西行と清盛、そして定家

 
               願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ
 
西行の辞世の句ではないが、遺言の句といった趣のある歌である。彼はこの句の通り、新暦でいえば3月29日に入滅し、彼が望んだ釈迦入滅のわずか一日後だったということが西行伝説にいっそうのミュトスを加えることとなった。
西行は奥州藤原の血をひく武家の出で、当時の武士集団ではエリート中のエリート「北面の武士」に18歳で任官している。将来を嘱望されながら23歳で出家したことが伝説の始まりで、当時から出家の動機がいろいろ取りざたされた。(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋、といったところが通説である。
ここで別の視点を加えたい。平清盛の存在だ。
西行も清盛も1118年生まれ、同い年で、どちらも「北面の武士」として任官され、おそらくどちらも十代の若者として交流もあったであろうし、一方は権力の頂点に上り詰めた男であり、一方は歌人として「新古今」の筆頭に推挙された男、「北面の武士」数ある中でもこうして後世まで語り伝えられる二人は異色の存在であったに違いない。
西行は、言ってみれば、豊かな奥州藤原をバックに持つ素封家の御曹司、一方、清盛は武家集団のトップに君臨する「平」の跡取り息子、二人ののちの歩む姿から類推するに、立ち居振る舞いから考え方までまるで違った若者であったに違いない。共通するのは出自から来る「向こう意気の強さ」だけである。
西行は18歳で「尉」官、一方の清盛は12歳にして「佐」官である。今の軍隊の位と同じで大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉みたいなものであるから、「佐」と「尉」の階級差は歴然としている。西行は文武両道に優れ、周りの者からも、とりわけ宮中の女官たちからは、憧れの的の若武者であったであろうし、一方、清盛は十代のことはあまり語り伝えられていないことからおそらく「武骨」な、時には横暴な振る舞いも見せたであろう少年であったのではなかろうか。12歳にして「佐」官に抜擢されたのも、実は、平氏の棟梁忠盛の嫡子として生まれたのではなく、白河院と祇園女御との間に生まれた「蔭の子」だからだという説さえある。
西行は、この多感な十代に、清盛というのちに歴史上にも残る最高権力者とも交わり、人品の誉れだけでは世渡りできない現実社会に多くの矛盾を感じ、苛立ちを覚えたに違いない。
西行出家の動機には上にあげたように諸説はあるが、おそらくこれが根本動機であったのではないか。
漂泊の詩人、吟遊詩人、遁世の詩人といわれるにしては、最後まで俗世間から脱却しえず、東大寺再建の寄進要請が理由にしろ頼朝とひざを交えるなど、時の権力者とも常に交流を持ち続けたことをみても、また歌筋を観てもとことん「美」を求めた歌人ではない。「美」を衒ってはいるが、最後まで「生き方」にこだわった詩人である。
 三夕の歌を観ても、
   心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)
   見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮れ(定家)
まるで歌風が違う。
歌が芸術だとしたら、定家の歌がはるかに優れていると思うのは、ぼくだけではあるまい。
 
 

大発見、大発見 ― ジェルソミーナ ―


ある人と映画の話をしていて、感動した映画は? と聞かれ、すぐ思い出したのが「道」。
イタリアの映画で、フェデリコ・フェリーニが監督し、荒くれ男の大道芸人ザンパノがアンソニー・クイン、知恵遅れで純真なジェルソミーナがジュリエッタ・マシーナ、脇を固める綱渡り芸人がリチャード・ベイスハート、のたった3人によって、ニーナ・ロータの哀愁に満ちた「ジェルソミーナ」が流れる中、物語られていく典型的な道行映画である。
1954年の作品というから、計算すると、ぼくが11か12の時に見たことになるんだが、ずいぶんませていたんだなあ、と今更ながら自分を振り返る。
きっと、ジュリエッタ・マシーナが演じるジェルソミーナの何とも言えない純真な愛くるしさが、その年ごろの少年の心にも響くものがあったのであろう。。
あらすじは、
「道」をクリック ⇒ ☆★☆「道」☆★☆
を、見ていただくとして、
またまた、これがきっかけで嬉しい出会いがあった。
You Tube に出ていたこの「ジェルソミーナ」だ。
「ジェルソミーナ」をクリック ⇒♪♪♪ 「ジェルソミーナ」♪♪♪
Brabo! 素晴らしい!
ニーナ・ロータといえば、コッポラの「ゴッドファーザー」、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」など、数多くの映画音楽で有名だが、この「ジェルソミーナ」がぼくにとっては一番だ。
ハーモニカには、これもぼくにはせつない思い出があり、ここのブログリスト「ハーモニカ」にも載せてある。
是非「道」も見ていただきたい。そしてこの「ジェルソミーナ」も一緒に聴いていただきたい。
ぼくの映画遍歴はこのブログの上欄 「My Favorite Movies」に載せています。ご覧ください。

After Twenty Years ―その後―

☆★☆ After Twenty Years☆★☆

アメリカの短編小説家オー・ヘンリーに「After Twenty Years」という名作がある。
New Yorkで兄弟同然に育った18歳のBobと20歳のJimmyは、レストラン「Big Joe」で20年後の再会を約束し、翌朝、西部に運命を託すBobは、New Yorkをこよなく愛し離れることができないJimmy を残し旅立っていく。そしてちょうど20年後の午後10時、ダイヤモンドをちりばめた腕時計姿の’Silky Bob’は、氷雨降るNew Yorkの約束の場所で立っている。そこに警ら中の警察官がやってきて、ふた言み言ことばを交わすが、警察官はそのまま立ち去っていく。すぐその後、Jmmyになり済ました私服刑事が近づいてきて、指名手配中の’Silky Bob’を逮捕、連行していく。刑事から手渡されたJimmyの手紙には・・・。と、ざっとこんな話だ。
Jimmyは、はたして、約束を覚えていてそこにやってきたんだろうか、偶然やってきて、といつも思うことだ。
お彼岸の中日、偶然出くわした人の群れに巻き込まれるまま、ある有名寺院に参詣することになった。
その人込みを歩いていく中、すれ違いざま、30歳前後の女性と一瞬視線があった。確かに見覚えのある顔だ。もう10年以上も前に教えたことのあるAさんに違いない。美人で特徴のある顔だったからよく覚えている。向こうは気づいたのかどうか、気になったぼくは、UターンしてそっとそのAさんの後を追った。ひとりで、ジーパン姿に大きなハンドバッグを肩からしょい、歩く姿に元気がない、どこか拗ねた歩き方だ、と思えた。ときどき立ち止まっては露天の店の商品を覗き込んでいる、その時見える横顔に、あの昔のはつらつとした表情とは打って変わった精気のなさに、わが身も顧みず、10年の歳月の流れと彼女がたどったその後の人生に思いを馳せた。極端にいえば全くの人違いかもしれない。たまたま、その日はそんな姿かたちであったのかもしれない。できたら、人違いでもいい、言葉をかけてみたかったが、そんな勇気も湧いてこず、たとえAさんであったとしても、Aさんは喜ぶはずもないだろうと、あきらめた。

葬式は、要らない―島田裕巳―

☆★☆ 葬儀の費用 ☆★☆

書店には今年早くから置いてあった。行くたびに気にはなるのだが買って読もうという気にはなかなかならなかった。気にはなるのだがそれに抗う気持ちもあり、実に複雑な心理だ。しかし読んでよかった。今読みかけの別の本を擱いて、本当に一気に読んでしまった。そして今、多くの人たちに是非読んでもらいたい本だと思う。
著者は宗教学者の島田裕巳氏。裏表紙には次のように書いてある。
『日本人の葬儀費用は平均231万円、これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画などで見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額な戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の変遷をたどりつつ、今激しく変わる最新事情から、葬式無用の効用までを考察。葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊』
確かに結婚式と葬式には多額の費用がかかるというのは日本人なら共通の認識だ。結婚式なら分からなくもない。これから新しい希望に満ちた二人をできる限り豪華に船出させてあげたいというのが人情だ。それに結婚式はだれもが挙げるわけでもないし、豪華に挙げたからといってその二人が皆の期待にこたえるわけでもない。結婚しなくとも幸せな人生もあれば、二人だけの祝杯でだれよりも幸せな人生を送る二人もいる。
しかし、死は万人に必ずやってくるし、突如としてやってくる。結婚式を目指して胸ときめかせながら準備するのとはわけが違う。だれか身内の者が死ねば、さてすぐさま葬式のことを考えなければならない。1週間の猶予もない。式の段取りも何も分からないから専門業者に任せるしかない。なにやかやで結局平均231万円の費用がかかるということになってしまうのだろう。しかも葬儀だけでは済まない。お墓のこと、年忌法要のこと、もろもろを足せば、その費用は2倍にも3倍にもなりかねない。
この本ではそうした日本の葬式に関して歴史的、宗教的考察を加えたうえで、いかに日本の葬式が贅沢であり、「葬式仏教」に堕落した仏教界と都合のいい時だけ仏や寺院に押し掛けるわれわれ世俗の宗教観の矛盾を曝け出し、もっと合理的に葬式、人の弔い方を考えてみようではないかと提言している。
今は大半の人たちが病院で死を迎える。故人の遺体を自宅に搬送し、近親者だけで通夜をし、会葬者を呼ばない。翌日霊柩車で火葬場へ出棺、近親者だけで故人に別れを告げ、荼毘にふす。こうした直葬が東京都ではもう20%に達しているそうだ。葬式に要する費用はしめて10万円から30万円程度。諸般の経済事情、社会や宗教観の変化、もろもろの変化が葬式にも変化をもたらしているわけだ。
昨年だったか、一昨年だったか、映画「おくりびと」にはすごく感動した。
やがてやってくる自分の終末をじっくり考えてみなければならない。

加齢臭ー異様な嗅覚ー

最近「加齢臭」のコマーシャルが気になる。
ひとつは、本当にそんな匂いがあって、自分もそんな体臭を放ち、周りの人たちに不快な思いをさせているんだろうかという懸念。
もうひとつは、またまた売らんがための新しい商品開発とその宣伝攻勢ではなかろうか、「こんちくしょう」という腹立たしさ。
概して「匂い」にこんなに敏感になってきたのもこの時代の特徴だ。
環境汚染から発する悪臭、密集した住宅環境からもたらされる生活臭、ラッシュアワーで込み合った車内の独特な異臭、これらは確かにこの時代の産物だ。
それを反映したのか、気になるのは、人どうしが異常に「匂い」に敏感になっていることだ。
生徒に聞いてみると、友人が一日お風呂に入らなかったらわかるというから、いいのか悪いのか、まるで犬のような嗅覚だ。
一人の生徒なんか、一日何回もシャワーを浴びたり、お風呂に入るという。自分自身でも匂うし、人に感づかれたくないからだそうだ。
そして、女性がある程度「匂い」に敏感なのはわからなくもないが、男性が女性に劣らず「匂い」に敏感で、その対策に腐心しているというから、我々、いや僕からはなんとも異様としか感じられない。
いろんな要因が考えられる。
「匂い」という尖鋭な感覚がクローズアップされるほど、ある意味生活が豊かになり、悪く言えば「ヒマ」になり、そんなことに構ってなどいられないという時代とは違ってきたということ。
人と人の関係がデリケートになり、外見やまして内面的なことよりは、動物的な感覚で人を嗅ぎわけるほうが同調しやすい、ということではなかろうかと想像する。
「加齢臭」もそうした時代の流れから生まれた「匂い」であることは間違いない。
そもそも体臭というものは、分泌活動から発するもので、若い人ほど発散しやすいし、年をとれば当然衰えてきて、その手の匂いは少なくなるはずだ。
古いお寺や古書には独特な匂いがあるが、そんな匂いが「加齢臭」なのだろう。
調べてみたら、例の「資生堂」がその匂いを分析、特定し、「加齢臭」と命名したという。
それはそれでひとつの研究成果だと評価したいが、まるで鬼の首でも取ったように、やれ「加齢臭」だ、それにはこんな防臭薬だと、たとえ老人が嫌がられないようにという老婆心からであったにしても、ぼくなんかの様なひねくれ者には、「こんちくしょう」としか思われない。
でもやっぱし、人からは嫌がられたくないし、ホントにそんな匂いがするんかなァ???
 
 

優先座席は生きているの?

 
 大阪の地下鉄谷町線で帰宅途中、天満橋駅に着くとたくさんの小学生が乗ってきた。ランドセルに「追手門」と刻印してある。追手門学院の小学生たちだ。
 初めはその程度の気の留め方だったが、ひと駅過ぎ、ふた駅過ぎて、徐々にお客も減り、空席が目立ってきたのにその小学生達の誰一人として席に座る者がいない。
 小さい小学1年生くらいの生徒から女子生徒まで、大きなランドセルをしょい、手に補助カバンを持っている生徒も、全員が突っ立っている。
 あれっ、これは学校の指示なのかなと思い、6年生くらいの生徒に尋ねてみると、やはり、学校の登下校時に、電車の座席には座らないよう指示されているそうだ。
 心から快哉を叫ぶ思いだ。
 学校の意図はわからない。足腰を鍛えるための指示なのか、優先座席も何もあったものではない昨今の乗客マナーを身に付けさせないための教育的意図によるものなのか。
 どちらでもいいし、どちらも子供たちにとって大切なことだ。
 他の学校はどうなんだろう。電車にはあまり乗らないのでその辺りの事情はよくわからないが、込み合った電車で、お年寄りが近くに立っていても全く気にも留めず、優先座席に座って携帯電話やゲーム機でピコピコしている高校生や大学生と思しきやからを見かけることがよくある。
 さればと言って、この高校生や大学生も、人を思いやる心がないとは断言できない。そこまで気が回らないし、関心が行かないだけのことで、言ってやれば、きっとこの学生たちも済まない思いで快く席を譲るかもしれないし、そう思いたい。今の世の中、いい意味にも悪い意味にもお互いに無関心すぎるからなのだろう。
 どうだろう、いっそのこと、学生は全員、電車では座席に座らないということにすれば、学生たちにとっても良い教育になるし、それだけでも世の中、ひとつ浄化されることになるんではなかろうかと、
 ふと、今日出会った小学生達から考えさせられたことでした。
 
 
 

形骸化ー例えば教育現場ー

 
早いものでもう21世紀も10年も経ってしまった。
昨年はリーマンショックに端を発した世界同時不況は、本家本元のアメリカはその不況から脱し得ていないのは自業自得といえば自業自得なんだが、バブル崩壊後、各企業はスリム化し足腰が強化され、リーマンショックにもそれほど影響を受けることはあるまいとたかをくくっていた日本が、未だに低迷しているどころか、デフレ、デフレのスパイラルで民主党が掲げる「国内需要喚起」もままならず、40兆近くの税収不足はさらなる借金地獄に飲み込まれていく状況だ。
民主党政権が生まれ、明治維新に匹敵する革命だという人もおれば、どうせ自民党政権時代とは大して変わったこともあるまいという向きもある。どちらの予測が正鵠を穿っているのか判断できないが、社会の仕組全体が形骸化しているのは事実だ。状況状況に即して対応出来ていない現実がそこかしこに見受けられる。
長年教育の分野に携わってきたが、この分野はその最右翼と見ても差し支えあるまい。
第二次世界大戦以後も様々な教育改革がなされてきたが、屋台骨は結局は明治新政府が構築した学制の上に乗っかっているだけで、それ以来100有余年も経ち、当時とはまるで変化してしまった社会状況になっているにも関わらず、それに対応した教育環境が再構築されないままの状態で来ている。これは大枠から見た日本の教育事情で、もっと具体的、日常的に見受けられる様々な教育問題が例示的でわかり易い。
例えば高校の数学の授業。その現場をつぶさに見たわけではなく、いま家庭教師的に教えている生徒から聞く話で判断しているわけだが、先生も生徒もまるで「我慢大会」をしている授業の様子が見えてくる。
それほど学力の高い高校ではなく、文系の2年のクラスの「数学Ⅱ」の授業風景であるが、先生は黒板にひたすら解答を書いていて、大半の子はまじめでそれをノートに書き写しているが、それもただ写しているだけだと推測されるんだが、机の下でゲームをしている子、マンガ本を読んでいる子、居眠りをしている子、うわの空でただぼーっと黒板を見ている子、そんな生徒も結構いるそうだ。そのクラスの子達は一応大学受験を目指している子が多いそうだが、「数学Ⅱ」までいる子はほとんどいないという。教えている生徒が持ってくる問題集も、およそこの生徒には無理難題の「赤本」という最高レベルの問題集だ。それでも何時何日までに出された宿題をやっていかねばと、教えて欲しいと持ってくる。一所懸命教えてはやるが、わかってくれているのやらどうやら、なにか虚しい。こうして「我慢大会」に付き合せられるハメになることしばしばである。
「我慢大会」のような授業から得られるのは先生も生徒も「忍耐力」だけだ。
こと「数学Ⅱ」だけではない。「英語」その他の科目もまた然り。教育現場の至る所でこうした形骸化した、古くさい授業形態や、使いもしないのに常に最新のコンピューターが並ぶ「コンピュータ教室」、ただ上からだけの教育改革、そんなもので満ち溢れている。
敷衍すると社会全般にもこんなこと、つまり「形骸化」が満ち溢れているわけで、これが無駄を生み、国中借金にまみれ、ますます世の中を住みにくくしている。
やはりどこかで、「革命」ってやつがいるのかな!?
 
 

これってホント?ーインフルエンザウィルスは寒さと乾燥に強いー

 
 ある大手製薬会社の健康サイトに、「寒さと乾燥に強く、暑さと湿気に弱いインフルエンザウイルスにとって、冬は最も活発になれる季節。インフルエンザが冬に流行るのは、そのためです。」と書いてあるんですね。ちなみに、他の「インフルエンザ」とか「風邪」とかで検索して調べてみたら、例えば、「のどの粘膜が乾くと風邪の原因となるウイルスが体内に侵入しやすくなってしまいます。のどの乾燥を防ぐため室内では加湿器 を使うとよいでしょう。湿度は60~80%くらいに設定します。ウイルスは空気が乾燥した状態で活動が活発になり、逆に湿度が高いと死滅します。」といったように、どれもこれと似たり寄ったりの表現が多いんです。
 果たしてそうでしょうか。ウイルスの専門家ではありませんので、ここに言われている事の真偽を判定する能力は持ち合わせていませんが、ウイルスといえども生物の範疇、つまり、細胞をベースにして生命活動を行う生命体とは言えないかもしれませんが、自己増殖をおこなうという意味では限りなく生物に近い存在で、適度の温度と適度の湿度は生命体維持にとって重要条件になると思います。
 ですから、インフルエンザウィルスが「寒さと乾燥」に強く「冬に最も活発になれる」のではなくて、冬は外気が寒くて乾燥していて活発に活動できないから、暖かくて湿潤な人の体内は格好のすみかになり、他の季節に比べて圧倒的に体内に入ってくるウィルスが多くなる。ウィルス自体は季節のいかん、自然環境のいかんを問わず常時、体の内外に存在するけれどもその数が問題で、ある限度以上に体内で増殖するといろんな悪さをしだすわけで、冬にインフルエンザウィルスが猛威をふるうのは、「寒さと乾燥に弱く、適度な暑さと湿気に強いインフルエンザウィルスにとって、冬は人の体内で最も活発になれる季節。インフルエンザが冬に流行るのは、そのためです。」となるんではないかと、だから、部屋を暖かくして湿度を60~80%くらいに設定するとウィルスは何も人の体内に逃げ込む必要がないわけで、部屋の中に居場所を移す、よって体内のウィルスは絶対量が減るからインフルエンザにかかりにくくなる、と、こう考えるのが正しいんじゃないかと思うんですがね。
 誰かウィルスに詳しい人、教えてくれませんかね。
【追伸:2019年】
今年は8月から全国的にインフルエンザが流行っているそうです。沖縄では警報も出ています。この原因も同じで、猛暑でインフルエンザ菌は耐えられず、環境的に好都合な人体に避難してくるからです。早く学者諸君、検証してください。
 
【参考】

私信ー大原の里を訪ねてー


今朝の朝食は身も心も暖まる朝食になりました。
いただいた大根はふろふきにして、昨日大原で買っていただいた「ゆず味噌」をたっぷりとぬり、暖かい玄米ご飯で食べたらもう最高でした。
それと、この大根に付いていた葉っぱ、普段買う大根にはこれが付いていなくて、それも沢山付いているのでどうしたものかと思案していてですね、ちょっと葉っぱの端っこを生のまま食べてみたら、とても柔らかくほろ苦みがあって美味しんです。これはもったいない、さっそく買ってあった鶏肉と醤油の薄味で、葉っぱの緑が消えない程度に煮込んで食べてみたら、これがまた実に美味しい。
最後に食べた赤かぶらのお漬物も美味しいし、最高の朝食になりました。
京都大原といえば、たしか寂光院が焼ける前だったからもう十年以上になりますか、それまでにも何回かは行ったことがあるんですが、その時は鞍馬からひと山越えて歩いていったことを思い出しました。昨日もそうですが、大原は里道がいいですね。至る所に清流があり、美しい野草を見て歩くのも楽しいし、ちょっとしたお店で民芸品や焼き物を見るのも楽しい。どこからともなく芳香が漂ってくるので先を見ると、テントの中でお茶を炒っているお店がある。挽き茶を摘んでみると香りがぱあっと口に広がり、心もやすらぎました。
寂光院のお堂はすっかり新しくなっていて、六万体地蔵菩薩も当初の彩りを蘇らせ、それはそれなりに美しく、これからも多くの人達のご礼拝をお迎えになるのでしょうが、お堂が焼けたときは本当にびっくりしましたね。金閣寺の時もそうでしたが、昼間の喧騒がおさまり、本当の静寂が訪れたとき、闇夜の静寂にたたずむ無限に美しきものを独占したいという気持ちと、おのが身と心の醜さに引き比べて嫉妬し、炎という情念の中にかき消したいという人の魔性を引き出した結果だと思いました。
紅葉はもう盛りを過ぎ、温かい陽だまりの所だけかろうじて大原の紅葉をとどめていましたが、それもそのはず、昨日食べに入ったお店は客席が全部電気炬燵でしたものね。白いお餅の入った小豆ぜんざいで体が暖まりほっとしましたよ。
もう今年もあとわずか、お互い元気に年を越せますよう。合掌。
035大原にて

西国三十三箇所を巡り終えて

♪♪♪ 西国三十三箇所御詠歌 ♪♪♪

「西国三十三箇所巡礼」とタイトルに謳いたいところだが、おこがましくも「巡礼」というほどの信仰心をもっての旅ではなかった。
4年前の2005年(平成17年)9月18日、第一番札所である和歌山県紀伊勝浦町にある「那智山青岸渡寺」から始まった西国三十三箇所巡りを先日、2009年(平成21年)11月23日、最後の第三十三番札所である岐阜県揖斐川町にある「谷汲山華厳寺」でやっとのことで終えた。
思えば、本屋さんでたまたま西陣織の表紙の付いた「西国三三所観音霊場御納経帳」を見かけたのが動機といえば動機だった。
本の見開きに「観音菩薩」の絵があって、各ページには札所札所のお寺の水彩画が描かれてある。昔住んでいたところに「富田」さんという画家がおられて、画風がとてもよく似ているが、納経帳のどこを探しても作者の名前が見当たらない。どなたが描いた水彩画か知らないが、ここに描かれたお寺をこの目で見たいという思いと、そこを1,000年余という歳月を超えて巡ってきた人たちの思いを探ってみたかったというのも動機の一つにはなったような気がする。
札所一番の「青岸渡寺」は和歌山県の紀伊勝浦にあるので、車を持たない僕は、世界最軽量の自転車DAHONを買い、これを担いでJR紀勢西線の「くろしお号」に乗ったのが旅の始まりだ。「ホテル浦島」の洞窟温泉で旅支度を解いた翌日、標高600m位の「青岸渡寺」を目指し一気に駆け上った思い出が沸々と蘇ってくる。
思い起こせば、三十三のどのお寺にもその石段には過去幾多の人たちが踏み込んだ足跡が刻みこまれ、寺門や御堂の至る所に張られた「千社札(せんしゃふだ)」という紙のお札には、現世でへばりついた垢を少しでも拭い去り極楽往生を願う、ある意味強欲な「人の身勝手」も感じられなくもなかった。
それにしても総行程1,000kmに及ぶといわれる「西国三十三箇所」を昔の人たちは歩いて巡ったわけだが、どのお寺も総じて険しい山道をたどらねばならない場所にあり、いったい人をして今に至るまで何がここまでに執着させるのか、どんな思いも一点、やはり誰も避けることのできない「死」に対する恐怖、戸惑い、心づもりからであり、そしてそれらをいっとき忘れことができる巡礼の苦しさ、また楽しさなのだろう。