初めての本格登山は大学に入って最初の夏だった。
今から思い起こせば無謀極まりない登山で、よく死ななかったものだと思う。
8月だというのに台風が接近していて、名古屋の友人宅で様子見したが一向に動く気配がないのでしびれを切らし、長野県大町から葛温泉に入り、烏帽子岳を目指した。
烏帽子岳の登りは日本3急登の一つの名にたがわず厳しいものだった。5,6時間の奮闘の末たどり着いた烏帽子岳小屋の宿泊登録ができない。住所、生年月日が思い出せないのだ。
翌朝、三俣蓮華から黒部の秘境雲ノ平をめざしたが、体調がすぐれない。何度元の小屋に引返そうかと考えたことか。しかし決断も下せないままただ前進。地図を見ると赤岩岳だったか、途中に山小屋があったので無理をせずそこに泊まろうと歩調も緩めようやく小屋にたどり着いてみると、その小屋はペシャンコ。
これはいかんと当初の三俣小屋を目指すも、折からのどしゃ降り。こんな時、夏山でも発汗による凍死があると聞いていたので、汗をかく動作はできない。右に見えるはずの水晶岳や祖父岳が濃霧で見えない。「雲ノ平」と書いてある道標が下を向いている。完全に道を見失ったのだ。
黒部の源流と思しき清流が水かさを増して濁流になっている。ああ、もうダメかなと、正直このときは思った。しかし前進するしかない。
どこをどうたどったのか、向こうに黄色いテントが見えたときは、これは幻影だ、もうだめだと念押しをしたくらいだ。
日大三高の学生がテントを張っていた。転がり込むように助けを求め、一命を取り留めたわけだ。
翌朝は、昨日の天気がうそのよう。雲一つない快晴。目的地の雲ノ平は昨日の雨で道が寸断されているとのことで断念、双六岳から槍ヶ岳、そして穂高に向かうことにした。
双六岳に着くとまた天候が急転、台風がいよいよ接近し、300人は収容できるという山小屋(小屋かな?)が風でミシミシきしんでいる。夜中には近くのテント場からポールが折れたテントを担いで何組もの登山客が避難してきた。一晩眠れずじまい。
翌日は双六小屋でもう一泊。その晩、残飯をあさりに来たクマを仕留め、初めての熊肉をいただいた。
槍ヶ岳に向かう西鎌尾根は険しかった。台風一過、天気は快晴。岩間から流れ落ちる水は天の恵み、真横で紅雀がぼくを無視して同じように水をすすっている。
槍ヶ岳はお盆ももう過ぎているのに登山客で溢れている。ここでの宿泊は避けて南岳の小屋に向かった。
南岳小屋ではまたまたハプニング。槍ヶ岳の小屋とは大違い。宿泊客は10人いただろうか。夜、東京から来たという女性三人組がぼくのそばで寝さしてくれという。お客が少なくて怖いということだ。女性三人と共寝をしたのは後にも先にもこれだけ。
翌日は最大の難関「大キレット」を越え前穂高、それから奥穂高に向かう。
いたるところにチェーンが張られ、「飛騨泣き」だとか「・・・泣き」という難所が数知れず、右下はるかに新穂高川が糸のようにくねっている。その下からスーッと白い雲が昇ってくる。もう怖いも通り越して、ひたすら次のステップを手探るだけだ。
やっとの思いでたどり着いた前穂高岳の小屋で、一杯50円のお粥のようなカルピスのなんと美味しかったことか。
引くに引けない、次の奥穂高を目指すのみ。
奥穂高のご来光はもう言葉では尽くし難い。
奥穂高からの下りがまたきつい。
眼下すぐ下に涸沢の小屋やテント群を常時見ながらの急坂下りだ。下りても下りても辿り着けない、まるで餌を目の前にぶら下げて歩く犬の心境だ。3時間だろうか4時間だろうか、もう足はピノキオのよう。
われに返ったのは、涸沢の冷たい冷たい水で作った粉末ジュースがのどを通った時だった。
京都美山を訪ねて
琵琶湖の湖西道路(国道161号)の和邇ICから比良山脈を裏にまわると国道376号に出る。京都と福井敦賀を結ぶ道路だ。
そこから寂光院や三千院で有名な大原の里に向けて京都方面に少し進むと正円寺という寺があって、そこの信号を右に入ると京都府道477号に入る。
急坂あり、九十九折りあり、路面こそ舗装はされてはいるがまさに田舎道だ。おそらく都会では気温30度を越しているだろうから24度は涼しい。
百井の集落はまるでタイムスリップしたような集落で、車に乗っている自分がおかしい。
集落の案内板を見ていると腰の曲がった野良着姿のお婆さんが人懐かしそうに近づいてきた。顔はしわくちゃだらけだが、肌がつやつやしている。なんでも右に曲がると行き止まりだそうで「注意しなさいよ」と優しく教えてくれた。
百井峠を越すと花背の里だ。百井の集落よりは開けているが、ここにも日本の原風景が広がっていた。
「京都花背山村都市交流の森」という立派な施設があって、立ち寄ってみると、どこかの中学校が1週間の合宿に来ているということで施設には入れない。
そこから477号を少し進むと「峰定寺」の案内板があったのでその道に折れる。14,5分進むと一席2,3万円というから足もすくむ料亭があって、その先に峰定寺が凛として佇んでいた。「本山修験宗峰定寺」というから、修験者のお寺なんだろう。横を流れる清流にはイワナの群れが遊漁していた。
また477号に帰り、花背中学校前の交差点を右に折れ府道38号に進み佐々里峠を越すと今回の目的地「かやぶきの里」美山北村集落である。
何枚も何枚も写真を撮ったが、満足のいく写真はここでも1枚も取れなかった。
子供たちが病んでいるー精神疾患ー
予備校の教師を辞めてからは、もっぱら家庭教師や自宅に呼んでの個人指導という形が多くなったわけだが、そのせいか、程度の差はあれ何らかの精神疾患を抱えている生徒に出会うことが多くなってびっくりしている。
「そのせい」といったのは、こうした精神疾患を抱える生徒はやはり集団指導にはなじめないから個別指導を望むんだろうし、いきおいそうした生徒に出会う確率は高くなるだろうから、この自己体験をもって若者一般に一般化しすぎてはいけないという自重を込めて言ったわけだ。
が、しかし、事情はそうではないようだ。
20代から40代前半の子を持つ友人、知人が多くなったが、そうした友人、知人の中にも精神疾患を抱えた子を持って悩んでいる人が少なからずいるし、各種統計を見ても精神疾患の患者数は確実に増え続けている。
ここでいう精神疾患とは、統合失調症や躁うつ病といった重度のものから、神経症、パニック障害、適応障害といった中、軽度のものまでの様々な疾患を指すわけだが、もっと軽症の睡眠障害だとか、家庭内暴力、イライラ感、いわゆる「キレやすい」まで含めると、心を患っている若者は相当数いるのではないだろうか。
原因をいつも考えるんだが、様々なことが考えられ、これがという決定的な原因があるわけではなく、それらすべてが複合的、重合的に絡み合っているのだろう。
そんな中でも明確に思い当たるのは、今の若者たちの子供時代と我々の子供時代とでは「遊び」の質がまるで違うということだ。
我々の子供のころは、学校が終わると一目散に家に帰り、学校のカバンを家に放りこむのももどかしいくらい、玄関を飛び出すと近所の子らと道いっぱいに広がって遊んだものだ。塾なんてものはないし(あったのかなあ?)、道に車が通るわけでもない、町のいたるところ、ことに道には子供たちがあふれかえっていた。日が暮れるまで、子供たちの声が町中にこだましていた。
女の子のことはよく知らないが、女の子は女の子でいろんな遊びをしていたし、男の子らは、駆逐本艦、探偵ごっこ、缶けり、肉弾戦、蹴球、胴馬、べったんにビー玉、数え上げたらきりがない。ともかくよく遊んだし、喧嘩もした。
そう、玄関を出たすぐ前の道が遊び場だったということが今とは全く違う点だし、おけいこ事、塾なんてのはあったのかなかったのか、そんなことを気にかけている子なんか、知る限り誰もいなかった。
子供たちもそうだったが、大人たちにとっても道は最大の交流の場だった。時には近所同士が大喧嘩していることもあったが、1週間もたてばその喧嘩相手同士が晩のおかずのやり取りをしている。
今はどうだ。道という道は車であふれ、遊ぶどころか歩くのも命がけだ。家にいても外から聞こえてくるのは車のエンジン音と警笛ばかり、子供たちの素っ頓狂な声なんて遠の昔に聞いただけ。
遊びの質が変わったのは、道が変わったからだ。
今や道は子供たちを分断し、家に閉じ込め、唯一「塾」が子供たちの集う場になってしまった。
そしてこの「塾」も大人たちはどう考えているんだろう。
大人たちは週40時間労働が普通になってきているこのご時世に、子供たちの学校や塾そしてお稽古事の拘束時間は週40時間をはるかに超えている。まるで装いだけを明るくした「蟹工船」だ。
社会全体が子供たちを虐待しているという自覚がまるでない。
これでは気が変になるのは当たり前。まっとうな子ほどおかしくなる。
そして、こんな環境でもめげず「勝ち組」になった子供たちの中に、大きくなると、みなさんご存じのとおり、国民の血税にたかる高級官僚や、「国民の皆様」、「国民の皆様」とやたら偽善者ぶる政治家が多く生まれる。
道の機能が変わり遊びの場が変わったことが、遊びの質を変え子供たちの生活を変え、心に傷を負う子供たちも増えた。これもまた一因だろう。
明日は、「双極性Ⅱ型」とへぼ心療内科で診断された生徒の進路相談に乗ることになっている。
原子力発電
★☆★ 原子力事故の検証 ★☆★
原子の姿をとらえておよそ100年、原子爆弾を作り、平和利用にと原子力発電を生み出し、その恩恵に浴してきて、今そのずさんな管理が未曾有の原子力災害に直面している。
原子力発電を継続利用するか、それともそれを廃棄し、新たな自然エネルギーによる電力確保を目指すのか、日本はもちろん世界はその選択を迫られている。
そもそも原子力発電を目指したのは、水力発電にはその開発に莫大な費用が掛かり、地形的にも、比較的恵まれている日本でもその開発の数には限界があり、それに代わる火力発電は当初は原油価格も安く設備費用も水力発電に比べればはるかに安いというメリットがあったが、その後原油の値段も高騰し、いつかそうした化石燃料は枯渇する、さらに地球温暖化の元凶である二酸化炭素を排出する、それやこれやのことを考えた末行き着いたのが原子力発電である。
今や、世界にある原子力発電所の数は500か所を優に超え、30か国を超える国で稼働していて、アメリカだけでも104基、日本は55基でフランスの59基に次いで世界第3位、さらにアメリカでは30基、日本で20基の新たな建設を予定しているのが現状だ。
そして中国をはじめとする発展途上国にとっては原子力発電こそ国家発展の基礎エネルギーととらえられ、ますますその数は、たとえ今回の原発事故があったにしても、増えていくだろうと予測されている。
この世界的趨勢を見るとき、はたして今、我が国だけが原子力発電を廃棄できるのか、廃棄していいのか、それに代わる代替エネルギーを創り出し、世界の潮流を変えることができるのか、電気なしの生活は考えらられないし、経済的基盤は大丈夫なのか、国際社会で生き残れるのか、とふと疑問になる。
太陽光発電をはじめ様々な自然エネルギーが考え出され、現に稼働していて日本は世界でもトップレベルにはあるが、現状ではとてもとても原子力エネルギーに代わるものではない。
1979年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、我が国では1999年の東海村などをはじめ世界で原子力事故は多数起こってきた。その都度、原子力に対する恐怖は増しはしたが同時に原子力発電所の数はうなぎのぼりになっている。
理想を語るのはやさしく、勇ましい。
原子力利用の夢を語るなら、今の原子力エネルギーは「核分裂」によりそのエネルギーを取り出しているのだが、「核融合」からエネルギーを取り出せるなら、今のような放射能汚染はない。自然エネルギーを利用するよりもクリーンかもしれない。しかも今よりもっと大きなエネルギーを取り出せるのだ。
「核融合」を利用した原子力発電はまだまだ先のことだが、「核」にたいしてただ恐怖するだけでなく絶え間ない研究と努力を続けるならば、今の原子力発電を自然エネルギーによる発電に切り替えるよりは早いかもしれない。
今回の福島原発事故はあまりにもずさんな一部の人たちの原子力管理に起因している。
原子力発電を止めるべきではない。できる限りの自然エネルギーも取り入れよう。せっかく手に入れた人類の叡智をむざむざ放棄せず、叡智を叡智として謙虚に享受し、自然に対する畏敬を深めるなら、今回の困難も乗り越えることができると思う。
これがぼくの行き着いた意見である。
やはり野に置け蓮華草
野に咲く花が美しい。
絢爛豪華な桜もしづ心なく散ってしまうと、人の心も花から遠のき、趣味ある人だけがバラ園に出かけたり、花菖蒲や紫陽花を求めて愛でるだけである。
そんな中、近くの田んぼを散策すると、人目をはばかるように楚々として咲く野草がつとに美しい。地べたに這いつくばるように咲く色とりどりの花、ひゅるひゅると精一杯に背伸びした先に何とも愛らしい花を咲かせている草花、群れて咲く花もあれば、ポツンと咲く花もある。
その美しさと愛らしさについ写真に収めたくなるのだが、どう撮ってもその美しさと愛らしさが撮りきれない。遠くから撮ると花が小さすぎ、さればと言って接写しても野の花の趣をなくす。最後にはあきらめてカメラをしょい、もういちど周りの風景の中で見直すと、またなんとこれが美しいことか。
いちどは、園芸用のシャベルで掘り起し、家に持ち帰って菜園のわきに植えてみたが、まったく生気なくし萎れてしまった。
野の花は構われたくないんだ。慈しんでもらうことはこれっぽっちも期待していないんだ。春が来て、土のぬくもりを信じて芽を出し、花を咲かせ、命を次に託すと枯れていく。命あるものがすべてそうであるように、こうして転生輪廻を繰り返していく、その一瞬にたまたまぼくの目に留まり、ぼくにこんな感動を呼び起こす。究極の片思いというやつだ。
いま人は、あの大震災で多くの命をなくし、生きながらえたものは明日の命をつなぐため、がれきを整理し、塩を含んだ土に苗を植え、人からもらった船で漁に繰り出し、精一杯生きようとしている。ひょっとしたら、おてんとうさまは、ぼくが野の花を見ているように、ぼくたち人を見ているのかもしれない。
力ある人たちよ、どうかそんな人たちのために、我欲は捨て、おのが同道者のために、天命に従ってくれるよう。
Twitter(ツイッター)
知り合いに誘われたり、お付き合いでたまにカラオケに行ったり、したりすることがある。そこでいつも思うことだが、自分も含め、まあ人の歌を聞いていない。次の選曲に忙しいということもあるが、人が歌っていてもわれ関せず、お愛想に拍手したり、ほめたりもするが、心のこもったものではない。ただ自分の歌に酔いしれ、歌いそしてみんながそれで満足し、心満たされ散会ということになるのである。
今やだれ知らぬものはないツイッター(Twitter)もそう。Twitterとは、140文字で「いま、何してる?」を書き込むコミュニケーションサービスであるが、日本では「つぶやき」と訳され、問わず語り、特定の誰かに語るのではなく、「今お昼ごはん中」とか、「眠たいよー」とか、だらだらと自分の今を書き込んでいく、まさしく「つぶやく」のである。
ホームページ、掲示板、ブログなどなど、インターネット上には今やごまんの語らいの手段があって、誰かに何かを語りたい、伝えたい、訴えたい、知ってほしいという願望があるが、ただ「つぶやく」だけがコミュニケーションになっているのだから、いったい「コミュニケーション」てなんなの?と首をかしげたくなる。
しかしコミュニケーションになっているである。今やツイートする回数は世界トータルで多いときには1日7000万回は優に超え、これまでの総投稿数が2010年8月時点で250億回というから恐るべし。政治家はすすんでツイートし、企業は宣伝にこれ務め、衆目を集めなければ成り立たない生業(なりわい)者はいまやツイートなしでは夜も眠れない脅迫にさらされている。中東の政治状況を変えつつあるのもtwitterとまで言われるからなおさらだ。
しかし、しかし、やはりTwitterの本質は、「おなかが痛いよー」、「電気つかないよ?」、「洗濯もの乾いたわ」、「バカな政治家に日本を任せるかぁ!」・・・。みんな腹蔵なく吐き出したいことがいっぱいあるんだ。聞く者あればなお良し、聞く者なくとも吐き出すだけで満足。
政治家も企業家も、エンタテーナーも、みんながブツクサ言って生きる証としているのがTwitter。究極のコミュニケーションと言われるゆえんである。
自由、平等、博愛
今回の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)は今の日本を様々な側面からあぶりだしている。
3万人にも及ぶ死者、行方不明者を出したのは痛ましい限りだが、その後に展開された被災地を中心にした人間のドラマには数えきれないくらいの感動を多くの人々の胸に刻み込んだ。一言で集約するとしたら「友愛(博愛)」の精神である。譲り合い、助け合い、奉仕に徹する姿は震災直後から世界の注目をひき、驚嘆と感動の言葉が日本に向けられた。
思うに、こうした友愛の精神は日本人の本質的な部分で、何も今更のことではなく、伝統的に育まれてきた資質である。近代国家が、フランス革命が旗印にした「自由、平等、博愛(友愛)」をベースにして発展してきたことは間違いなく、自由は資本主義思想を生み出し、平等は共産主義思想を導き出し、20世紀はその思想が国家形態として具現化され、せめぎ合い、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経ることによって、現代に至っているわけだが、日本の近代化は世界でも特異な形で発展してきた。なるほど資本主義には傾斜した国家形態ではあるが、今やもっとも社会主義的傾向の強い資本主義国家だとも言われている。明治維新、第二次世界大戦を経て、自由は世界的に見てもかなりの部分実現されているし、平等にしても、世界的には比較的実現されてはいるだろう。
この特異性の原点は、日本人の特質である「友愛」精神であるに違いない。極東の、西洋社会からは最も離れた位置に位置する地政学的な点から育まれたのか、地震あり、台風あり、水害あり、しかし緑豊かな湿潤でマイルドな自然がそういう日本人に育てたのか、ともかく近代国家日本を形作ってきたのは日本人の「友愛」精神なのであり、はしなくも今回の大震災でこの精神がいかんなく発揮されたわけだ。
しかしその後の展開、ことに福島の原発問題は日本のもしくは日本人の負の局面をあぶりだした。
「国民は超一流、政治・行政は三流」と揶揄した外国新聞があったが、まさにその通りで、今回の原発問題は多くの部分人災である。
非常電源を津波に備えて高所に設置すべきところを経済的理由で地下に設置したこと、原子炉冷却に早く海水導入に踏み切っていればこれほどの被害をもたらさなかっただろうに、これも廃炉を恐れて踏み切らなかったというまたまた経済第一主義の発想など、東京電力の責任はあまりにも重大だが、国難に匹敵する重大性に気づかず指導力を発揮できなかった政府の危機管理能力にも重大な責任がある。
そしてその責任の取り方とこれもはしなくも露呈した、日本は果たして平等社会かという疑問。
東電の社長・会長は当初責任を取って報酬の50%削減をはじめ、役員の相当の減額を申し出たが、その後の批判もあって、社長を含む代表役員は当面無報酬、その他役員、管理職は相当の減額を申し入れたが、その役員たちの50%削減額でなんと年俸3600万円というから、平時の報酬額は推して知るべし。はたしてどういう能力があって、そしてその能力が発揮されてその報酬なんだと聞きたくなる。こから先何兆円とも何十兆円とも言われる負債を結局は国民に背負わせて、しかもその報酬?どういう算定なんだいとも聞きたくなる。
友愛はほぼ満点、自由はまあまあ及第点、さて問題は平等だ。この実現が一番難しい。何が平等か、どうすれば平等社会が実現するか、友愛と自由は進化していく可能性は大きいが、平等はいつの時代も不平等に拡大していく傾向がある。今の日本は不平等、経済格差がますます拡大しつつある。
結局は平等社会を実現するにもその都度その都度世直し、歴史的な言葉でいえば「革命」がいるのかな。
春嵐
さくら、さくら
今年もまた桜に酔いしれた。大阪は岸和田、梅の花がまだ散りやらぬ三月下旬、近くの桜はまだつぼみのままなのに、早朝散歩の途中にある氏神さん境内のたった一本の桜だけが花開いた。開花間近しのお告げである。間近しどころか、数日後にはあわただしくもあたりの桜が一斉に咲き始めた。まったくあっという間だ。
四月二日夜更け、京都高野川を通りかかると、もう満開の桜があたりの明かりを寄せ集めたかのように頭上に咲き乱れている。昼は通りがかりの車が徐行運転するもので大渋滞が起こるそうだ。
翌々朝、志賀からの帰り道、京都大原はまださすがにつぼみも堅い。京都府立植物園にも寄ってみた。枝垂桜だけが満開だ。気温も急に上昇してきた。この分では週末はもう満開だと予想したら、全くその通り。九日十日はもうどこを見ても桜、桜、桜、今年の桜は全く豊満だ。枝もたわわとはこのことで、多分、去年の酷暑を凌いだ勢いが今年こうして花開いたのだろう。
四月十日、京都宝ヶ池を何十年かぶりで訪ねてみた。やはり桜を尋ねてだ。案にたがわずもう花も盛りで、大勢の人が訪れていて、あっちこっちで酒盛りをするもの、ロックを踊っている若者の集団、静かに池の周囲を散策する二人連れ、皆が桜に酔いしれている。
夕刻、少し疲れた。静寂を求めて曼殊院に向かう。桜もさることながら、ここのつつじが美しい。遠くに桜を置いて手前のつつじが映えている。黄色のアカシアとレンギョウ、紫こぶしが心をいやす。
そして日をかえて竜安寺。石庭の向こうに立つ一本の枝垂桜が印象的で、皆が手前の縁側で見とれて腰を上げない。境内はここも桜桜だ。
この先もしばらく遅咲きの桜を尋ねることになりそうだ。
狐の嫁入り
畑仕事を終え、いったん家に帰って大好きなアップルパイとコーヒで一息ついで、さてさて、汗ばんだことだし、近くの温泉でひと風呂浴びようかと外に出ると、まぶしいくらい日がさしているのに大粒の雨が降っている。
狐の嫁入りだ。
いつまでも寒い寒いと言っている間に桜の花が咲き、そしてあわただしく散っていき、今はもうほとんど葉桜になっている。
温泉に向かう山向こうには今年はコブシがあっちこっちに群れ咲き、遠くから見ると桜と見まがうばかりだが、そのコブシも純白を緑に染め始めていて、季節の移り変わりのなんと早いことか。
驟雨とは夏の季語だそうだが、もう夏の訪れかもしれない。
そんな驟雨も止み、道を右にカーブを切ると、明るく輝く琵琶湖が見えた。
なんとなんとその琵琶湖のこちらから向こうの対岸に大きな虹がかかっている。
上り口と下り口がはっきり見える見事な虹だ。
思い出した。
狐の嫁入りの美しい伝承がある。
確か長野地方の言い伝えだったと思うが、狐は天気雨にかかる虹の橋を渡ってお嫁に行くそうだ。
ほんとにそうかもしれない。この虹の橋ならきっと渡って行けそうだ。
おーい、幸せになるんだぞ。