東日本大震災に思う

3月11日金曜日午後2時半過ぎ、ちょうど車に乗っていた。突然カーラジオから地震警報のアラームが鳴り、揺れの大きな地震が来る、津波の恐れがあるから早く避難するようにとのこと。間もなく帰宅してテレビをつけると、東北地方沖を震源とするマグニチュード8.8の大地震が発生し、6mを超える津波が押し寄せる可能性があるという。のちにはマグニチュード9.0で津波は10mを優に超えるところがいたる所にあったわけだから、まさに想定を超える大震災であったわけだ。何十台もの車を巨大な洗濯機で洗うかのような光景や、家が次から次と列をなして流れ出す光景を目の当たりにして、まるで災害映画のCGを見ているかのようだった。
あれから3週間、事態が明るくなればなるほど災害の様相ははるかに深刻で、かねてから懸念されていた原発がその深刻さにいっそう拍車をかけている。こうした事態ははたしてすべて今回の地震が想定外だったことによるものだろうか。
地球上における地震の最大値はマグチュード10とされ、現実に起こった地震ではチリ地震のマグニチュード9.5が過去最大のものである。としたら、少なくともこのマグニチュード9.5には対応できる防備と災害時の対策は立てておかねばならなかったし、地震大国日本はマグニチュード10にも耐えるだけの備えをしておいても過ぎることはない。今回の震災でも、家屋にしろ原発にしろ地震には結構耐えられたが、津波が決定的な打撃を与えた。福島原発がここまで深刻な状態に陥っているのも、肝心かなめの冷却装置が電源を断たれたことによるもので、緊急時の補助電源が地下にあったために津波で水没し機能しなくなったことによる。主電源が断たれたときに機能するはずの補助電源がどういう事態に備えて設置されていたのか。太平洋に面した海岸淵に設置された原発が全く津波を予想していなかったとしか思えない杜撰さだ。さらに驚くべきことは、地震と津波による原発の損傷が早くから懸念され、海水による冷却が進言されたにもかかわらず、海水注入が原子炉廃棄を意味することからその経済的損失を回避することに重点が置かれ、すべてが後手後手に回ったことが、その後の事態を最悪なものにしたということだ。
死亡者と行方不明者を加えると3万人を超えると思われる今回の東日本大震災は、またまた自然の驚異とそれに対する人知の浅はかさを知らしめたわけだが、一方、人知の浅はかさを自覚させ警鐘を打ち鳴らしただけでなく、人の善なる面が凝集され、被災地のみならず、日本全土に、さらに全世界に波及したことはせめてもの救いであり、逆に言えば、いつもこれだけの犠牲を払わねば自省もなければ、ともすれば忘れがちになる人を思いやる心も思い起こせない日常に深く思いを致さねばならない。

金閣寺で感じた日本人のつつましさ

 
以下は中国のブログに掲載された記事をポータルサイト「サーチナ」(http://searchina.ne.jp/)が紹介したものである。


「金閣寺で感じた日本人のつつましさ」
2月20日、われわれは京都の有名な金閣寺を訪れた際、思いがけず日本文化の洗礼を受けることとなった。
金閣寺境内を5分間ほど歩いていくと、鏡湖池に浮かんでいるかのような舎利殿が見えた。舎利殿は金箔の飾りのなかに、高貴さと謙虚さ、さらに一種のつましさを持ち合わせ、安っぽい派手やかさや横暴さなどは一切感じられなかった。それは、私に自然と日本人特有のつつましい性格を連想させた。
実を言えば、私は日本に来る前、日本に対して少し偏見を持っていた。しかし、日本人とじかに触れ合い友達になってみると、この民族独特の穏やかさに気付かされた。日常生活の中で人に会えばお辞儀するのは、単なる礼儀作法というだけではなく、そこには心からの相手への尊敬と感謝が含まれている。彼らは水のように静かに、そして穏やかに他人のそばを流れ去り、できるだけ相手に迷惑をかけまいと生きている。私は、疾風や暴雨によってしか彼らの心を動かすことはできないのではないかと思う。
人の流れに沿って境内の奥へ進んでいくと、書院の傍らにある小山が目に止まった。そこからは夕佳亭の一角を望むことができ、立派な松の老木が数本並び、地面の苔はみずみずしい緑色から少しずつ鮮やかな黄緑色に姿を変える絨毯(じゅうたん)のように山一面をおおっている。そこに蕾(つぼみ)をつけた1本の桜が、着物をまとった少女が凛(りん)として佇(たたず)んでいるかのごとく、心地よいアクセントとなっていた。
中国の建築物とは異なり、ここには延々と連なる長廊もなければ軒先の立派な彫刻もない。境内にある舎利殿以外の建築物は、そのほとんどが原木色か茶褐色で、その素朴な色合いが周囲の多彩な植物に調和し、一体化することで、独特の文化的格調と品位を体現している。これほどまでに完璧な配置は、人としての修養を高めるのに最適な場所であり、同時に日本人のつつましさを体現しているといえる。
この美しい境内には、仏法の尊厳はもちろんだが、それよりも心地よい調和的な雰囲気が多く漂っているように感じる。ここから日本人の美への追求や、その心の奥底が垣間見えるような気がした


日本人として何とも心地よい記事である。と同時に感心させられたのは、この筆者の感性と教養の高さとそして文章力である。金閣寺を訪れる日本人の何人がこれだけの観察力と感受性を持ってこの景観を伝えられるであろうか。
中国と日本といえば、最近は、GDPがどうだとか、やれ尖閣問題だとか、まるで醜女(ぶおんな)が、いや醜男(ぶおとこ)でもいいんだが、お互い妍(けん)を競うような話題ばかりが多いなか、どちらの国にも市井にはこうした共通の感性と教養を持った人たちがたくさんいることを忘れてはならない。ぼくが知る中国の友人にもそんな人たちがたくさんいるし、中国でもそんな人たちにたくさん出くわした。
覇権を争い、経済力を競うのも避けがたい人間の業であり、国と国、民族と民族がそのためにぶつかり、殺りくを繰り返してきているわけだが、できることなら、お互いの文化を知り、尊敬しあい、平和の中に最高の価値を見出す人たちの多くならんことを願いたい。

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中国のコメ10%がカドミウム汚染

南京農業大学の潘根興(パン・ゲンシン)教授が率いる調査チームが2007年に中国の全国6地域の主要都市・県で売られている91種類のコメの安全検査を実施したところ、10%前後の基準値を超えるカドミウムが検出された、と中国のウェブサイト財新網が14日報じたそうだ。
カドミウムといえば、1968年日本の公害病第1号として認定されたイタイイタイ病の原因となった重金属で、イタイイタイ病は水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくとともに日本の4大公害病といわれ、学校の教科書にも載っている。
日本の場合もそうだったが、カドミウム汚染は酸性土壌で起こりやすく、中国全域がもともと酸性土壌なうえ、近年の度重なる環境汚染により土壌はいっそう酸性化しているのが実態だそうだから怖い。
人口もそうだが中国の10%は桁が違う。中国のコメの年間消費量は約2億トンだから、その10%といえば2000万トン。日本の年間コメ消費量は今や1000万トンを割り込んで900万トンくらいだから、中国のカドミウム汚染米は日本の年間消費量の実に2倍強ということになる。この汚染米を食したからと言って全員イタイイタイ病にかかるわけではないが、日本のイタイイタイ病発症者をはるかに上回ることは目に見えている。
さらに恐ろしいのは、中国ではこうした土壌汚染地域に作付するのを規制する法律がないことだそうだ。
流通米に関する罰則はあるから大都市圏では規制されても、貧困な農村やその周辺の中小都市圏では経済的理由から汚染米も食せざるを得ない状況にある。
昨年だったか一昨年だったか、アメリカやオーストラリアで、子供の玩具からカドミウムが検出されて国際問題になったこともある。
カドミウムに限らず、中国の環境対策に関してはもう手の付けようがないほどだ。無政府状態だ。
2,3%の富裕層が国家資産の70%、80%を保有する中国に人権はない。拝金主義に凝り固まった一部特権階級はますます富を蓄積独占し、エジプトで起こったムバラク追放のニュースを流さないどころか、「ムバラク」の検索さえできないよう情報操作をする政府は、いったい中華人民共和国を名乗るに値する政府なのか、隣人として座視することはできない。  

円形脱毛

先日散髪屋に行った時のこと。散髪が終わると散髪屋さんが頭の後ろを鏡に映しだして仕上がり具合を見せてくれるのだが、あれっ、後頭部の下に丸くきれいに白髪になっているところがある。
それ何?と聞いたら、円形脱毛の跡だという。
ええっ!円形脱毛? 円形脱毛と言ったら強いストレスが原因でできるということを聞いていたんで、とっさに、円形脱毛ができるほど強いストレスを感じていたのはいつのことだろう、何だろうと振り返るものの、これといって思い当たることがない。
というよりも、あれかな?これかな?と強いて思い出せばないことはない。結構あるんだが、これだという決定的なものはない。
そういえば、5,6年前に十二指腸潰瘍を患い、その1年後に再発し、昨年は3度目の再発。たまりかねてそれまでアレルギー懸念で見送っていたピロリ菌除去にも挑み今日に至っているわけだが、十二指腸潰瘍もストレスが原因だとか。
円形脱毛にしても十二指腸潰瘍にしても、どちらかといえば若い人や働き盛りの人が多くかかるというから、俺って、ひょっとしたらまだまだ若いんだとか、能天気と思っていたんだがけっこう神経質だったんかなとか、自惚れともつかない自己判断は置くとしても、やはり客観的にはストレスにさいなまれていたわけだ。

このストレスという言葉、自律神経失調という言葉と同じで、実に都合よく使われ、体のどこかが悪いとか、心に何か不調があるときに、その原因が具体的に特定できなければ、その原因の持っていきどころとして医者でさえ安易に使い、患者も医者からそういわれれば納得してしまう呪文のような言葉だ。
ストレスという言葉はもちろん英語のstressからきた言葉で、もとは言葉に強勢を付けるという意味でアクセントをつけるという意味なんだが、転じて心の緊張とか圧迫という意味でよく使われる。
心に緊張が続けば胃腸や脳や心臓の血管が収縮し、栄養や酸素を絶たれた細胞が病変することにより、潰瘍になったり、脳神経に異変が起こったリするからストレス病(Stress Disease)という言葉もあるくらいだ。

いずれにしろ、まさかの円形脱毛ももうわずかに禿が残っている程度で、白髪が生え揃い、ずいぶん前にかかったんだろうが、どういうストレスが原因なのかいまだもって思い当たる節がないから、今はかえってその無自覚さに不安がよぎる。

夕照(せきしょう)の湖畔

 
琵琶湖大橋を東に渡り、湖岸道路を北にたどると、やがて西国三十三箇所第三十一番札所の長命寺への分岐点に至る。
その県道25号線を左に入ると間もなく長命寺の広い駐車場があり、たくさんのバスや車が駐車している。そこを過ぎると道は細くなり、琵琶湖の断崖沿いを縫うように道が走っていて、ここの景観が、前にも一度訪れたのだが、実にすばらしい。
今年の紅葉は、夏の近年まれな酷暑から突然秋を迎えたからか、いつもとは違った趣がある。真っ赤に紅葉している木々があるかと思えば、まだ青々と緑をとどめる木々もあり、変化に富んだ色彩が深く印象に残った。
京都北山の紅葉、鴨川沿いの紅葉、南禅寺から永観堂あたりの紅葉、浄瑠璃寺をはじめとする当尾の里の紅葉、そして今年は湖北三山の百済寺、金剛輪寺、西明寺の紅葉も見て回ったわけだが、ありきたりの表現しかできないが、うつくしい、としか言いようがない。
そしてとどめが今回訪れた県道25号線沿いの景観だ。
特に紅葉の名所として知られている場所ではないのだが、先に挙げた名所にも負けない景観だ。
もう紅葉の盛りも過ぎたと思っていての遭遇になおさら感動を深くしたのかもしれない。真っ盛りなのだ。道に大きくのしかかり、夕日に照らし出された紅葉は、いま売りに出されている3Dテレビの画像を見ているようだ。湖面に倒れ掛かるかのように映える真っ赤な木々の間から見える琵琶湖の広がりが幻想的にさえ見える。
前にも訪れたカフェ・レストラン「シャーレ水が浜」がまたいい。この日はお客さんでいっぱいだ。京都新聞で「夕日の美しいカフェ」として紹介されたそうで、50年前に創業されたと店主に説明を受けた。琵琶湖を一望にする席で何とかいうケーキとあったかいコーヒを飲んだ。お隣さんは和服姿のお嬢さん(?)二人、その向こうにはしゃれた服装がお似合いに熟年カップルなどなど。
やがてはるか対岸にそびえる比叡の頂に真っ赤な太陽が沈んでゆく。夕照(せきしょう)が帯のように長く湖面に映える。
もう語るのは止そう。

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当尾の里―浄瑠璃寺、岩船寺、海住山寺

 
もう40年も前になるだろうか。いやもっとだ。近鉄奈良駅から般若寺を通って、今で言う国道369号線を辿って、岩船寺、浄瑠璃寺を巡ったのは。
肌寒くてどんよりした日だった。通る車もほとんどなく、出会う人もないさびしい古寺巡礼だった記憶がある。
岩船寺で、買ってきたお弁当を開き食べ始めたが、いつの間にかカラスの大群があたりの木々や空に舞い、その羽ばたきの音と鳴き声にヒッチコックの「鳥」を思い出し、背筋の凍える思いで早々と弁当をたたみ、次の目的地浄瑠璃寺に向かった。
浄瑠璃寺に着いた頃には雨こそ降っていなかったが、いっそう厚く覆った雲に陽は遮られ、人っ子一人いない境内に佇んだとき、さびしさは頂点に達したように思う。
池の向こうに黒くくすんだ小ぶりの浄瑠璃寺本堂が見え、できれば拝顔したかった吉祥天にはもちろんまみえることもできず、墨絵のような光景だけしかなかった。そんな中、背後に楚々と佇む五重の塔だけがその朱塗りの色合いと相まってやっと温かみをとどめてくれた。
そして昨日訪れた浄瑠璃寺はもう昔の浄瑠璃寺ではなかった。
たくさんの人が境内にも道にも溢れ、車とバスが所狭しと駐車している。何軒もの店や食堂が立ち並び、いたるところで折からの紅葉に歓声がどよめき、昔あんなにくすんでいたお堂は光彩を放ち、池の島にはススキが陽光で銀色に輝き、もちろん紅葉は赤にそして黄色に染まり、五重の塔はいっそう色鮮やかに朱色に染まり、大きく見え、なによりも念願の吉祥天と中尊の阿弥陀仏を真ん中に左右四体の、合わせて九体の阿弥陀仏を拝謁できた頃にはもう胸いっぱいの満足感と、あたりのあまりにも明るい光景に、昔の墨絵がうそだったかのような錯覚にとらわれた。
この日はさらに足を延ばして、海住山寺に向かうことになった。
この心象はもちろんぼく個人のものではあるが、戦後日本の心象風景ではなかろうか。

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京都の秋

 
一気に秋が深まってきた。京都鴨川沿いの紅葉もいっそう深まり、下賀茂の北大路橋から京都府立植物園の南正門に至る道は厚く落ち葉が重なっていた。
開門前の道路には車は通らず、両側に立ち並ぶ欅の大木からは微かな風にも煽られた葉が絶え間なく落ち重なり、歩くごとに雪煙ならぬ落ち葉煙が、大げさでなく立ち上る感じだ。
葉の隙間から望まれる比叡の山々がずっと向こうに霞んで見える。反対側の鴨川の土手を時折人が通り過ぎてゆき、自転車が通り過ぎてゆく。音がしない。聞こえるのは落ち葉の舞い落ちる音だけだ。
正門に向って歩いてゆくと、赤く彩られた木々の向こうにひときわ鮮やかな薄緑の木群れが見えた。若葉と見まがう色合いだ。昔何かで見た舞台背景を思い出した。立体感があって誰か俳優が飛び出してくるんではないかと錯覚したくらいだ。
いや錯覚ではなかった。後ろから走ってきた女性が傍らを通り過ぎて向こうの舞台に立ち止り、軽く体操を始めた。軽く会釈をすると、びっくりしたように会釈を返した。美しい女性だ。ジョギング用に装いを整えたその女性は鶴のように美しい。
夢と現実がないまぜになった不思議な空間だ。
深まりゆく秋、センチメンタルに陥りかけた矢先に、少し心がときめいた。

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でかしたぜ!YouTube!

 

☆★☆ 尖閣諸島中国漁船衝突ビデオ ☆★☆

尖閣諸島沖で起こった中国漁船衝突事件を海上保安庁が撮影したビデオがTouTubeに流されてんやわんやになっている。
何をおもんぱかってか政府はひたすら隠し続けた代物だ。一部は国会議員たちに見せたとはいうが、政府はなぜ国民の前に公開しないのだ。国民を愚弄するのも甚だしい。昔の「大本営発表」式の情報操作がいまだまかり通っている現実を直視しなければならない。一部の思い上がった輩(やから)の浅知恵が、それもその輩だけに結果が留まればまだしも、一部の犯罪まがいの情報隠しから、国益を害するという大義名分を掲げての情報隠しまで、多くの国民にとってとんだ結末を迎えたという例は枚挙にいとまがない。
しかしそれだけ隠しても隠しおおせない今の社会が面白い。事実はできる限りさらけ出せばいい。事実を隠してつぎはぎだらけの百万代言をいくら弄しても正鵠は穿てない。今、だからYouTubeが面白いのだ。何も語らずただ映像だけを皆にさらす。清濁あわせ持ったあらゆる事実をひたすら皆に示す。それでいい。それがいい。浅知恵にたけた似非エリートの判断よりも、大衆の判断の方が誤りが少ない。だから近代社会は「民主主義」を求めたのだ。日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し」たのだ。
このブログにはたくさんYouTubeにリンクを張ってある。心洗われる動画、怒り心頭に達する動画、沈思黙考を迫られる動画、涙なしには見られない動画、世に起こること森羅万象がここにはある。

こんな日本人もいた。https://www.youtube.com/watch?v=bQe3uXJJtf4
こんな残虐がある。http://www.youtube.com/watch?v=P5sWncFiYnA&feature=related

☆★☆意識調査☆★☆

尖閣ビデオの流出、あなたはどう思う?http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/other/6052/result

新マキャベリズム

最近の国際関係、なかんずく日本と日本を取り巻く周辺国家との外交問題がかまびすしい。
尖閣諸島問題で日中間がぎくしゃくする中、新たにロシアとの北方領土問題がクローズアップされ、国会論戦でも野党が「どん菅内閣」と揶揄する論戦が巻き起こっている。
確かに最近の日本外交は方向性の見えないダッチロール外交だ。
戦後のとにかく国力回復を目指す経済中心外交、そして東西冷戦の中、非核三原則を掲げ非武装中立を目指す平和主義外交と、それなりに目標を掲げ、右肩上がりの経済成長がそれを下支えして世界にも影響力を持ち、日本の存在感もあったわけだが、1980年代後半からのバブル崩壊による国内的混乱は予想以上に深刻で、外交どころではない矢先に、中国をはじめとするいわゆるBRICs(ブラジル (Brazil)、ロシア (Russia)、インド (India)、中国 (China) の頭文字を合わせた4ヶ国の総称)の経済成長は目覚ましく、外交分野においても大きな勢力として台頭してきた。
隣国中国に至っては21世紀を先導する国ともいわれるほどの成長ぶりだ。
そして日本はこのところこの中国に振り回されぱなっしだ。東シナ海のガス田問題ではいまだ外交的決着がつかず、その間中国は実効支配したままどんどん資源を吸い上げているし、尖閣諸島もその地下資源を標的とした支配力を及ぼそうと日本を揺さぶっている。
そして同じく経済新興国ロシアがまたまた領土問題で日本に難題を突き付けてきた。
ヘーゲルが言ったように、「歴史は繰り返す」。
21世紀はおそらくマキャベリズムが幅を利かせる世紀になろうとしているのだ。
『謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯す羽目に陥る。』
とマキャベリはその著「君主論」で言っているが、謙譲の美徳を最も尊重する国日本は、このマキャベリの言うとおりの落とし穴にはまりこんでしまうのではなかろうか。

自転車レーン

全国の都市部にある幹線道路3万㎞余のうち、車道の両端に歩道とは別に1.5m以上の余裕がある主要道約8100㎞の8割強に当たる約6600㎞で、自転車専用の通行帯「自転車レーン」を容易に設置できることが、国土交通省の研究者の試算で分かったそうだ。
8100㎞の内1300㎞は1車線あたり1日の交通量が2000台以上の大型車両の通行も多いため、柵や縁石などで物理的に車道と分離した「自転車道」を設けなければならないが、この6600㎞は物理的な分離までは必要なく、車道左側に線を引くだけの「自転車レーン」を設置すれば、比較的安価で整備できるという。
残りの200㎞は車の交通量が少ないことなどから、自転車が車道を走行しても危険性が少なく自転車専用通路の整備は必要ないとした。
ちなみに、警察庁による08年度末現在の自転車レーンは全国でわずか178㎞というから、「自転車先進国」である欧州諸国に比べると、日本の道路行政が、いかに自動車中心であり、人や自転車を排除したものであり、「時代遅れ」なものであるかがわかる。
ぼくは毎朝6km位をウォーキングしているんだが、遊歩道が整備されているのは1㎞足らず、残りは、いいところで幅1mにも満たない歩道が、それも凸凹の段差だらけ、自転車でなんてとてもとても通れるものでない代物だ。それでも歩道はあるだけでもまだましで、道路に白線を引いてあるだけの区間も多く、すぐ横を自動車が猛スピードで駆け抜けているから恐ろしい。
関西では琵琶湖にかなり整備された自転車専用道が設置されていて、距離も長くて景観も素晴らしく、日曜・祭日にはたくさんの自転車愛好家やウォーキングを楽しむ人たちが集まってくるのだが、願わくは早く琵琶湖を周回してほしいものだ。
「道」は大切だ。太古から、人が行き交い、物が行き交い、今日まで文明・文化を切り開いてきた。時代とともに、初めは人が歩き、馬に乗り、車に乗り、そして自動車に乗り、要所要所には町ができ、世界はどんどんどんどん広がってきた。
さてさて、こんな時代だからこそ、「道」をもっともっと考えてみなければならない。