲妻が走り,耳をつんざくような雷鳴がとどろきはじめ,それこそ天からバケツの水をひっくり返したような激しい雨が降ってくる。高層マンションの20階に住んでいたんだが,まるで大海原で時化にあったような心地だ。やがてそんな嵐のような夕立が1時間かそこらあたりで止むと気温も一気に下がり,昼間の暑苦しさがうそのようになる。窓を開けると冷気さえ感じるくらいだ。
気分を良くして外に出るともう夕飯時だ。ただでさえ多い街中の食堂以外に道端のあちこちににわか食堂や屋台が所狭しと出現し、仕事帰りの人たちや外食を求めて集まる近所の人たちでにぎやかなこと。中国人は食べている時がいちばん幸せなんじゃないだろうかと思えるくらいだ。本当に安くて美味しいから無理もない。
もう満腹。このまま帰ると体にもよくないと、すっかり日も暮れた街中を歩いていくと、近くの公園からブギウギバンドが聞こえてきた。公園の薄明かりの中で多くの人たちが取り囲み、中でまた多くの男女がブギウギを踊っている。驚いたことに、夜会服を着て踊っているペアーがいたり、仮面を冠って踊っている人もいる。取り囲んでいた人も中に入り踊り出す。みんな実に楽しそうだ。ブギウギだけではない。チャチャチャもあれば、フラダンスもある。
いつの間にかもう踊っていない人がいないくらいだ。ダンスをしたこともないぼくも誘われるまま見よう見まねで踊っていた。

尾瀬を訪ねて

尾瀬は一度は訪ねてみたいと思っていた。
以前5月の連休に、東北地方を旅行した際立ち寄った会津磐梯山で、たまたま水芭蕉が咲いていて、ああこのころには水芭蕉も咲くんだと思ったこともあって、今年の5月の連休、気軽な気持ちで尾瀬を訪ねてみることにした。尾瀬の入り口、大清水を目指したが、途中、片品村に「みずばしょうの森」の案内板があったので立ち寄ってみると、意外や意外、かなり広く水芭蕉が群生していてみごとに花を咲かせている。水芭蕉を求めて尾瀬にやってきた人はここに立ち寄るんだろうか、おそらく素通りしてしまいそうな穴場だ。そして肝心の尾瀬はまだ残雪深く、軽装備でしか来なかったもので大清水入口で入山を断念した。
というわけで、この夏尾瀬を再度訪ねることになった。
今回も大清水から尾瀬に入る計画で、最初の宿は尾瀬戸倉の「尾瀬パークホテル」に取った。何時にチェックインできるのかわからないので夕食は予約していなかったが、予定より早く到着したのでさっそく夕食を申し入れた。すぐにはOKは出なかったが、間もなく準備ができたというので食堂に入ると、とんでもない豪華な夕食。シカ刺しに牡丹鍋の小なべ、山菜におでん、そのほかとてもとても食べきれないほどの料理の数々。いくらの夕食だろうと心配になったくらいだ。翌朝チェックアウトする際に宿泊明細を見てびっくり仰天、夕食抜きで予約した料金、いくらだったか、確か8000円足らずといったところだったが、ほとんど変わらずの8000円をわずか出た程度。何か間違いではないだろうかと宿の主人に確認してみると間違いはないという。わからん。神に、いや宿の主人にただ感謝としか言いようがない。
ラッキーと言えば、計画した尾瀬の2泊3日はすべて雨の予報にもかかわらず、どの日も真っ青な青空に夏雲が浮かぶ登山日和。さらに、当初の計画では大清水から尾瀬に入る予定だったが、宿の主人から、大清水からではなく鳩待峠から入山した方がいいですよとアドバイスを受け、結果、これが大正解。大清水に下りてきて感謝、感謝になるわけだ。「先達はあらまほしきこそ」は間違いのない真理であることを実感した。
さて、宿の主人のアドバイス通り、乗り合いタクシーに乗って鳩待峠に向かった。
鳩待峠から尾瀬ヶ原入口の山ノ鼻まで3.3㎞は朝もやが残る林間を下るだけ。ただ先日の豪雨の爪痕があちこちに残っていて、応急処置の木橋や木道がところどころにある。山ノ鼻では鳩待峠でボランティアのガイドから勧めらえた尾瀬研究見本園巡りに加わった。ガイドはボランティアのご夫婦。モウセンコケや池塘(湿原に点在する池)の不思議の説明を受ける。鳩待峠のボランティアガイドといい、ここのご夫妻といい、心のこもったガイドで、これからの尾瀬めぐりがどれだけ楽しくまた心強く思ったことか、本当に尾瀬を愛されている姿に心から感動した。
見本園巡りを終えて、ここからは尾瀬ヶ原のメインコース、牛首分岐、竜宮を通って約6.6㎞、木道をたどる尾瀬ヶ原縦断コースを行く。後に至仏山、前に燧ヶ岳を見ながら湿原に咲く花々、特にこの時期には池塘に咲くヒツジ草(スイレンを小さくしたような花で午後2時(未の刻)に開花するところから由来する名)を求めての遊歩となる。竜宮小屋で昼食。尾瀬パークホテルで作ってくれたおにぎり弁当がまた美味い。ホテルの主人にまたまた感謝。腹ごしらえを終えると再び木道をたどる。道中、清流の橋の影で見かけたイワナ、もう咲ききってクマの大好物になる水芭蕉の実と沼地に残るクマの足跡、緑一色の尾瀬に咲くコオニユリやサワギキョウ、だだっ広い平原にポツン、ポツンと頼りなく立つ白樺の幼木、真夏の太陽も心地よい尾瀬歩きは次の宿、弥四郎小屋まで続いた。




2011年の夏

 
早いものでもう8月も3日になってしまった。
夏と言えば、お盆がピークのような気がするが、いつもの夏のようになんとなく高揚感がわかない。
昨年は酷暑酷暑の夏で、個人的にも健康面で落ち込んだし、いい夏ではなかったが、今年の夏は世の中全体が晴れない雰囲気でいやだ。
一番の原因はなんといっても東北大震災であろう。震度9なんて地震はそう滅多にあるものではない。いまだに時折流れる当時のビデオを見ても、あれはCGとしか思えない。この世の出来事とはとても思えないのだ。その後も日本のあちこちで震度5を越える地震が頻発し、このままではひょっとしたらもっと大きな地震が起こって、日本列島全体が地球規模の地崩れで日本海溝に落ち込んでしまうのではなかろうかと心配になってくる。
大地震そして津波と、これだけでもへこんでしまうことなのに、福島原発事故がいっそうそれに拍車をかけ、今や日本列島全体が放射能汚染で恐怖に慄いている。
腹が立ってしょうがない。地震、津波は人間の力ではどう防ぎようもない。しかし、福島原発事故はそうではないからだ。想定外想定外とよく言われるが、東北地方大地震のマグニチュードは9.0で20世紀以後に起こった地震では世界第6位なのである。マグニチュードは10までを想定されていて、地球規模の地殻変動とか恐竜が絶滅したとされる小惑星衝突による地震はもちろん想定していない。マグニチュード9.0は明らかに想定内だし、9.5の地震が現に起こっているのである。
それが、大地震が起こり、津波が起こり、冷却用の主電源が切れたら稼働するはずの補助電源が津波をもろに受け稼働しなかった。そしてメルトダウンにメルトスルー。チェルノブイリを越える有史上最大規模の原子力事故に。
うん?うん? こんな稚拙な原子力発電所をよくも作ったものだ。こんな事態は想定内と誰も判断できなかったの?人災以外の何物でもない。
金にはならないからと言って日本全土から広葉樹林を駆逐して今や売り物にならず放たらかしのスギ、ヒノキに替え、水防と水資源確保しか目になく作った数多くのダムが海岸線を細め、溜まった土砂で半分もダム機能が果たせなくなったり、全国いたるところに作られた高速道は二酸化炭素と窒素酸化物をまき散らし、スギ花粉と合わさって全国民に花粉症、喘息、ひいては肺がんの増加をもたらし、ゆとり教育で学力差を助長し、また今度は落ち込んだ学力回復のためと教科書の先祖返りをしたり、学級崩壊、先生、生徒の精神障害増加、
いったいこの国の指導者はどこまでのことを考えて国策というものを考えているのだろう。稚拙だ。実に稚拙だ。よって来るものは自己の栄達と保身、その場しのぎの場当たり主義。国の借金900兆円はその象徴だね。
それでも日本は世界でも冠たる地位を築いたじゃないか?
バカ言ってんじゃないよ!
どうしようもない政治家たち、国民の血税に群がる吸血鬼的高級公務員、年収1億円てそれに見合った仕事をしてるの?そんなに価値ある人間なの?と思いたくなる各電力会社やこれに類する会社の役員たち。
こんな穀つぶしどももしょって日本は生きていかなきゃならないんだからたいへんだ。
国民は超一流、政治行政は三流以下って世界が見ているのもむべなるかな。その通りだよ。
東北地方の人たちのがんばり、なでしこジャパンの快挙、それでも今年の夏は気分が重い。

小さな親切

 

今歩いている農道は狭い。曲がりくねった先に白い軽トラが止まっている。気に留めることなく、田んぼの片隅に作ったちょっとしたお花畑を眺め眺めゆっくり歩いていくと、軽トラのエンジン音が聞こえた。ぼくが通り過ぎるのを待っていてくれたんだ。ああ悪いことをしたとお辞儀をして運転席を見ると、麦藁帽にタオルを巻いた農家のおじさんがニコッと笑って挨拶を返してくれた。その笑い顔がいい。たぶんぼくよりは年下であろうに、慈愛溢れたオヤジの顔だ。うれしいねぇ。こんな瞬間の得も言われぬ幸福感。朝一番のこの出来事は一日中余韻を引いた。
昔、東大総長の茅誠治先生が東大の卒業式式辞で卒業生に贈った次の言葉がきっかけになって「小さな親切運動」が日本中に巻き起こったことがある。
「小さな親切」を勇気をもってやっていただきたい。
そしてそれがやがては、日本の社会の隅々まで埋めつくすであろう、
親切という雪崩の芽としていただきたい。
茅先生の言葉を聞いてかどうかは、そして「小さな親切運動」が功を奏してかどうかはともかく、確かに小さな親切に助けられたり、遭遇することはよくある。
車に乗っていて、割り込んでくる車に道を譲ると直後、ハザードランプを点滅させて挨拶する車が最近よくあるが、これだけでも心が和む。言葉を交わさずとも心通わせることができる。
外国人の友人からも、日本人から受けたちょっとした親切がどれだけうれしかったか、よく聞くことがあるし、それを聞かされただけでも心がジーンとなる。
今回の東日本大震災で外国メディアが伝えたに日本人の心の豊かさは、日ごろ培われた「小さな親切」の集大成かもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=zcddMwUvgAU

夏が来れば思い出す

 
初めての本格登山は大学に入って最初の夏だった。
今から思い起こせば無謀極まりない登山で、よく死ななかったものだと思う。
8月だというのに台風が接近していて、名古屋の友人宅で様子見したが一向に動く気配がないのでしびれを切らし、長野県大町から葛温泉に入り、烏帽子岳を目指した。
烏帽子岳の登りは日本3急登の一つの名にたがわず厳しいものだった。5,6時間の奮闘の末たどり着いた烏帽子岳小屋の宿泊登録ができない。住所、生年月日が思い出せないのだ。
翌朝、三俣蓮華から黒部の秘境雲ノ平をめざしたが、体調がすぐれない。何度元の小屋に引返そうかと考えたことか。しかし決断も下せないままただ前進。地図を見ると赤岩岳だったか、途中に山小屋があったので無理をせずそこに泊まろうと歩調も緩めようやく小屋にたどり着いてみると、その小屋はペシャンコ。
これはいかんと当初の三俣小屋を目指すも、折からのどしゃ降り。こんな時、夏山でも発汗による凍死があると聞いていたので、汗をかく動作はできない。右に見えるはずの水晶岳や祖父岳が濃霧で見えない。「雲ノ平」と書いてある道標が下を向いている。完全に道を見失ったのだ。
黒部の源流と思しき清流が水かさを増して濁流になっている。ああ、もうダメかなと、正直このときは思った。しかし前進するしかない。
どこをどうたどったのか、向こうに黄色いテントが見えたときは、これは幻影だ、もうだめだと念押しをしたくらいだ。
日大三高の学生がテントを張っていた。転がり込むように助けを求め、一命を取り留めたわけだ。
翌朝は、昨日の天気がうそのよう。雲一つない快晴。目的地の雲ノ平は昨日の雨で道が寸断されているとのことで断念、双六岳から槍ヶ岳、そして穂高に向かうことにした。
双六岳に着くとまた天候が急転、台風がいよいよ接近し、300人は収容できるという山小屋(小屋かな?)が風でミシミシきしんでいる。夜中には近くのテント場からポールが折れたテントを担いで何組もの登山客が避難してきた。一晩眠れずじまい。
翌日は双六小屋でもう一泊。その晩、残飯をあさりに来たクマを仕留め、初めての熊肉をいただいた。
槍ヶ岳に向かう西鎌尾根は険しかった。台風一過、天気は快晴。岩間から流れ落ちる水は天の恵み、真横で紅雀がぼくを無視して同じように水をすすっている。
槍ヶ岳はお盆ももう過ぎているのに登山客で溢れている。ここでの宿泊は避けて南岳の小屋に向かった。
南岳小屋ではまたまたハプニング。槍ヶ岳の小屋とは大違い。宿泊客は10人いただろうか。夜、東京から来たという女性三人組がぼくのそばで寝さしてくれという。お客が少なくて怖いということだ。女性三人と共寝をしたのは後にも先にもこれだけ。
翌日は最大の難関「大キレット」を越え前穂高、それから奥穂高に向かう。
いたるところにチェーンが張られ、「飛騨泣き」だとか「・・・泣き」という難所が数知れず、右下はるかに新穂高川が糸のようにくねっている。その下からスーッと白い雲が昇ってくる。もう怖いも通り越して、ひたすら次のステップを手探るだけだ。
やっとの思いでたどり着いた前穂高岳の小屋で、一杯50円のお粥のようなカルピスのなんと美味しかったことか。
引くに引けない、次の奥穂高を目指すのみ。
奥穂高のご来光はもう言葉では尽くし難い。
奥穂高からの下りがまたきつい。
眼下すぐ下に涸沢の小屋やテント群を常時見ながらの急坂下りだ。下りても下りても辿り着けない、まるで餌を目の前にぶら下げて歩く犬の心境だ。3時間だろうか4時間だろうか、もう足はピノキオのよう。
われに返ったのは、涸沢の冷たい冷たい水で作った粉末ジュースがのどを通った時だった。

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京都美山を訪ねて

 
琵琶湖の湖西道路(国道161号)の和邇ICから比良山脈を裏にまわると国道376号に出る。京都と福井敦賀を結ぶ道路だ。
そこから寂光院や三千院で有名な大原の里に向けて京都方面に少し進むと正円寺という寺があって、そこの信号を右に入ると京都府道477号に入る。
急坂あり、九十九折りあり、路面こそ舗装はされてはいるがまさに田舎道だ。おそらく都会では気温30度を越しているだろうから24度は涼しい。
百井の集落はまるでタイムスリップしたような集落で、車に乗っている自分がおかしい。
集落の案内板を見ていると腰の曲がった野良着姿のお婆さんが人懐かしそうに近づいてきた。顔はしわくちゃだらけだが、肌がつやつやしている。なんでも右に曲がると行き止まりだそうで「注意しなさいよ」と優しく教えてくれた。
百井峠を越すと花背の里だ。百井の集落よりは開けているが、ここにも日本の原風景が広がっていた。
「京都花背山村都市交流の森」という立派な施設があって、立ち寄ってみると、どこかの中学校が1週間の合宿に来ているということで施設には入れない。
そこから477号を少し進むと「峰定寺」の案内板があったのでその道に折れる。14,5分進むと一席2,3万円というから足もすくむ料亭があって、その先に峰定寺が凛として佇んでいた。「本山修験宗峰定寺」というから、修験者のお寺なんだろう。横を流れる清流にはイワナの群れが遊漁していた。
また477号に帰り、花背中学校前の交差点を右に折れ府道38号に進み佐々里峠を越すと今回の目的地「かやぶきの里」美山北村集落である。
何枚も何枚も写真を撮ったが、満足のいく写真はここでも1枚も取れなかった。015

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子供たちが病んでいるー精神疾患ー

予備校の教師を辞めてからは、もっぱら家庭教師や自宅に呼んでの個人指導という形が多くなったわけだが、そのせいか、程度の差はあれ何らかの精神疾患を抱えている生徒に出会うことが多くなってびっくりしている。
「そのせい」といったのは、こうした精神疾患を抱える生徒はやはり集団指導にはなじめないから個別指導を望むんだろうし、いきおいそうした生徒に出会う確率は高くなるだろうから、この自己体験をもって若者一般に一般化しすぎてはいけないという自重を込めて言ったわけだ。
が、しかし、事情はそうではないようだ。
20代から40代前半の子を持つ友人、知人が多くなったが、そうした友人、知人の中にも精神疾患を抱えた子を持って悩んでいる人が少なからずいるし、各種統計を見ても精神疾患の患者数は確実に増え続けている。
ここでいう精神疾患とは、統合失調症や躁うつ病といった重度のものから、神経症、パニック障害、適応障害といった中、軽度のものまでの様々な疾患を指すわけだが、もっと軽症の睡眠障害だとか、家庭内暴力、イライラ感、いわゆる「キレやすい」まで含めると、心を患っている若者は相当数いるのではないだろうか。
原因をいつも考えるんだが、様々なことが考えられ、これがという決定的な原因があるわけではなく、それらすべてが複合的、重合的に絡み合っているのだろう。
そんな中でも明確に思い当たるのは、今の若者たちの子供時代と我々の子供時代とでは「遊び」の質がまるで違うということだ。
我々の子供のころは、学校が終わると一目散に家に帰り、学校のカバンを家に放りこむのももどかしいくらい、玄関を飛び出すと近所の子らと道いっぱいに広がって遊んだものだ。塾なんてものはないし(あったのかなあ?)、道に車が通るわけでもない、町のいたるところ、ことに道には子供たちがあふれかえっていた。日が暮れるまで、子供たちの声が町中にこだましていた。
女の子のことはよく知らないが、女の子は女の子でいろんな遊びをしていたし、男の子らは、駆逐本艦、探偵ごっこ、缶けり、肉弾戦、蹴球、胴馬、べったんにビー玉、数え上げたらきりがない。ともかくよく遊んだし、喧嘩もした。
そう、玄関を出たすぐ前の道が遊び場だったということが今とは全く違う点だし、おけいこ事、塾なんてのはあったのかなかったのか、そんなことを気にかけている子なんか、知る限り誰もいなかった。
子供たちもそうだったが、大人たちにとっても道は最大の交流の場だった。時には近所同士が大喧嘩していることもあったが、1週間もたてばその喧嘩相手同士が晩のおかずのやり取りをしている。
今はどうだ。道という道は車であふれ、遊ぶどころか歩くのも命がけだ。家にいても外から聞こえてくるのは車のエンジン音と警笛ばかり、子供たちの素っ頓狂な声なんて遠の昔に聞いただけ。
遊びの質が変わったのは、道が変わったからだ。
今や道は子供たちを分断し、家に閉じ込め、唯一「塾」が子供たちの集う場になってしまった。
そしてこの「塾」も大人たちはどう考えているんだろう。
大人たちは週40時間労働が普通になってきているこのご時世に、子供たちの学校や塾そしてお稽古事の拘束時間は週40時間をはるかに超えている。まるで装いだけを明るくした「蟹工船」だ。
社会全体が子供たちを虐待しているという自覚がまるでない。
これでは気が変になるのは当たり前。まっとうな子ほどおかしくなる。
そして、こんな環境でもめげず「勝ち組」になった子供たちの中に、大きくなると、みなさんご存じのとおり、国民の血税にたかる高級官僚や、「国民の皆様」、「国民の皆様」とやたら偽善者ぶる政治家が多く生まれる。
道の機能が変わり遊びの場が変わったことが、遊びの質を変え子供たちの生活を変え、心に傷を負う子供たちも増えた。これもまた一因だろう。
明日は、「双極性Ⅱ型」とへぼ心療内科で診断された生徒の進路相談に乗ることになっている。

原子力発電

★☆★ 原子力事故の検証 ★☆★

原子の姿をとらえておよそ100年、原子爆弾を作り、平和利用にと原子力発電を生み出し、その恩恵に浴してきて、今そのずさんな管理が未曾有の原子力災害に直面している。
原子力発電を継続利用するか、それともそれを廃棄し、新たな自然エネルギーによる電力確保を目指すのか、日本はもちろん世界はその選択を迫られている。
そもそも原子力発電を目指したのは、水力発電にはその開発に莫大な費用が掛かり、地形的にも、比較的恵まれている日本でもその開発の数には限界があり、それに代わる火力発電は当初は原油価格も安く設備費用も水力発電に比べればはるかに安いというメリットがあったが、その後原油の値段も高騰し、いつかそうした化石燃料は枯渇する、さらに地球温暖化の元凶である二酸化炭素を排出する、それやこれやのことを考えた末行き着いたのが原子力発電である。
今や、世界にある原子力発電所の数は500か所を優に超え、30か国を超える国で稼働していて、アメリカだけでも104基、日本は55基でフランスの59基に次いで世界第3位、さらにアメリカでは30基、日本で20基の新たな建設を予定しているのが現状だ。
そして中国をはじめとする発展途上国にとっては原子力発電こそ国家発展の基礎エネルギーととらえられ、ますますその数は、たとえ今回の原発事故があったにしても、増えていくだろうと予測されている。
この世界的趨勢を見るとき、はたして今、我が国だけが原子力発電を廃棄できるのか、廃棄していいのか、それに代わる代替エネルギーを創り出し、世界の潮流を変えることができるのか、電気なしの生活は考えらられないし、経済的基盤は大丈夫なのか、国際社会で生き残れるのか、とふと疑問になる。
太陽光発電をはじめ様々な自然エネルギーが考え出され、現に稼働していて日本は世界でもトップレベルにはあるが、現状ではとてもとても原子力エネルギーに代わるものではない。
1979年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、我が国では1999年の東海村などをはじめ世界で原子力事故は多数起こってきた。その都度、原子力に対する恐怖は増しはしたが同時に原子力発電所の数はうなぎのぼりになっている。
理想を語るのはやさしく、勇ましい。
原子力利用の夢を語るなら、今の原子力エネルギーは「核分裂」によりそのエネルギーを取り出しているのだが、「核融合」からエネルギーを取り出せるなら、今のような放射能汚染はない。自然エネルギーを利用するよりもクリーンかもしれない。しかも今よりもっと大きなエネルギーを取り出せるのだ。
「核融合」を利用した原子力発電はまだまだ先のことだが、「核」にたいしてただ恐怖するだけでなく絶え間ない研究と努力を続けるならば、今の原子力発電を自然エネルギーによる発電に切り替えるよりは早いかもしれない。
今回の福島原発事故はあまりにもずさんな一部の人たちの原子力管理に起因している。
原子力発電を止めるべきではない。できる限りの自然エネルギーも取り入れよう。せっかく手に入れた人類の叡智をむざむざ放棄せず、叡智を叡智として謙虚に享受し、自然に対する畏敬を深めるなら、今回の困難も乗り越えることができると思う。
これがぼくの行き着いた意見である。