夕照(せきしょう)の湖畔

 
琵琶湖大橋を東に渡り、湖岸道路を北にたどると、やがて西国三十三箇所第三十一番札所の長命寺への分岐点に至る。
その県道25号線を左に入ると間もなく長命寺の広い駐車場があり、たくさんのバスや車が駐車している。そこを過ぎると道は細くなり、琵琶湖の断崖沿いを縫うように道が走っていて、ここの景観が、前にも一度訪れたのだが、実にすばらしい。
今年の紅葉は、夏の近年まれな酷暑から突然秋を迎えたからか、いつもとは違った趣がある。真っ赤に紅葉している木々があるかと思えば、まだ青々と緑をとどめる木々もあり、変化に富んだ色彩が深く印象に残った。
京都北山の紅葉、鴨川沿いの紅葉、南禅寺から永観堂あたりの紅葉、浄瑠璃寺をはじめとする当尾の里の紅葉、そして今年は湖北三山の百済寺、金剛輪寺、西明寺の紅葉も見て回ったわけだが、ありきたりの表現しかできないが、うつくしい、としか言いようがない。
そしてとどめが今回訪れた県道25号線沿いの景観だ。
特に紅葉の名所として知られている場所ではないのだが、先に挙げた名所にも負けない景観だ。
もう紅葉の盛りも過ぎたと思っていての遭遇になおさら感動を深くしたのかもしれない。真っ盛りなのだ。道に大きくのしかかり、夕日に照らし出された紅葉は、いま売りに出されている3Dテレビの画像を見ているようだ。湖面に倒れ掛かるかのように映える真っ赤な木々の間から見える琵琶湖の広がりが幻想的にさえ見える。
前にも訪れたカフェ・レストラン「シャーレ水が浜」がまたいい。この日はお客さんでいっぱいだ。京都新聞で「夕日の美しいカフェ」として紹介されたそうで、50年前に創業されたと店主に説明を受けた。琵琶湖を一望にする席で何とかいうケーキとあったかいコーヒを飲んだ。お隣さんは和服姿のお嬢さん(?)二人、その向こうにはしゃれた服装がお似合いに熟年カップルなどなど。
やがてはるか対岸にそびえる比叡の頂に真っ赤な太陽が沈んでゆく。夕照(せきしょう)が帯のように長く湖面に映える。
もう語るのは止そう。

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当尾の里―浄瑠璃寺、岩船寺、海住山寺

 
もう40年も前になるだろうか。いやもっとだ。近鉄奈良駅から般若寺を通って、今で言う国道369号線を辿って、岩船寺、浄瑠璃寺を巡ったのは。
肌寒くてどんよりした日だった。通る車もほとんどなく、出会う人もないさびしい古寺巡礼だった記憶がある。
岩船寺で、買ってきたお弁当を開き食べ始めたが、いつの間にかカラスの大群があたりの木々や空に舞い、その羽ばたきの音と鳴き声にヒッチコックの「鳥」を思い出し、背筋の凍える思いで早々と弁当をたたみ、次の目的地浄瑠璃寺に向かった。
浄瑠璃寺に着いた頃には雨こそ降っていなかったが、いっそう厚く覆った雲に陽は遮られ、人っ子一人いない境内に佇んだとき、さびしさは頂点に達したように思う。
池の向こうに黒くくすんだ小ぶりの浄瑠璃寺本堂が見え、できれば拝顔したかった吉祥天にはもちろんまみえることもできず、墨絵のような光景だけしかなかった。そんな中、背後に楚々と佇む五重の塔だけがその朱塗りの色合いと相まってやっと温かみをとどめてくれた。
そして昨日訪れた浄瑠璃寺はもう昔の浄瑠璃寺ではなかった。
たくさんの人が境内にも道にも溢れ、車とバスが所狭しと駐車している。何軒もの店や食堂が立ち並び、いたるところで折からの紅葉に歓声がどよめき、昔あんなにくすんでいたお堂は光彩を放ち、池の島にはススキが陽光で銀色に輝き、もちろん紅葉は赤にそして黄色に染まり、五重の塔はいっそう色鮮やかに朱色に染まり、大きく見え、なによりも念願の吉祥天と中尊の阿弥陀仏を真ん中に左右四体の、合わせて九体の阿弥陀仏を拝謁できた頃にはもう胸いっぱいの満足感と、あたりのあまりにも明るい光景に、昔の墨絵がうそだったかのような錯覚にとらわれた。
この日はさらに足を延ばして、海住山寺に向かうことになった。
この心象はもちろんぼく個人のものではあるが、戦後日本の心象風景ではなかろうか。

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京都の秋

 
一気に秋が深まってきた。京都鴨川沿いの紅葉もいっそう深まり、下賀茂の北大路橋から京都府立植物園の南正門に至る道は厚く落ち葉が重なっていた。
開門前の道路には車は通らず、両側に立ち並ぶ欅の大木からは微かな風にも煽られた葉が絶え間なく落ち重なり、歩くごとに雪煙ならぬ落ち葉煙が、大げさでなく立ち上る感じだ。
葉の隙間から望まれる比叡の山々がずっと向こうに霞んで見える。反対側の鴨川の土手を時折人が通り過ぎてゆき、自転車が通り過ぎてゆく。音がしない。聞こえるのは落ち葉の舞い落ちる音だけだ。
正門に向って歩いてゆくと、赤く彩られた木々の向こうにひときわ鮮やかな薄緑の木群れが見えた。若葉と見まがう色合いだ。昔何かで見た舞台背景を思い出した。立体感があって誰か俳優が飛び出してくるんではないかと錯覚したくらいだ。
いや錯覚ではなかった。後ろから走ってきた女性が傍らを通り過ぎて向こうの舞台に立ち止り、軽く体操を始めた。軽く会釈をすると、びっくりしたように会釈を返した。美しい女性だ。ジョギング用に装いを整えたその女性は鶴のように美しい。
夢と現実がないまぜになった不思議な空間だ。
深まりゆく秋、センチメンタルに陥りかけた矢先に、少し心がときめいた。

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でかしたぜ!YouTube!

 

☆★☆ 尖閣諸島中国漁船衝突ビデオ ☆★☆

尖閣諸島沖で起こった中国漁船衝突事件を海上保安庁が撮影したビデオがTouTubeに流されてんやわんやになっている。
何をおもんぱかってか政府はひたすら隠し続けた代物だ。一部は国会議員たちに見せたとはいうが、政府はなぜ国民の前に公開しないのだ。国民を愚弄するのも甚だしい。昔の「大本営発表」式の情報操作がいまだまかり通っている現実を直視しなければならない。一部の思い上がった輩(やから)の浅知恵が、それもその輩だけに結果が留まればまだしも、一部の犯罪まがいの情報隠しから、国益を害するという大義名分を掲げての情報隠しまで、多くの国民にとってとんだ結末を迎えたという例は枚挙にいとまがない。
しかしそれだけ隠しても隠しおおせない今の社会が面白い。事実はできる限りさらけ出せばいい。事実を隠してつぎはぎだらけの百万代言をいくら弄しても正鵠は穿てない。今、だからYouTubeが面白いのだ。何も語らずただ映像だけを皆にさらす。清濁あわせ持ったあらゆる事実をひたすら皆に示す。それでいい。それがいい。浅知恵にたけた似非エリートの判断よりも、大衆の判断の方が誤りが少ない。だから近代社会は「民主主義」を求めたのだ。日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し」たのだ。
このブログにはたくさんYouTubeにリンクを張ってある。心洗われる動画、怒り心頭に達する動画、沈思黙考を迫られる動画、涙なしには見られない動画、世に起こること森羅万象がここにはある。

こんな日本人もいた。https://www.youtube.com/watch?v=bQe3uXJJtf4
こんな残虐がある。http://www.youtube.com/watch?v=P5sWncFiYnA&feature=related

☆★☆意識調査☆★☆

尖閣ビデオの流出、あなたはどう思う?http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/other/6052/result

新マキャベリズム

最近の国際関係、なかんずく日本と日本を取り巻く周辺国家との外交問題がかまびすしい。
尖閣諸島問題で日中間がぎくしゃくする中、新たにロシアとの北方領土問題がクローズアップされ、国会論戦でも野党が「どん菅内閣」と揶揄する論戦が巻き起こっている。
確かに最近の日本外交は方向性の見えないダッチロール外交だ。
戦後のとにかく国力回復を目指す経済中心外交、そして東西冷戦の中、非核三原則を掲げ非武装中立を目指す平和主義外交と、それなりに目標を掲げ、右肩上がりの経済成長がそれを下支えして世界にも影響力を持ち、日本の存在感もあったわけだが、1980年代後半からのバブル崩壊による国内的混乱は予想以上に深刻で、外交どころではない矢先に、中国をはじめとするいわゆるBRICs(ブラジル (Brazil)、ロシア (Russia)、インド (India)、中国 (China) の頭文字を合わせた4ヶ国の総称)の経済成長は目覚ましく、外交分野においても大きな勢力として台頭してきた。
隣国中国に至っては21世紀を先導する国ともいわれるほどの成長ぶりだ。
そして日本はこのところこの中国に振り回されぱなっしだ。東シナ海のガス田問題ではいまだ外交的決着がつかず、その間中国は実効支配したままどんどん資源を吸い上げているし、尖閣諸島もその地下資源を標的とした支配力を及ぼそうと日本を揺さぶっている。
そして同じく経済新興国ロシアがまたまた領土問題で日本に難題を突き付けてきた。
ヘーゲルが言ったように、「歴史は繰り返す」。
21世紀はおそらくマキャベリズムが幅を利かせる世紀になろうとしているのだ。
『謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯す羽目に陥る。』
とマキャベリはその著「君主論」で言っているが、謙譲の美徳を最も尊重する国日本は、このマキャベリの言うとおりの落とし穴にはまりこんでしまうのではなかろうか。

自転車レーン

全国の都市部にある幹線道路3万㎞余のうち、車道の両端に歩道とは別に1.5m以上の余裕がある主要道約8100㎞の8割強に当たる約6600㎞で、自転車専用の通行帯「自転車レーン」を容易に設置できることが、国土交通省の研究者の試算で分かったそうだ。
8100㎞の内1300㎞は1車線あたり1日の交通量が2000台以上の大型車両の通行も多いため、柵や縁石などで物理的に車道と分離した「自転車道」を設けなければならないが、この6600㎞は物理的な分離までは必要なく、車道左側に線を引くだけの「自転車レーン」を設置すれば、比較的安価で整備できるという。
残りの200㎞は車の交通量が少ないことなどから、自転車が車道を走行しても危険性が少なく自転車専用通路の整備は必要ないとした。
ちなみに、警察庁による08年度末現在の自転車レーンは全国でわずか178㎞というから、「自転車先進国」である欧州諸国に比べると、日本の道路行政が、いかに自動車中心であり、人や自転車を排除したものであり、「時代遅れ」なものであるかがわかる。
ぼくは毎朝6km位をウォーキングしているんだが、遊歩道が整備されているのは1㎞足らず、残りは、いいところで幅1mにも満たない歩道が、それも凸凹の段差だらけ、自転車でなんてとてもとても通れるものでない代物だ。それでも歩道はあるだけでもまだましで、道路に白線を引いてあるだけの区間も多く、すぐ横を自動車が猛スピードで駆け抜けているから恐ろしい。
関西では琵琶湖にかなり整備された自転車専用道が設置されていて、距離も長くて景観も素晴らしく、日曜・祭日にはたくさんの自転車愛好家やウォーキングを楽しむ人たちが集まってくるのだが、願わくは早く琵琶湖を周回してほしいものだ。
「道」は大切だ。太古から、人が行き交い、物が行き交い、今日まで文明・文化を切り開いてきた。時代とともに、初めは人が歩き、馬に乗り、車に乗り、そして自動車に乗り、要所要所には町ができ、世界はどんどんどんどん広がってきた。
さてさて、こんな時代だからこそ、「道」をもっともっと考えてみなければならない。

朝まだき

日の出6時過ぎ、気温18℃、今日初めて長袖シャツを着こんでウォーキングに出かけた。あの酷暑がうそのよう。山の端から朝日が頭をのぞかせると、目の前に広がる田圃が金色に輝き、穂先に垂れ下がる朝露が丸くカットしたダイヤモンドのように陽光を屈折している。そこここに咲く彼岸花はスポットライトを当てられた千両役者のように秋をいっそう際立たせ、田んぼの一角になぜかぽつんと立っている金木犀からはあの何とも言いようのない芳香が漂ってくる。目を右に移すと、秋祭りの献灯提灯がもう何十個もずらっと並び、これから始まる今年最後の大騒ぎを控えて、まるで嵐の前の静けさだ。

こうして季節は巡り、秋の風情も昨年と変わらないだろうに、今年の秋もまた今までとは違った秋だ。そうだ、自然は未来永劫変わることなく巡るんだろうが、人が変わり、心が変わるんだ。あんなに元気でいた人が今年はもういないし、別の人は病に苦しんでいたり、そんなことを想うとさびしい秋だし、夜になると遠くから聞こえてくる、秋祭りの練習なんだろう、威勢の良い掛け声や鐘、太鼓の音が日に日に熱を帯びてくるのを聞いていると、また生きる勇気もわいてくる。

塵芥に紛れるもよし、自然に浸るもよし、わが同時代人たちよ、悔いなく生きろよ。

今年の夏は大殺界

もう9月も最後になった。9月の初めには全国各地35度を超す猛暑日続きで、この分ではいつ秋が訪れるやらと気をもんだものだが、今日の朝方は肌寒く、気温18度だ。
稲もたわわな畔や水路沿いに一斉に彼岸花が咲き始めた。いつもなら1週間前のお彼岸には咲き始めるから、ちょうど1週間遅れということになる。マツタケと同じで気温が18度前後に下がらなければ彼岸花も咲かない。やっと秋が訪れたわけだ。

さてさて、今年の夏は異常続きの夏だったわけだが、自分にとってもやっと乗り切れた夏になった。 6月初めに3度目の十二指腸潰瘍にかかり、いやな胃カメラを2回飲み、以前はアレルギー懸念で見送ったピロリ菌除去も今度こそはと志願して、7月に入って無事潰瘍もピロリ菌除去も終えたんだが、直後に軽い熱中症にかかり、もう死ぬ思い。この回復に2週間はかかっただろうか、やっと体力も回復したかと思った矢先、今度は変な風邪。37度前後の微熱が続き、咳と痰がなかなか収まらないし、足もとがおぼつかなく、どうも昨年流行した豚インフルエンザに罹ったよう。これが8月上旬まで続き、予定していた四国巡礼の旅も諦めざるを得ない状況に。そして連日の猛暑日、熱帯夜続きで、外に出るどころか、家にいても嫌な冷房をかけずにはいられないほどの暑さ。もう生きているのがせいぜいで何も手がつかず、やっと生き延びたというなんとも情けない夏ということになった。

8月下旬、やっと自分の足で歩けるという実感が戻ってきたんだが、今度は突然家族の一人が肺癌にかかって、9月にその手術をするという。もうびっくり仰天。2回にわたる手術と入退院の世話や見舞いに明け暮れているうちに今日を迎えたわけだ。大殺界、大殺界。

お盆

♪♪♪ 精霊流し ♪♪♪
 
お盆の季節がやってきた。
いつも思い出すのは、大叔母のいたころ、まだぼくが子どもの頃のお盆だ。
仏壇の前にはお供え物をするためのテーブルが準備され、白い布を敷いたその上には、ハスの花の蕾や実をかたどった色美しいはくせんこう、桃、なすび、スイカといった果物や野菜、大きな本物のハスの葉っぱ、その上にはこれも本物のハスの実、白い、なんだろう、何か植物の茎のような長いもの、親せきから供えられた様々なお菓子類が所狭しと並んでいる。
子供心に見ているだけでも楽しい。楽しいだけではない、お盆が終わるとお供物としておすそ分けにあずかるのだから待ち遠しい。
12日には、玄関先で大叔母がカチッ、カチッと火打ち石を鳴らし、仏様をお迎えする。お盆供養の始まりだ。
家(うち)にはお坊さんが三人やってくる。真言宗、浄土真宗、日蓮宗だ。家には大叔母が二人いて、どちらの旦那さんも他界していて子供もなく、その嫁ぎ先が浄土真宗であり、日蓮宗だったから一緒にお祭りしたのだろう。お坊さんが来るたびにその後ろに座らされ、一緒にお参りさせられるんだが、足が痛くて痛くて、だからよく覚えている。
15日になると、夕方、お供え物の一部を風呂敷に包み、ろうそくとお線香、そして小さな木箱を持って近くの淀川に行く。夕やみ迫る川べりには、たくさんの人が浴衣や着物姿で同じように手荷物を下げてやってきている。あちらこちらで、線香とろうそくを灯し、思い思いの舟形にお供え物を乗せ、中には小さな提灯をともしたものもあり、お祈りしながら川の流れに載せてお送りする。線香のにおいとお経の声が夕やみに流れていく。
これがぼくの思い出に残るお盆だ。
今もこういう風習が残っているんだろうが、俗世間にまみれてしまったぼくにはもう遠い遠い昔の思い出だ。

原子爆弾

2006年の夏、初めて広島の爆心地を訪れた。この日も暑かった。60歳を越しての訪問だ。
車で、高速道を使わず国道2号線をたどったのも、風光明媚な瀬戸内の景色を満喫したかったのと、広島までの距離感を実感したかったからだ。
途中友人を訪ねたり、大叔母からよく話を聞かされていた尾道の蓮華坂(れんがさか)も訪ねたり、丸二日がかりのドライブになった。
広島市内に入ってからは少し道に迷ったが、すぐに平和記念公園にたどり着けた。太田川の川洲にある記念公園は、広々として落ち着きのあるたたずまいではあるが何か心に凛とするものがある。
涼しい木陰をたどって慰霊碑前に着くと、祭壇には新鮮な献花がいっぱい並び、その前には、手を合わせていたり、じっと記念碑を見つめていたりする人たちが10人ばかりいた。
ぼくも用意してきた花を手向け、手を合わせたが、みるみる涙がほとばしり出てもう止めようがない。悔しいと言ったらいいのか、悲しいと言ったらいいのか、心の底からの慟哭だ。
慰霊碑の丸い中空の向こうに原爆ドームが見えた時は一瞬ドキッとした。この記念碑がそう設計されているのを知らなかったからだ。
その瞬間、今度は言いようのない怒りが込み上げてきた。
ここに原子爆弾を投下しなければならない必然性がどこにあったのか。すべてが人間のエゴでしかない。政治家も科学者もその力を誇示し試したかったその一点に尽きる。なにが「戦争を終結させるため」だ。
一握りの人間のエゴを満足させるためにその何万倍の人の命を一瞬にして奪ったこの事実を人はみな心に刻まなければならない。
いま、核廃絶を訴え、ノーベル平和賞を甘受したアメリカ大統領オバマは、この人類最大の愚行を認め、アメリカ大統領として率直に、原爆犠牲者にそして全人類に謝罪しなければならないのではないか。それができなくてなにが「核廃絶」だ。
人もそう、世の中もそう、国もそう、すべてが複雑に入り組み過ぎて、何が何だか分かりにくくなっている。この先、何を見据えて、何を行っていけばいいのか、頭の中だけそして口先ばかり達者になって、すべてが空回りしているこの現実は恐ろしい。
夏の暑いさなか、蝉だけが何か声高に鳴き続けているが、人も負けずに叫ばなければならないことがある。