朝まだき

日の出6時過ぎ、気温18℃、今日初めて長袖シャツを着こんでウォーキングに出かけた。あの酷暑がうそのよう。山の端から朝日が頭をのぞかせると、目の前に広がる田圃が金色に輝き、穂先に垂れ下がる朝露が丸くカットしたダイヤモンドのように陽光を屈折している。そこここに咲く彼岸花はスポットライトを当てられた千両役者のように秋をいっそう際立たせ、田んぼの一角になぜかぽつんと立っている金木犀からはあの何とも言いようのない芳香が漂ってくる。目を右に移すと、秋祭りの献灯提灯がもう何十個もずらっと並び、これから始まる今年最後の大騒ぎを控えて、まるで嵐の前の静けさだ。

こうして季節は巡り、秋の風情も昨年と変わらないだろうに、今年の秋もまた今までとは違った秋だ。そうだ、自然は未来永劫変わることなく巡るんだろうが、人が変わり、心が変わるんだ。あんなに元気でいた人が今年はもういないし、別の人は病に苦しんでいたり、そんなことを想うとさびしい秋だし、夜になると遠くから聞こえてくる、秋祭りの練習なんだろう、威勢の良い掛け声や鐘、太鼓の音が日に日に熱を帯びてくるのを聞いていると、また生きる勇気もわいてくる。

塵芥に紛れるもよし、自然に浸るもよし、わが同時代人たちよ、悔いなく生きろよ。

今年の夏は大殺界

もう9月も最後になった。9月の初めには全国各地35度を超す猛暑日続きで、この分ではいつ秋が訪れるやらと気をもんだものだが、今日の朝方は肌寒く、気温18度だ。
稲もたわわな畔や水路沿いに一斉に彼岸花が咲き始めた。いつもなら1週間前のお彼岸には咲き始めるから、ちょうど1週間遅れということになる。マツタケと同じで気温が18度前後に下がらなければ彼岸花も咲かない。やっと秋が訪れたわけだ。

さてさて、今年の夏は異常続きの夏だったわけだが、自分にとってもやっと乗り切れた夏になった。 6月初めに3度目の十二指腸潰瘍にかかり、いやな胃カメラを2回飲み、以前はアレルギー懸念で見送ったピロリ菌除去も今度こそはと志願して、7月に入って無事潰瘍もピロリ菌除去も終えたんだが、直後に軽い熱中症にかかり、もう死ぬ思い。この回復に2週間はかかっただろうか、やっと体力も回復したかと思った矢先、今度は変な風邪。37度前後の微熱が続き、咳と痰がなかなか収まらないし、足もとがおぼつかなく、どうも昨年流行した豚インフルエンザに罹ったよう。これが8月上旬まで続き、予定していた四国巡礼の旅も諦めざるを得ない状況に。そして連日の猛暑日、熱帯夜続きで、外に出るどころか、家にいても嫌な冷房をかけずにはいられないほどの暑さ。もう生きているのがせいぜいで何も手がつかず、やっと生き延びたというなんとも情けない夏ということになった。

8月下旬、やっと自分の足で歩けるという実感が戻ってきたんだが、今度は突然家族の一人が肺癌にかかって、9月にその手術をするという。もうびっくり仰天。2回にわたる手術と入退院の世話や見舞いに明け暮れているうちに今日を迎えたわけだ。大殺界、大殺界。

お盆

♪♪♪ 精霊流し ♪♪♪
 
お盆の季節がやってきた。
いつも思い出すのは、大叔母のいたころ、まだぼくが子どもの頃のお盆だ。
仏壇の前にはお供え物をするためのテーブルが準備され、白い布を敷いたその上には、ハスの花の蕾や実をかたどった色美しいはくせんこう、桃、なすび、スイカといった果物や野菜、大きな本物のハスの葉っぱ、その上にはこれも本物のハスの実、白い、なんだろう、何か植物の茎のような長いもの、親せきから供えられた様々なお菓子類が所狭しと並んでいる。
子供心に見ているだけでも楽しい。楽しいだけではない、お盆が終わるとお供物としておすそ分けにあずかるのだから待ち遠しい。
12日には、玄関先で大叔母がカチッ、カチッと火打ち石を鳴らし、仏様をお迎えする。お盆供養の始まりだ。
家(うち)にはお坊さんが三人やってくる。真言宗、浄土真宗、日蓮宗だ。家には大叔母が二人いて、どちらの旦那さんも他界していて子供もなく、その嫁ぎ先が浄土真宗であり、日蓮宗だったから一緒にお祭りしたのだろう。お坊さんが来るたびにその後ろに座らされ、一緒にお参りさせられるんだが、足が痛くて痛くて、だからよく覚えている。
15日になると、夕方、お供え物の一部を風呂敷に包み、ろうそくとお線香、そして小さな木箱を持って近くの淀川に行く。夕やみ迫る川べりには、たくさんの人が浴衣や着物姿で同じように手荷物を下げてやってきている。あちらこちらで、線香とろうそくを灯し、思い思いの舟形にお供え物を乗せ、中には小さな提灯をともしたものもあり、お祈りしながら川の流れに載せてお送りする。線香のにおいとお経の声が夕やみに流れていく。
これがぼくの思い出に残るお盆だ。
今もこういう風習が残っているんだろうが、俗世間にまみれてしまったぼくにはもう遠い遠い昔の思い出だ。

原子爆弾

2006年の夏、初めて広島の爆心地を訪れた。この日も暑かった。60歳を越しての訪問だ。
車で、高速道を使わず国道2号線をたどったのも、風光明媚な瀬戸内の景色を満喫したかったのと、広島までの距離感を実感したかったからだ。
途中友人を訪ねたり、大叔母からよく話を聞かされていた尾道の蓮華坂(れんがさか)も訪ねたり、丸二日がかりのドライブになった。
広島市内に入ってからは少し道に迷ったが、すぐに平和記念公園にたどり着けた。太田川の川洲にある記念公園は、広々として落ち着きのあるたたずまいではあるが何か心に凛とするものがある。
涼しい木陰をたどって慰霊碑前に着くと、祭壇には新鮮な献花がいっぱい並び、その前には、手を合わせていたり、じっと記念碑を見つめていたりする人たちが10人ばかりいた。
ぼくも用意してきた花を手向け、手を合わせたが、みるみる涙がほとばしり出てもう止めようがない。悔しいと言ったらいいのか、悲しいと言ったらいいのか、心の底からの慟哭だ。
慰霊碑の丸い中空の向こうに原爆ドームが見えた時は一瞬ドキッとした。この記念碑がそう設計されているのを知らなかったからだ。
その瞬間、今度は言いようのない怒りが込み上げてきた。
ここに原子爆弾を投下しなければならない必然性がどこにあったのか。すべてが人間のエゴでしかない。政治家も科学者もその力を誇示し試したかったその一点に尽きる。なにが「戦争を終結させるため」だ。
一握りの人間のエゴを満足させるためにその何万倍の人の命を一瞬にして奪ったこの事実を人はみな心に刻まなければならない。
いま、核廃絶を訴え、ノーベル平和賞を甘受したアメリカ大統領オバマは、この人類最大の愚行を認め、アメリカ大統領として率直に、原爆犠牲者にそして全人類に謝罪しなければならないのではないか。それができなくてなにが「核廃絶」だ。
人もそう、世の中もそう、国もそう、すべてが複雑に入り組み過ぎて、何が何だか分かりにくくなっている。この先、何を見据えて、何を行っていけばいいのか、頭の中だけそして口先ばかり達者になって、すべてが空回りしているこの現実は恐ろしい。
夏の暑いさなか、蝉だけが何か声高に鳴き続けているが、人も負けずに叫ばなければならないことがある。
 

夏の夕暮れ ― 金星、火星、土星、レグルス ―

7月20日、二日前に梅雨が明けた。途端にもう夏の真っ盛り、全国的に猛暑日が続き、気温35度を越えるところが続出。テレビでは盛んに「熱中症」の警告と予防を訴えている。
夕方、近くのスーパーに買い物に出かけたその帰り道、午後7時は過ぎているのに西の空はまだまだ明りをとどめ、青く澄みきった空には橙色から赤に染まったうす雲が、刷毛でなぞられたように、あっちにサーッ、こっちにサーッと漂っている。はるか向こうには淡路島の山並みが低く濃紺に沈み、右に展開する六甲山脈をはじめ、北も東ももうかなり薄暗いから、西の明るさは、まるで劇場の舞台のようだ。
その明るい西空に、ひときわ明るく光っているのが金星だ。宵の明星の形容にふさわしい明るさだ。さらにその少し南の上に心なしか赤い火星が、さらにその上に土星が、金星ほどではないが、それでも西空の明るさに負けないくらいの明るさで、見事に連なって見える。レグルスという恒星も見える。ずっと南に首を振ると、スポットライトが当たった舞台の天井の暗がりあたりに上弦の月が大きく輝いている。
目の前に広がるこの大パノラマを、いったい何人の人たちが見ているのだろう。まさかぼくだけではあるまい。しかし、ぼくの周りの観客席には誰もいない。耳にさしたイヤホーンからモーツアルトのレクイエム「入祭唄」が聞こえてくる。
さあ、長居はできない。舞台を背に農道を歩き出すと、4,50センチに伸びた田んぼの稲に大きなぼくの影が映って動く。
今年の夏も暑そうだぞ。でもいっぺんに元気が出てきた。しこたま買い込んだ食料品もそんなに重くは感じない。
遠くでまだ鳴いている蝉がいる。

余命いくばく ― 方丈記再読 ―

☆★☆ 方丈記 朗読 ☆★☆
 

『住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 

方丈記、冒頭の一節である。

高校生の時、この方丈記を初めて読んだ時の衝撃と言おうか、感動と言おうか、今でもこうして読み直してみて、また新たな思いでよみがえってくる。

自我に目覚め、我思うゆえに我あり、己を客体化して眺めることができるようになった時、そして「死」というものがとてつもない恐怖として感じ始めた時に出くわしたこの長明の文章は衝撃的であった。

しかしその時の死の恐怖は、その恐怖にも立ち向かっていくぞという、力強い生への決意と裏腹である。いわば、大海原を前にして、これからどんな大嵐に遭遇し、ひょっとしたら命を失うかもしれない、しかし船出するんだという果敢な決意を秘めていた。

だから、この長明の一節を読んだとき、なるほど死の恐怖を感じさせられはしたが、一面、その美文に酔い、死への陶酔さえ感じられる余裕すらあった。

今は違う。死は差し迫った現実だ。

 

今日、高校生と話していて、iPhoneにおもしろいアプリケーションがあるからダウンロードしろという。

なんだと聞いたら、余命を予告するプログラムで、それによると彼の余命は60年だそうだ。今彼は16歳だから76歳まで生きられるという。60年は短い。もっと生きたいと彼が言うんで、そんなこと信じるな、もっと生きられるよ、と励ましたが、まだこれから60年も生きられるなんて羨ましい限りだ。

ぼくなんて怖くて怖くて、こんなアプリケーション、ダウンロードできるはずがない。そこに突き付けられた余命は長くても知れているわけで、短かければショックでその場を取り乱すかもしれない。

いいよ、と断ると、察しのいい彼はすぐ別の話題に切り替えたが、はしなくも、最近どうも体調が思わしくなく、病院通いが増えて、その都度胸をよぎる「死」が、16,7歳前後に感じた「死」とは全く異質で、「美」のかけらもない現実なんだと改めて感じさせられた次第である。

 

孤独な群衆

 

コミュニティ・サイトが花盛りだ。ブログ、SNS、電子掲示板、チャット、メーリングリスト、ウィキ、数え上げたらきりがない。街中を歩いていても、携帯電話でピコピコしているのもこうしたサイトにアクセスしているんだろう。

Yahoo!パートナーやMatch.comといった出会いサイトを見ても、真剣な相手探しからひっかけ半分の投稿記事まで万とあり、mixiでは「マイミク」さん(仲よしさん)を何百人と持って、そんなにたくさんの仲よしさんとどう付き合うつもりなんだろう?と思える人たちがいたり、twitterと言って、ひとりブツブツつぶやくと、たちどころに見も知らぬ人から相づちを打ってくるものだから、つぶやくいている暇もないといったたぐいまで、実に多種多様だ。

一人が暮らす空間が地域だとか、学校だとか、ごく限られたものであったのが、ある意味、無限大に拡大したこうした世界が開けてまだたかだか20年かそこらだ。 バスが走り、鉄道が走り、誰もが車を持つ社会になって、ひと昔前なら「ど田舎」で、都会に出ることもままならなかっただろうと思える地域が、もう今では気軽に都会にも出られ、何不自由なく都会と同じ生活ができるようになったのと同じように、インターネットを利用した生活空間の広がりは、飛躍的どころか革命的といってもいいくらいの拡大をもたらした。

しかしよく考えてみると、交通手段の発展、交通網の拡大による人的交流とインターネットによるコミュニティ社会の拡大は本質的に大きな違いがある。

生身の人と人が接触するかしないかの違いだ。 インターネットによる生活空間はよく言われる「ヴァーチャル・リアリティ」の空間であって、そこで出会う人と人はあくまでヴァーチャル、幻想の人どうしなのである。インターネットを通しての言葉のやり取り、音声のやり取り、もっと便利になって映像のやり取りは限りなくリアリティを持つけれども、実物ではないし、実像ではない。

こうして出会いの場が増え、多くの人との交流が図れる世の中になっても、人の孤独は一向に解消されないどころか、その孤独から耐え切れず、自殺者は年間3万人を常に超え、自ら命を絶つ勇気も持たないまま、全く見ず知らずの他人を殺害して、死刑を志願する輩がここ最近増えてきた。

 もう半世紀以上も前になるが、アメリカの社会学者リースマンが「孤独なる群衆」で描きだした現代社会の病理はますます真実味を帯びてきた。

彼は言う。

土地に縛られ、階級に縛られ、社会的・地理的な移動はほとんどなく、個人の生れついた性別・身分に由来する特定社会の役割に限定されはするが、安定的な「伝統指向型」人間社会。

容易に土地を離れることができるようになり、共同体への恭順を逃れ、自己の持つ目的・目標に向かって、例えばそれはお金であったり、名誉であったり、善であったり、その方向を決めるのは自我を確立した個人であり、近代資本主義の担い手が中心になる「内部指向型」人間社会。

通信や交通が目覚ましい発展を遂げ、社会はますます流動化し、内面への指向すら立ち行かなくなった現代人は、他人との同調性を何よりとし、同時代人の反応にやたら敏感になり、他人の視線を常に気にする「他人指向型」人間社会。

このように、豊かな現代社会は、「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」をたどり、今や誰もが、いっけん無関心を装いつつも、他人の監視のもと、常に他人を意識しなければ生きていくことができない大衆社会の中で、その大衆性とは裏腹な「孤独」に耐えながら生きている。

と、リーマンは分析する。

 なんと鮮やかな予言。「孤独なる群衆」はリースマン、1950年の著書である。

 

心療内科って?

☆★☆ オーバードーズ ☆★☆

「医院が「心療内科」を掲げることができるようになったのは平成8年、1996年だから、「心療内科」ができてまだ20年足らずくらいしか経っていない。
「病は気から」という言葉は昔からあり、医学の分野では「心身医学」として、心と病の関係は早くから取り上げられてきたわけだが、それを具体化したのが「心療内科」である。
ちなみにこの「心療内科」という科目があるのは日本とドイツだけで、日本の大学の医学部でもこの講座がある大学は多くない。
本来、「心療内科」は「内科」という言葉が付いているように、消化器とか、循環器とかの疾患の治療にあたるのだが、原因が心(精神)にある場合、精神面から治療を施すことによって臓器の治療、回復を図るのが目的なのである。
ところが昨今、鬱とか、統合失調とか、今までなら「内科」ではなく「精神科」に通うべきはずの患者が、この「心療内科」に殺到しているそうだ。生徒の中にもそうした者が最近多くて気になっている。
「精神科」はどうも昔からの暗いイメージが染みついていて行きにくいが、その点「心療内科」は抵抗感なく気軽に行けそうな気がする。
なるほど、「心療内科」にも二系統あって、「内科」から衣替えしたのと、「精神科」から衣替えしたのとがあるそうで、もともと「精神科」であったところのほうが多いと、ものの本には書いてあるが、ぼくの知る限り、もともと「内科医院」だったほうが多い気がする。
それはそれとして、この行きやすい「心療内科」、あまりにも行きやすくなったものだから、どうも安易に行く向きが多いようで気になる。
鬱といえば鬱のような気もするし、なんやら障害といえばそのなんやら障害のような気もするんだが、別に病院にかかるほどでもないんじゃないと思えるような人まで、気軽にこの「心療内科」にかかる。
しかも問題なのはそれからなのだ。
この20年の間に精神医学が飛躍的に発展した。今までタブーにされてきた脳科学の研究が電子機器等の発達によってタブーでなくなり、それから生み出された成果が薬にも反映され、今まで精神療法でしか治療できなかった心の病が、大きく薬物治療に依存するようになった。今まで手の施しようがなかった重度の「鬱」も薬を飲めば劇的に効く。「心療内科」で処方される薬も実に効くそうだ。ちょっとしたイライラ感、睡眠不足、無力感、正常でなく心に引っかかりがあるとすぐ「心療内科」に行き、それもたいがい親が行かせるんだが、薬をもらい、正常に戻る、を繰り返している生徒に何人も出会った。
本来の薬物依存とまではいかないのかもしれないが、それに近いような安易さが気になってしょうがない。
今まで顕在化しなかった心のちょっとした異変が病院に行けば「…症候群」だったり、「・・・障害」だったり、必要もない病名が名付けられ、まるで10人いれば十人十色、その誰にでもそれなりの病名をつけられそうな状況だ。
怖いのは、精神医学が短期間に高度に発展した結果、こうして安易に薬に頼り、またまた「人間の浅知恵」に終わりはしないかということだ。

惑星探査衛星「はやぶさ」の成果

月までの距離が360,000km、小惑星「イトカワ」までの距離が300,000,000km、敢えて距離をこう表示したのも距離感を実感していただきたいからだ。
ちなみに、火星までの距離が80,000,000kmだから、「イトカワ」は月はおろか、火星のさらに彼方にある、直径わずか300m、長さ500mほどのジャガイモの形をした小惑星なのである。
しかも、ここ1億年の間に地球に衝突する可能性があり、衝突した暁には、恐竜絶滅の原因になった過去の小惑星衝突とは比べ物にならないほどの被害を地球にもたらし、人類絶滅の危険性もあるといわれるから、なんとも恐ろしい小惑星なのである。
その小惑星に、日本の惑星探査衛星「はやぶさ」が2003年5月に打ち上げられ、2005年11月ごろに着陸し、7年間、60億kmに及ぶ宇宙の旅を終えて、その土壌サンプルを持ち帰ったのだから、ぼくのように少し科学に関心を持つものならば、驚きと日本の宇宙科学の素晴らしさに、快哉を叫ばずにはいられないわけだ。
たとえて言えば、東京から鉄砲を打って、沖縄にあるゴルフ場のバンカーにあるゴルフボールを打ち抜くようなもの、それ以上なのである。
全重量500Kgだから、軽自動車800kgに比べても少し小さいくらいだが、最先端科学の粋を結集した探査衛星で、使われたエンジンは「イオンエンジン」という、これまた世界の最先端を行く未来エンジンなのである。日本の宇宙技術がNASAを越えたといわれるゆえんである。
テレビで「はやぶさ」がオーストラリアに帰還した様子が放映され、若者たちが万歳を三唱し、涙を流す者もいた、あの場面と意義をどれだけの人たちが理解できたであろうか。
これを一部の科学マニアの感傷だと放っておいていいのだろうか。未来に希望を託す若者たちを突き放していいのだろうか。
この「はやぶさ」プロジェクトにしても、予算は、当初17億円であったものが例の「事業仕訳」で7千万円に減額され、さらに今や3千万円である。 プロジェクトは中断を余儀なくさせられているのだ。
日本も今や経済大国2位の席を中国に譲り、韓国のサムスンには日本の電気メーカーが束になってもかなわなくなり、大学新卒生の就職もままならない、何もかもに閉塞感の漂う現状に甘んじていていいはずがない。
日本経済を引っ張ってきた自動車産業ももうぼつぼつ曲がり角に差し掛かっている今、これからの日本の未来を切り開いていくのは、こうした宇宙産業であり、原子力発電など新しいエネルギー技術であり、iPS細胞から創出される再生医療技術、環境技術である。
アメリカの宇宙産業は軍事面と深く結び付いていて、その成果が世界最大の武器輸出国になって跳ね返り国の財政を潤し、イギリスも、フランスも今や中国も同じなのである。世界が今最も注目する「武器輸出国家北朝鮮」をはるかにしのぐ武器輸出国なのである。
軍事産業が国の産業技術を先導し、発展させ、国家の財政を潤しているのは紛れもない事実であるが、日本はそういうわけにはいかない。
そうした中、「はやぶさ」の成果は、これからの日本の歩むべき方向を指し示しているだけでなく、今の若者に勇気を与え、希望を持って世界に伍していける未来産業の端緒になるのである。

母校を訪ねて

♪♪♪ 学生街の喫茶店 ♪♪♪

 

香港在住の友人が来日することになり、初夏の陽光も眩しい古都奈良を訪ねた。
先月5月2日にも「遷都1300年祭」を開催している平城京を訪れ、その際訪ねた奈良公園は、吹く風にもまだ肌寒さを感じるほどで、木々はまさしく若葉眩しいころであったが、たった1か月で緑も深まり、行き交う人もすっかり夏衣裳に変わっていた。
行きの車中、お互い昔同じ地域に住んでいたことは分かっていたが、同じ高校の同窓生であることまでは知らなかったから、それを聞いたときは奇遇の不思議さに二度びっくり、最初訪れる予定であった紫陽花の「矢田寺」もいつの間にか通り過ごし、ただただ思い出話に花を咲かせることになってしまった。
公園についても、歩けば歩くほど汗ばむほどで、涼を求めて入った食堂の和室で美味しいそうめんの定食を取りはしたが、それ以上の散策もあきらめ、それでは母校を訪ねてみようということになった。
奈良郊外もすっかり昔とは趣も変わり、新しい住宅街が延々と続くなか、大阪と奈良の県境を越えたところにあるわが母校を目指した。
幹線道路からどの道をたどれば母校にたどりつけるか、昔なら、この幹線道路から田んぼをへだててはるか向こうに見えた母校がもう今では家、家、家で全く見えない。
ええーい、ままよと入った道をたどると、昔はいかにも田舎の駅舎であった国鉄の駅舎はなく、モダンで大きなJRの駅ビルディングに変わっている。辻違いであった。
ここから少し離れた踏切りを渡って母校にも行けたが、いまは一方通行で車では渡れない。仕方なく元の幹線道路に引き返し、探し探しやっとのことで母校に辿り着くことができた。
と言っても最初は母校とは分からず、また道を間違えたのかと思ったほどだ。
学校を囲む高いコンクリート塀がモダンな鉄製のサッシ塀に代わり、薄汚れた校舎としか印象が残っていない校舎が薄く明るいベージュに色塗られ輝いている。校門もすっかり昔と違う。
しかし校門を入ると確かにわが母校だ。右に小さな庭園があり、こんもりとした木立は昔と変わらない。その横の校舎の入り口も昔のままだ。古い木製のドアで厚手のガラスが入っている。入ると大きな古い振り子時計があり、アーチ型の天井が向こうに続く廊下は何とも懐かしい。
土曜日だから学校は休みだが、クラブ活動の学生たちがあっちこっちにたくさんたむろしている。
友人は、校門の左にあった大きなクスノキがないとしきりにつぶやいている。
校門からすぐ向こうに見える小高い山のふもとには神社があり、友人はそこで「初キス」をしたと山を見上げて突然告白した。恥ずかしそうな姿が初々しい。
夏休み、裸で勉強した教室はどこだっけ、ぼくをよく呼んでお茶をすすめてくれた社会の先生はどの部屋だったけ、校門の前で仁王立ちになって遅刻生をにらみつけていた「ドンコ」(近藤先生)はもう立っていないのかなあ、・・・・・
思い出せば思い出すほど、ただ、胸が熱くなるばかりだ。