でかしたぜ!YouTube!

 

☆★☆ 尖閣諸島中国漁船衝突ビデオ ☆★☆

尖閣諸島沖で起こった中国漁船衝突事件を海上保安庁が撮影したビデオがTouTubeに流されてんやわんやになっている。
何をおもんぱかってか政府はひたすら隠し続けた代物だ。一部は国会議員たちに見せたとはいうが、政府はなぜ国民の前に公開しないのだ。国民を愚弄するのも甚だしい。昔の「大本営発表」式の情報操作がいまだまかり通っている現実を直視しなければならない。一部の思い上がった輩(やから)の浅知恵が、それもその輩だけに結果が留まればまだしも、一部の犯罪まがいの情報隠しから、国益を害するという大義名分を掲げての情報隠しまで、多くの国民にとってとんだ結末を迎えたという例は枚挙にいとまがない。
しかしそれだけ隠しても隠しおおせない今の社会が面白い。事実はできる限りさらけ出せばいい。事実を隠してつぎはぎだらけの百万代言をいくら弄しても正鵠は穿てない。今、だからYouTubeが面白いのだ。何も語らずただ映像だけを皆にさらす。清濁あわせ持ったあらゆる事実をひたすら皆に示す。それでいい。それがいい。浅知恵にたけた似非エリートの判断よりも、大衆の判断の方が誤りが少ない。だから近代社会は「民主主義」を求めたのだ。日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し」たのだ。
このブログにはたくさんYouTubeにリンクを張ってある。心洗われる動画、怒り心頭に達する動画、沈思黙考を迫られる動画、涙なしには見られない動画、世に起こること森羅万象がここにはある。

こんな日本人もいた。https://www.youtube.com/watch?v=bQe3uXJJtf4
こんな残虐がある。http://www.youtube.com/watch?v=P5sWncFiYnA&feature=related

☆★☆意識調査☆★☆

尖閣ビデオの流出、あなたはどう思う?http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/other/6052/result

新マキャベリズム

最近の国際関係、なかんずく日本と日本を取り巻く周辺国家との外交問題がかまびすしい。
尖閣諸島問題で日中間がぎくしゃくする中、新たにロシアとの北方領土問題がクローズアップされ、国会論戦でも野党が「どん菅内閣」と揶揄する論戦が巻き起こっている。
確かに最近の日本外交は方向性の見えないダッチロール外交だ。
戦後のとにかく国力回復を目指す経済中心外交、そして東西冷戦の中、非核三原則を掲げ非武装中立を目指す平和主義外交と、それなりに目標を掲げ、右肩上がりの経済成長がそれを下支えして世界にも影響力を持ち、日本の存在感もあったわけだが、1980年代後半からのバブル崩壊による国内的混乱は予想以上に深刻で、外交どころではない矢先に、中国をはじめとするいわゆるBRICs(ブラジル (Brazil)、ロシア (Russia)、インド (India)、中国 (China) の頭文字を合わせた4ヶ国の総称)の経済成長は目覚ましく、外交分野においても大きな勢力として台頭してきた。
隣国中国に至っては21世紀を先導する国ともいわれるほどの成長ぶりだ。
そして日本はこのところこの中国に振り回されぱなっしだ。東シナ海のガス田問題ではいまだ外交的決着がつかず、その間中国は実効支配したままどんどん資源を吸い上げているし、尖閣諸島もその地下資源を標的とした支配力を及ぼそうと日本を揺さぶっている。
そして同じく経済新興国ロシアがまたまた領土問題で日本に難題を突き付けてきた。
ヘーゲルが言ったように、「歴史は繰り返す」。
21世紀はおそらくマキャベリズムが幅を利かせる世紀になろうとしているのだ。
『謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯す羽目に陥る。』
とマキャベリはその著「君主論」で言っているが、謙譲の美徳を最も尊重する国日本は、このマキャベリの言うとおりの落とし穴にはまりこんでしまうのではなかろうか。

自転車レーン

全国の都市部にある幹線道路3万㎞余のうち、車道の両端に歩道とは別に1.5m以上の余裕がある主要道約8100㎞の8割強に当たる約6600㎞で、自転車専用の通行帯「自転車レーン」を容易に設置できることが、国土交通省の研究者の試算で分かったそうだ。
8100㎞の内1300㎞は1車線あたり1日の交通量が2000台以上の大型車両の通行も多いため、柵や縁石などで物理的に車道と分離した「自転車道」を設けなければならないが、この6600㎞は物理的な分離までは必要なく、車道左側に線を引くだけの「自転車レーン」を設置すれば、比較的安価で整備できるという。
残りの200㎞は車の交通量が少ないことなどから、自転車が車道を走行しても危険性が少なく自転車専用通路の整備は必要ないとした。
ちなみに、警察庁による08年度末現在の自転車レーンは全国でわずか178㎞というから、「自転車先進国」である欧州諸国に比べると、日本の道路行政が、いかに自動車中心であり、人や自転車を排除したものであり、「時代遅れ」なものであるかがわかる。
ぼくは毎朝6km位をウォーキングしているんだが、遊歩道が整備されているのは1㎞足らず、残りは、いいところで幅1mにも満たない歩道が、それも凸凹の段差だらけ、自転車でなんてとてもとても通れるものでない代物だ。それでも歩道はあるだけでもまだましで、道路に白線を引いてあるだけの区間も多く、すぐ横を自動車が猛スピードで駆け抜けているから恐ろしい。
関西では琵琶湖にかなり整備された自転車専用道が設置されていて、距離も長くて景観も素晴らしく、日曜・祭日にはたくさんの自転車愛好家やウォーキングを楽しむ人たちが集まってくるのだが、願わくは早く琵琶湖を周回してほしいものだ。
「道」は大切だ。太古から、人が行き交い、物が行き交い、今日まで文明・文化を切り開いてきた。時代とともに、初めは人が歩き、馬に乗り、車に乗り、そして自動車に乗り、要所要所には町ができ、世界はどんどんどんどん広がってきた。
さてさて、こんな時代だからこそ、「道」をもっともっと考えてみなければならない。

朝まだき

日の出6時過ぎ、気温18℃、今日初めて長袖シャツを着こんでウォーキングに出かけた。あの酷暑がうそのよう。山の端から朝日が頭をのぞかせると、目の前に広がる田圃が金色に輝き、穂先に垂れ下がる朝露が丸くカットしたダイヤモンドのように陽光を屈折している。そこここに咲く彼岸花はスポットライトを当てられた千両役者のように秋をいっそう際立たせ、田んぼの一角になぜかぽつんと立っている金木犀からはあの何とも言いようのない芳香が漂ってくる。目を右に移すと、秋祭りの献灯提灯がもう何十個もずらっと並び、これから始まる今年最後の大騒ぎを控えて、まるで嵐の前の静けさだ。

こうして季節は巡り、秋の風情も昨年と変わらないだろうに、今年の秋もまた今までとは違った秋だ。そうだ、自然は未来永劫変わることなく巡るんだろうが、人が変わり、心が変わるんだ。あんなに元気でいた人が今年はもういないし、別の人は病に苦しんでいたり、そんなことを想うとさびしい秋だし、夜になると遠くから聞こえてくる、秋祭りの練習なんだろう、威勢の良い掛け声や鐘、太鼓の音が日に日に熱を帯びてくるのを聞いていると、また生きる勇気もわいてくる。

塵芥に紛れるもよし、自然に浸るもよし、わが同時代人たちよ、悔いなく生きろよ。

今年の夏は大殺界

もう9月も最後になった。9月の初めには全国各地35度を超す猛暑日続きで、この分ではいつ秋が訪れるやらと気をもんだものだが、今日の朝方は肌寒く、気温18度だ。
稲もたわわな畔や水路沿いに一斉に彼岸花が咲き始めた。いつもなら1週間前のお彼岸には咲き始めるから、ちょうど1週間遅れということになる。マツタケと同じで気温が18度前後に下がらなければ彼岸花も咲かない。やっと秋が訪れたわけだ。

さてさて、今年の夏は異常続きの夏だったわけだが、自分にとってもやっと乗り切れた夏になった。 6月初めに3度目の十二指腸潰瘍にかかり、いやな胃カメラを2回飲み、以前はアレルギー懸念で見送ったピロリ菌除去も今度こそはと志願して、7月に入って無事潰瘍もピロリ菌除去も終えたんだが、直後に軽い熱中症にかかり、もう死ぬ思い。この回復に2週間はかかっただろうか、やっと体力も回復したかと思った矢先、今度は変な風邪。37度前後の微熱が続き、咳と痰がなかなか収まらないし、足もとがおぼつかなく、どうも昨年流行した豚インフルエンザに罹ったよう。これが8月上旬まで続き、予定していた四国巡礼の旅も諦めざるを得ない状況に。そして連日の猛暑日、熱帯夜続きで、外に出るどころか、家にいても嫌な冷房をかけずにはいられないほどの暑さ。もう生きているのがせいぜいで何も手がつかず、やっと生き延びたというなんとも情けない夏ということになった。

8月下旬、やっと自分の足で歩けるという実感が戻ってきたんだが、今度は突然家族の一人が肺癌にかかって、9月にその手術をするという。もうびっくり仰天。2回にわたる手術と入退院の世話や見舞いに明け暮れているうちに今日を迎えたわけだ。大殺界、大殺界。

お盆

♪♪♪ 精霊流し ♪♪♪
 
お盆の季節がやってきた。
いつも思い出すのは、大叔母のいたころ、まだぼくが子どもの頃のお盆だ。
仏壇の前にはお供え物をするためのテーブルが準備され、白い布を敷いたその上には、ハスの花の蕾や実をかたどった色美しいはくせんこう、桃、なすび、スイカといった果物や野菜、大きな本物のハスの葉っぱ、その上にはこれも本物のハスの実、白い、なんだろう、何か植物の茎のような長いもの、親せきから供えられた様々なお菓子類が所狭しと並んでいる。
子供心に見ているだけでも楽しい。楽しいだけではない、お盆が終わるとお供物としておすそ分けにあずかるのだから待ち遠しい。
12日には、玄関先で大叔母がカチッ、カチッと火打ち石を鳴らし、仏様をお迎えする。お盆供養の始まりだ。
家(うち)にはお坊さんが三人やってくる。真言宗、浄土真宗、日蓮宗だ。家には大叔母が二人いて、どちらの旦那さんも他界していて子供もなく、その嫁ぎ先が浄土真宗であり、日蓮宗だったから一緒にお祭りしたのだろう。お坊さんが来るたびにその後ろに座らされ、一緒にお参りさせられるんだが、足が痛くて痛くて、だからよく覚えている。
15日になると、夕方、お供え物の一部を風呂敷に包み、ろうそくとお線香、そして小さな木箱を持って近くの淀川に行く。夕やみ迫る川べりには、たくさんの人が浴衣や着物姿で同じように手荷物を下げてやってきている。あちらこちらで、線香とろうそくを灯し、思い思いの舟形にお供え物を乗せ、中には小さな提灯をともしたものもあり、お祈りしながら川の流れに載せてお送りする。線香のにおいとお経の声が夕やみに流れていく。
これがぼくの思い出に残るお盆だ。
今もこういう風習が残っているんだろうが、俗世間にまみれてしまったぼくにはもう遠い遠い昔の思い出だ。

原子爆弾

2006年の夏、初めて広島の爆心地を訪れた。この日も暑かった。60歳を越しての訪問だ。
車で、高速道を使わず国道2号線をたどったのも、風光明媚な瀬戸内の景色を満喫したかったのと、広島までの距離感を実感したかったからだ。
途中友人を訪ねたり、大叔母からよく話を聞かされていた尾道の蓮華坂(れんがさか)も訪ねたり、丸二日がかりのドライブになった。
広島市内に入ってからは少し道に迷ったが、すぐに平和記念公園にたどり着けた。太田川の川洲にある記念公園は、広々として落ち着きのあるたたずまいではあるが何か心に凛とするものがある。
涼しい木陰をたどって慰霊碑前に着くと、祭壇には新鮮な献花がいっぱい並び、その前には、手を合わせていたり、じっと記念碑を見つめていたりする人たちが10人ばかりいた。
ぼくも用意してきた花を手向け、手を合わせたが、みるみる涙がほとばしり出てもう止めようがない。悔しいと言ったらいいのか、悲しいと言ったらいいのか、心の底からの慟哭だ。
慰霊碑の丸い中空の向こうに原爆ドームが見えた時は一瞬ドキッとした。この記念碑がそう設計されているのを知らなかったからだ。
その瞬間、今度は言いようのない怒りが込み上げてきた。
ここに原子爆弾を投下しなければならない必然性がどこにあったのか。すべてが人間のエゴでしかない。政治家も科学者もその力を誇示し試したかったその一点に尽きる。なにが「戦争を終結させるため」だ。
一握りの人間のエゴを満足させるためにその何万倍の人の命を一瞬にして奪ったこの事実を人はみな心に刻まなければならない。
いま、核廃絶を訴え、ノーベル平和賞を甘受したアメリカ大統領オバマは、この人類最大の愚行を認め、アメリカ大統領として率直に、原爆犠牲者にそして全人類に謝罪しなければならないのではないか。それができなくてなにが「核廃絶」だ。
人もそう、世の中もそう、国もそう、すべてが複雑に入り組み過ぎて、何が何だか分かりにくくなっている。この先、何を見据えて、何を行っていけばいいのか、頭の中だけそして口先ばかり達者になって、すべてが空回りしているこの現実は恐ろしい。
夏の暑いさなか、蝉だけが何か声高に鳴き続けているが、人も負けずに叫ばなければならないことがある。
 

夏の夕暮れ ― 金星、火星、土星、レグルス ―

7月20日、二日前に梅雨が明けた。途端にもう夏の真っ盛り、全国的に猛暑日が続き、気温35度を越えるところが続出。テレビでは盛んに「熱中症」の警告と予防を訴えている。
夕方、近くのスーパーに買い物に出かけたその帰り道、午後7時は過ぎているのに西の空はまだまだ明りをとどめ、青く澄みきった空には橙色から赤に染まったうす雲が、刷毛でなぞられたように、あっちにサーッ、こっちにサーッと漂っている。はるか向こうには淡路島の山並みが低く濃紺に沈み、右に展開する六甲山脈をはじめ、北も東ももうかなり薄暗いから、西の明るさは、まるで劇場の舞台のようだ。
その明るい西空に、ひときわ明るく光っているのが金星だ。宵の明星の形容にふさわしい明るさだ。さらにその少し南の上に心なしか赤い火星が、さらにその上に土星が、金星ほどではないが、それでも西空の明るさに負けないくらいの明るさで、見事に連なって見える。レグルスという恒星も見える。ずっと南に首を振ると、スポットライトが当たった舞台の天井の暗がりあたりに上弦の月が大きく輝いている。
目の前に広がるこの大パノラマを、いったい何人の人たちが見ているのだろう。まさかぼくだけではあるまい。しかし、ぼくの周りの観客席には誰もいない。耳にさしたイヤホーンからモーツアルトのレクイエム「入祭唄」が聞こえてくる。
さあ、長居はできない。舞台を背に農道を歩き出すと、4,50センチに伸びた田んぼの稲に大きなぼくの影が映って動く。
今年の夏も暑そうだぞ。でもいっぺんに元気が出てきた。しこたま買い込んだ食料品もそんなに重くは感じない。
遠くでまだ鳴いている蝉がいる。

余命いくばく ― 方丈記再読 ―

☆★☆ 方丈記 朗読 ☆★☆
 

『住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 

方丈記、冒頭の一節である。

高校生の時、この方丈記を初めて読んだ時の衝撃と言おうか、感動と言おうか、今でもこうして読み直してみて、また新たな思いでよみがえってくる。

自我に目覚め、我思うゆえに我あり、己を客体化して眺めることができるようになった時、そして「死」というものがとてつもない恐怖として感じ始めた時に出くわしたこの長明の文章は衝撃的であった。

しかしその時の死の恐怖は、その恐怖にも立ち向かっていくぞという、力強い生への決意と裏腹である。いわば、大海原を前にして、これからどんな大嵐に遭遇し、ひょっとしたら命を失うかもしれない、しかし船出するんだという果敢な決意を秘めていた。

だから、この長明の一節を読んだとき、なるほど死の恐怖を感じさせられはしたが、一面、その美文に酔い、死への陶酔さえ感じられる余裕すらあった。

今は違う。死は差し迫った現実だ。

 

今日、高校生と話していて、iPhoneにおもしろいアプリケーションがあるからダウンロードしろという。

なんだと聞いたら、余命を予告するプログラムで、それによると彼の余命は60年だそうだ。今彼は16歳だから76歳まで生きられるという。60年は短い。もっと生きたいと彼が言うんで、そんなこと信じるな、もっと生きられるよ、と励ましたが、まだこれから60年も生きられるなんて羨ましい限りだ。

ぼくなんて怖くて怖くて、こんなアプリケーション、ダウンロードできるはずがない。そこに突き付けられた余命は長くても知れているわけで、短かければショックでその場を取り乱すかもしれない。

いいよ、と断ると、察しのいい彼はすぐ別の話題に切り替えたが、はしなくも、最近どうも体調が思わしくなく、病院通いが増えて、その都度胸をよぎる「死」が、16,7歳前後に感じた「死」とは全く異質で、「美」のかけらもない現実なんだと改めて感じさせられた次第である。

 

孤独な群衆

 

コミュニティ・サイトが花盛りだ。ブログ、SNS、電子掲示板、チャット、メーリングリスト、ウィキ、数え上げたらきりがない。街中を歩いていても、携帯電話でピコピコしているのもこうしたサイトにアクセスしているんだろう。

Yahoo!パートナーやMatch.comといった出会いサイトを見ても、真剣な相手探しからひっかけ半分の投稿記事まで万とあり、mixiでは「マイミク」さん(仲よしさん)を何百人と持って、そんなにたくさんの仲よしさんとどう付き合うつもりなんだろう?と思える人たちがいたり、twitterと言って、ひとりブツブツつぶやくと、たちどころに見も知らぬ人から相づちを打ってくるものだから、つぶやくいている暇もないといったたぐいまで、実に多種多様だ。

一人が暮らす空間が地域だとか、学校だとか、ごく限られたものであったのが、ある意味、無限大に拡大したこうした世界が開けてまだたかだか20年かそこらだ。 バスが走り、鉄道が走り、誰もが車を持つ社会になって、ひと昔前なら「ど田舎」で、都会に出ることもままならなかっただろうと思える地域が、もう今では気軽に都会にも出られ、何不自由なく都会と同じ生活ができるようになったのと同じように、インターネットを利用した生活空間の広がりは、飛躍的どころか革命的といってもいいくらいの拡大をもたらした。

しかしよく考えてみると、交通手段の発展、交通網の拡大による人的交流とインターネットによるコミュニティ社会の拡大は本質的に大きな違いがある。

生身の人と人が接触するかしないかの違いだ。 インターネットによる生活空間はよく言われる「ヴァーチャル・リアリティ」の空間であって、そこで出会う人と人はあくまでヴァーチャル、幻想の人どうしなのである。インターネットを通しての言葉のやり取り、音声のやり取り、もっと便利になって映像のやり取りは限りなくリアリティを持つけれども、実物ではないし、実像ではない。

こうして出会いの場が増え、多くの人との交流が図れる世の中になっても、人の孤独は一向に解消されないどころか、その孤独から耐え切れず、自殺者は年間3万人を常に超え、自ら命を絶つ勇気も持たないまま、全く見ず知らずの他人を殺害して、死刑を志願する輩がここ最近増えてきた。

 もう半世紀以上も前になるが、アメリカの社会学者リースマンが「孤独なる群衆」で描きだした現代社会の病理はますます真実味を帯びてきた。

彼は言う。

土地に縛られ、階級に縛られ、社会的・地理的な移動はほとんどなく、個人の生れついた性別・身分に由来する特定社会の役割に限定されはするが、安定的な「伝統指向型」人間社会。

容易に土地を離れることができるようになり、共同体への恭順を逃れ、自己の持つ目的・目標に向かって、例えばそれはお金であったり、名誉であったり、善であったり、その方向を決めるのは自我を確立した個人であり、近代資本主義の担い手が中心になる「内部指向型」人間社会。

通信や交通が目覚ましい発展を遂げ、社会はますます流動化し、内面への指向すら立ち行かなくなった現代人は、他人との同調性を何よりとし、同時代人の反応にやたら敏感になり、他人の視線を常に気にする「他人指向型」人間社会。

このように、豊かな現代社会は、「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」をたどり、今や誰もが、いっけん無関心を装いつつも、他人の監視のもと、常に他人を意識しなければ生きていくことができない大衆社会の中で、その大衆性とは裏腹な「孤独」に耐えながら生きている。

と、リーマンは分析する。

 なんと鮮やかな予言。「孤独なる群衆」はリースマン、1950年の著書である。