水無月

♪♪♪ 薪能 ♪♪♪
月日の経つのは全く早いものだ。月並みな感想だが実感だからしょうがない。
梅を追い、桜を追い、バラを追いかけていたらいつの間にか菖蒲ですぐ紫陽花だ。もう今年も半ばにさしかかっている。
花ばかり追いかけるのも歳のせいだといわれるのはしゃくだから言っておくが、昔は高山植物にとりつかれ命を賭して深い山々まで分け入ったこともある。
自然の造形はなぜかくも美しいのか、なぜこんなに美しくなければならないのか、人を喜ばせるために単に美しいわけではないだろう。
そこにはやはり己が生命の保全と種の永遠性を保つための進化と適応性から生まれ出た象形が美しさとして感知されるのだろう。
フィボナッチ数列というたわいもない数列が、自然の造形美を人に説明していることはつとに知られている。
オウム貝の渦巻き、ヒマワリの種の配置、松ぼっくりの鱗片の付き方、マウスの繁殖の仕方、植物の葉の付き方、はたまた、パルテノン神殿の構造美、北斎の「神奈川沖浪裏」にみられる構図の美しさ、数え上げればきりがない。
自然の造形美が数(すう)であらわされる神秘は、自然のそして人工の造形美にも法則があることを告知している。でたらめではないのだ。
その自然の美しさに人は見とれ、ため息をつき、歳をとればとるほどひきつけられるのは、暇だからでもなければ、心に余裕ができたからでもきっとない。
神にすがり、仏にすがるのと同じで、命の安全性、永遠性を願ってのことに違いない。目の前に具象化された花々の美しさにそれを観るのだ。
6月1日と言えば、京都では平安神宮で「薪能」が奉納され、学生時代には毎年のように出かけていたものだ。
緩にして急、能舞いからもうかがえる人の一生は、まさに花と同じ、緩にして急なのである。

姥捨て山は今も

 
 リュックをしょって野道を行く人、サイクリングロードを颯爽と疾駆する人、二人仲好くジョギングするご夫婦、海辺でのどかに魚を釣る人、
 どれをとっても一服の写真になりそうな平和で幸せそうな光景だ。
 大型ショッピングセンターの大きなテレビを腰掛けて見入る中高年者たち、レジカウンターで食料品を手にして並んでいるひとり暮らしと思しき男たち、
 どれもみんな平日真昼間の光景だ。
 どこに行ってもどこに出かけてもこうした中高年の人たちがやたら目につく。
 自分も傍目から見ればその一員なんだが、その自覚が足りないまま、じっと観察しながら、この文章を書いている。
 果たしてこの人たちは本当に幸せなんだろうか、何を思いながら生きているんだろうか。
 もういいから静かに休んでください、私たちが面倒をみるから余生を楽しんでください、だと!
 いやいや、怒っちゃいけない、怒っちゃいけない、静かに静かに、腹を立ててはいけないよ。
 世の中そうなっているんだよ。もう十分働いてきたんだから、子供も育て、孫もできているんでしょ。
 そうかなあ、なんかだまされてる気分がするるんだけどなあ。
 誰が決めたの? いつ決めたの? その発想時代遅れじゃないの?
 いま人生、女性で84歳、男性で79歳の時代だよ。明治時代とは言わないまでも、大正、昭和の時代に形成された、例えば定年制をはじめとする労働観、そんな古臭い考え方で、ぼくらを追い払わないでくれよ。
 なんやら独立行政法人をご覧よ。バリバリ働いているかどうか知らないけど、とっくに定年過ぎているわが同輩たちが、法外な報酬を取って働いているんだよ。
 ずるいよ。
 われわれその日暮らせりゃ、何もそんな高いお給料ほしいと言ってるわけじゃなし、場合によっちゃ、お金なんていらない、とにかく働かせてくれって言っているだけなんだぜ。
 そうだろ、「勤労の義務」は憲法にだって謳われているんだよ。これなにも単に「国民はみんな働かなきゃいけないぞ」と言っているんじゃないんだよ。
 健康で文化的な生活を営むための国民の義務を規定してるんだよね。働かなきゃ、健康で文化的な生活は送れないよ、そのためにゃ働かなきゃいけないよ、って言っているんだと思うけどね。
 それともこうかい。お前たちはもう健康で文化的な生活を営むこともない、だから遊んでりゃいいだよ、ってーの。
 このまますね言言うのもいやだから、いっそのこと独立行政法人宇宙航空研究開発機構で「姥捨てロケット」でも作って、宇宙のかなたに放ってくれないかなあ。
 

中国人とパチンコ

中国人の友人と話していて、「中国にはどうしてパチンコがないの?」と聞くと、その答えがおもしろい。
中国でパチンコを解禁したら、とんでもないことになる。国中にパチンコ店ができ、パチンコ店に入り浸る人が一億人にはなるね。
だ、そうだそうだ。
一億人というと、日本の赤ちゃんからおじいちゃんおばあちゃんを含めて一億人だから、日本人全員がパチンコ店に入り浸ることになる。
ちょっと大げさに言ったのだろうが、友人の真顔から反論もはばかられた。
中国では、基本的には賭博は禁じられている。おそらく、中国人の賭博好きを知っての立法であろう。
それでも、マカオはアメリカのラスベガスに次ぐ政府公認の賭博が行われているのはよく知られたことであり、家庭内での賭け麻雀や賭けトランプは許されている。
実際、中国の至るところで、昼間から路上で麻雀卓囲んでいたり、テーブルでトランプに興じている光景をよく見かける。大概が賭けているそうだ。
マカオは国際賭博場であり、中国の外貨獲得という国の目的があり、庶民には手が届く賭博場ではないからいいとしても、家庭内の小賭博を認めてるところがまたおもしろい。
日本では競馬、競輪、宝くじ、TOTOといった政府公認の賭博以外は家庭内においても禁じられているから、窮鼠が猫を噛まない措置を講じているわけだ。
中国には1840年の「阿片戦争」に象徴されるように、国の存続さえ危うくするような「自制心のなさ」の自覚が底流にはあるのだろう。
「宗教は阿片」、ベートーベン、ゴッホ、ビートルズなど等「ブルジョア芸術は阿片」と、ひところはプロパガンダされたことがある。賭博も阿片なのだ。
魯迅が中国人の典型として描き出した「阿Q」は中国人インテリの頭からいまも消えず、自己の阿Q性を唾棄したくてもしきれない根性がくすぶり続け、権力を握る共産党幹部にはこの自縄自縛から解き放たれることなく、国民全体に真の自由を与えたら何をしでかすかわからない、中国には中国のやり方がある、人権よりも国の団結、と、國際社会では異質に見える「中国流」をいたるところで喧伝してはばからず、中国人同士では政府の悪口を口にし反目しあっても、対外的にはものの見事に一致団結、愛国心と中国こそ21世紀の覇者と胸を張る。
中国でパチンコが解禁されるのは、阿Qの非科学的思考、盲目的権威崇拝、際限なき自尊心、独善的「精神勝利法」から決別する時だろう。

ゴールデンウィーク

 
 毎年思うことだが、この五月の連休を4月29日から5月5日までぶっ通しにすればいいのに。
 実際そうしている企業もたくさんあるが、ぼくがみている生徒達はそうではない。
 今年に例をとると、公立中学校と高校は間の4月30日だけ登校、私学に通う生徒は4月30日と5月1日の2日は登校しなければならない。
 みんなブーブー言っている。当たり前だよな。何が連休だ。何がゴールデンだ。
 お父さんが休みで、せっかく家族揃ってみんなで何処かに行けるはずが行けない。
 そして学校に行っても、授業はなく、リクリエーションだったり、どこかに見学に行ったり、面白くもない行事に参加させられるそうだ。
 学校も、つまり先生もきっとつまらないんだ。仕方なくそうしてお茶を濁しているだけ。
 ここでもまたまた日本人の大好きな「我慢大会」!
 気がすすまないけど、考えても仕方ないんで、言ってもどうにもならなし、等々と心ではつぶやくんだけれど。
 どうも日本はこういう、ただそう成っているからとか、ただ昔からあるからとかということが多すぎる。
 だから、こういう事が積み重なると、今問題になっている「独立行政法人」も存続し続ける事になるだろうし、お役所仕事はお役所仕事のままだし、学校はますます荒れ放題だし、少子化はドンドン進むし、沖縄の基地問題だって、そもそも米軍基地が日本国内にこんなにあってもいいのかという根本を考えないから、国際社会からは振り向かれなくなるし、ろくなことはない。
 トドの詰まり、にっちもさっちも行かなくなるだけだ。
 まだまだ社会経験も浅く、窮屈さを肌で感じ、ブーブー言うだけの元気さはある若者も、やがてはその元気さも失い、けだるい社会に組み込まれ、「我慢大会」を忍んでいくしかない社会に未来はない。
 たかがゴールデンウィークのこと、されどゴールデンウィークのこと、ゴールデンがその名の通りゴールデンなのか、考えるだけでも今の日本が見えてくる。
 
 

西行と清盛、そして定家

 
               願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ
 
西行の辞世の句ではないが、遺言の句といった趣のある歌である。彼はこの句の通り、新暦でいえば3月29日に入滅し、彼が望んだ釈迦入滅のわずか一日後だったということが西行伝説にいっそうのミュトスを加えることとなった。
西行は奥州藤原の血をひく武家の出で、当時の武士集団ではエリート中のエリート「北面の武士」に18歳で任官している。将来を嘱望されながら23歳で出家したことが伝説の始まりで、当時から出家の動機がいろいろ取りざたされた。(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋、といったところが通説である。
ここで別の視点を加えたい。平清盛の存在だ。
西行も清盛も1118年生まれ、同い年で、どちらも「北面の武士」として任官され、おそらくどちらも十代の若者として交流もあったであろうし、一方は権力の頂点に上り詰めた男であり、一方は歌人として「新古今」の筆頭に推挙された男、「北面の武士」数ある中でもこうして後世まで語り伝えられる二人は異色の存在であったに違いない。
西行は、言ってみれば、豊かな奥州藤原をバックに持つ素封家の御曹司、一方、清盛は武家集団のトップに君臨する「平」の跡取り息子、二人ののちの歩む姿から類推するに、立ち居振る舞いから考え方までまるで違った若者であったに違いない。共通するのは出自から来る「向こう意気の強さ」だけである。
西行は18歳で「尉」官、一方の清盛は12歳にして「佐」官である。今の軍隊の位と同じで大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉みたいなものであるから、「佐」と「尉」の階級差は歴然としている。西行は文武両道に優れ、周りの者からも、とりわけ宮中の女官たちからは、憧れの的の若武者であったであろうし、一方、清盛は十代のことはあまり語り伝えられていないことからおそらく「武骨」な、時には横暴な振る舞いも見せたであろう少年であったのではなかろうか。12歳にして「佐」官に抜擢されたのも、実は、平氏の棟梁忠盛の嫡子として生まれたのではなく、白河院と祇園女御との間に生まれた「蔭の子」だからだという説さえある。
西行は、この多感な十代に、清盛というのちに歴史上にも残る最高権力者とも交わり、人品の誉れだけでは世渡りできない現実社会に多くの矛盾を感じ、苛立ちを覚えたに違いない。
西行出家の動機には上にあげたように諸説はあるが、おそらくこれが根本動機であったのではないか。
漂泊の詩人、吟遊詩人、遁世の詩人といわれるにしては、最後まで俗世間から脱却しえず、東大寺再建の寄進要請が理由にしろ頼朝とひざを交えるなど、時の権力者とも常に交流を持ち続けたことをみても、また歌筋を観てもとことん「美」を求めた歌人ではない。「美」を衒ってはいるが、最後まで「生き方」にこだわった詩人である。
 三夕の歌を観ても、
   心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)
   見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮れ(定家)
まるで歌風が違う。
歌が芸術だとしたら、定家の歌がはるかに優れていると思うのは、ぼくだけではあるまい。
 
 

大発見、大発見 ― ジェルソミーナ ―


ある人と映画の話をしていて、感動した映画は? と聞かれ、すぐ思い出したのが「道」。
イタリアの映画で、フェデリコ・フェリーニが監督し、荒くれ男の大道芸人ザンパノがアンソニー・クイン、知恵遅れで純真なジェルソミーナがジュリエッタ・マシーナ、脇を固める綱渡り芸人がリチャード・ベイスハート、のたった3人によって、ニーナ・ロータの哀愁に満ちた「ジェルソミーナ」が流れる中、物語られていく典型的な道行映画である。
1954年の作品というから、計算すると、ぼくが11か12の時に見たことになるんだが、ずいぶんませていたんだなあ、と今更ながら自分を振り返る。
きっと、ジュリエッタ・マシーナが演じるジェルソミーナの何とも言えない純真な愛くるしさが、その年ごろの少年の心にも響くものがあったのであろう。。
あらすじは、
「道」をクリック ⇒ ☆★☆「道」☆★☆
を、見ていただくとして、
またまた、これがきっかけで嬉しい出会いがあった。
You Tube に出ていたこの「ジェルソミーナ」だ。
「ジェルソミーナ」をクリック ⇒♪♪♪ 「ジェルソミーナ」♪♪♪
Brabo! 素晴らしい!
ニーナ・ロータといえば、コッポラの「ゴッドファーザー」、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」など、数多くの映画音楽で有名だが、この「ジェルソミーナ」がぼくにとっては一番だ。
ハーモニカには、これもぼくにはせつない思い出があり、ここのブログリスト「ハーモニカ」にも載せてある。
是非「道」も見ていただきたい。そしてこの「ジェルソミーナ」も一緒に聴いていただきたい。
ぼくの映画遍歴はこのブログの上欄 「My Favorite Movies」に載せています。ご覧ください。

After Twenty Years ―その後―

☆★☆ After Twenty Years☆★☆

アメリカの短編小説家オー・ヘンリーに「After Twenty Years」という名作がある。
New Yorkで兄弟同然に育った18歳のBobと20歳のJimmyは、レストラン「Big Joe」で20年後の再会を約束し、翌朝、西部に運命を託すBobは、New Yorkをこよなく愛し離れることができないJimmy を残し旅立っていく。そしてちょうど20年後の午後10時、ダイヤモンドをちりばめた腕時計姿の’Silky Bob’は、氷雨降るNew Yorkの約束の場所で立っている。そこに警ら中の警察官がやってきて、ふた言み言ことばを交わすが、警察官はそのまま立ち去っていく。すぐその後、Jmmyになり済ました私服刑事が近づいてきて、指名手配中の’Silky Bob’を逮捕、連行していく。刑事から手渡されたJimmyの手紙には・・・。と、ざっとこんな話だ。
Jimmyは、はたして、約束を覚えていてそこにやってきたんだろうか、偶然やってきて、といつも思うことだ。
お彼岸の中日、偶然出くわした人の群れに巻き込まれるまま、ある有名寺院に参詣することになった。
その人込みを歩いていく中、すれ違いざま、30歳前後の女性と一瞬視線があった。確かに見覚えのある顔だ。もう10年以上も前に教えたことのあるAさんに違いない。美人で特徴のある顔だったからよく覚えている。向こうは気づいたのかどうか、気になったぼくは、UターンしてそっとそのAさんの後を追った。ひとりで、ジーパン姿に大きなハンドバッグを肩からしょい、歩く姿に元気がない、どこか拗ねた歩き方だ、と思えた。ときどき立ち止まっては露天の店の商品を覗き込んでいる、その時見える横顔に、あの昔のはつらつとした表情とは打って変わった精気のなさに、わが身も顧みず、10年の歳月の流れと彼女がたどったその後の人生に思いを馳せた。極端にいえば全くの人違いかもしれない。たまたま、その日はそんな姿かたちであったのかもしれない。できたら、人違いでもいい、言葉をかけてみたかったが、そんな勇気も湧いてこず、たとえAさんであったとしても、Aさんは喜ぶはずもないだろうと、あきらめた。

葬式は、要らない―島田裕巳―

☆★☆ 葬儀の費用 ☆★☆

書店には今年早くから置いてあった。行くたびに気にはなるのだが買って読もうという気にはなかなかならなかった。気にはなるのだがそれに抗う気持ちもあり、実に複雑な心理だ。しかし読んでよかった。今読みかけの別の本を擱いて、本当に一気に読んでしまった。そして今、多くの人たちに是非読んでもらいたい本だと思う。
著者は宗教学者の島田裕巳氏。裏表紙には次のように書いてある。
『日本人の葬儀費用は平均231万円、これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画などで見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額な戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の変遷をたどりつつ、今激しく変わる最新事情から、葬式無用の効用までを考察。葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊』
確かに結婚式と葬式には多額の費用がかかるというのは日本人なら共通の認識だ。結婚式なら分からなくもない。これから新しい希望に満ちた二人をできる限り豪華に船出させてあげたいというのが人情だ。それに結婚式はだれもが挙げるわけでもないし、豪華に挙げたからといってその二人が皆の期待にこたえるわけでもない。結婚しなくとも幸せな人生もあれば、二人だけの祝杯でだれよりも幸せな人生を送る二人もいる。
しかし、死は万人に必ずやってくるし、突如としてやってくる。結婚式を目指して胸ときめかせながら準備するのとはわけが違う。だれか身内の者が死ねば、さてすぐさま葬式のことを考えなければならない。1週間の猶予もない。式の段取りも何も分からないから専門業者に任せるしかない。なにやかやで結局平均231万円の費用がかかるということになってしまうのだろう。しかも葬儀だけでは済まない。お墓のこと、年忌法要のこと、もろもろを足せば、その費用は2倍にも3倍にもなりかねない。
この本ではそうした日本の葬式に関して歴史的、宗教的考察を加えたうえで、いかに日本の葬式が贅沢であり、「葬式仏教」に堕落した仏教界と都合のいい時だけ仏や寺院に押し掛けるわれわれ世俗の宗教観の矛盾を曝け出し、もっと合理的に葬式、人の弔い方を考えてみようではないかと提言している。
今は大半の人たちが病院で死を迎える。故人の遺体を自宅に搬送し、近親者だけで通夜をし、会葬者を呼ばない。翌日霊柩車で火葬場へ出棺、近親者だけで故人に別れを告げ、荼毘にふす。こうした直葬が東京都ではもう20%に達しているそうだ。葬式に要する費用はしめて10万円から30万円程度。諸般の経済事情、社会や宗教観の変化、もろもろの変化が葬式にも変化をもたらしているわけだ。
昨年だったか、一昨年だったか、映画「おくりびと」にはすごく感動した。
やがてやってくる自分の終末をじっくり考えてみなければならない。

加齢臭ー異様な嗅覚ー

最近「加齢臭」のコマーシャルが気になる。
ひとつは、本当にそんな匂いがあって、自分もそんな体臭を放ち、周りの人たちに不快な思いをさせているんだろうかという懸念。
もうひとつは、またまた売らんがための新しい商品開発とその宣伝攻勢ではなかろうか、「こんちくしょう」という腹立たしさ。
概して「匂い」にこんなに敏感になってきたのもこの時代の特徴だ。
環境汚染から発する悪臭、密集した住宅環境からもたらされる生活臭、ラッシュアワーで込み合った車内の独特な異臭、これらは確かにこの時代の産物だ。
それを反映したのか、気になるのは、人どうしが異常に「匂い」に敏感になっていることだ。
生徒に聞いてみると、友人が一日お風呂に入らなかったらわかるというから、いいのか悪いのか、まるで犬のような嗅覚だ。
一人の生徒なんか、一日何回もシャワーを浴びたり、お風呂に入るという。自分自身でも匂うし、人に感づかれたくないからだそうだ。
そして、女性がある程度「匂い」に敏感なのはわからなくもないが、男性が女性に劣らず「匂い」に敏感で、その対策に腐心しているというから、我々、いや僕からはなんとも異様としか感じられない。
いろんな要因が考えられる。
「匂い」という尖鋭な感覚がクローズアップされるほど、ある意味生活が豊かになり、悪く言えば「ヒマ」になり、そんなことに構ってなどいられないという時代とは違ってきたということ。
人と人の関係がデリケートになり、外見やまして内面的なことよりは、動物的な感覚で人を嗅ぎわけるほうが同調しやすい、ということではなかろうかと想像する。
「加齢臭」もそうした時代の流れから生まれた「匂い」であることは間違いない。
そもそも体臭というものは、分泌活動から発するもので、若い人ほど発散しやすいし、年をとれば当然衰えてきて、その手の匂いは少なくなるはずだ。
古いお寺や古書には独特な匂いがあるが、そんな匂いが「加齢臭」なのだろう。
調べてみたら、例の「資生堂」がその匂いを分析、特定し、「加齢臭」と命名したという。
それはそれでひとつの研究成果だと評価したいが、まるで鬼の首でも取ったように、やれ「加齢臭」だ、それにはこんな防臭薬だと、たとえ老人が嫌がられないようにという老婆心からであったにしても、ぼくなんかの様なひねくれ者には、「こんちくしょう」としか思われない。
でもやっぱし、人からは嫌がられたくないし、ホントにそんな匂いがするんかなァ???
 
 

優先座席は生きているの?

 
 大阪の地下鉄谷町線で帰宅途中、天満橋駅に着くとたくさんの小学生が乗ってきた。ランドセルに「追手門」と刻印してある。追手門学院の小学生たちだ。
 初めはその程度の気の留め方だったが、ひと駅過ぎ、ふた駅過ぎて、徐々にお客も減り、空席が目立ってきたのにその小学生達の誰一人として席に座る者がいない。
 小さい小学1年生くらいの生徒から女子生徒まで、大きなランドセルをしょい、手に補助カバンを持っている生徒も、全員が突っ立っている。
 あれっ、これは学校の指示なのかなと思い、6年生くらいの生徒に尋ねてみると、やはり、学校の登下校時に、電車の座席には座らないよう指示されているそうだ。
 心から快哉を叫ぶ思いだ。
 学校の意図はわからない。足腰を鍛えるための指示なのか、優先座席も何もあったものではない昨今の乗客マナーを身に付けさせないための教育的意図によるものなのか。
 どちらでもいいし、どちらも子供たちにとって大切なことだ。
 他の学校はどうなんだろう。電車にはあまり乗らないのでその辺りの事情はよくわからないが、込み合った電車で、お年寄りが近くに立っていても全く気にも留めず、優先座席に座って携帯電話やゲーム機でピコピコしている高校生や大学生と思しきやからを見かけることがよくある。
 さればと言って、この高校生や大学生も、人を思いやる心がないとは断言できない。そこまで気が回らないし、関心が行かないだけのことで、言ってやれば、きっとこの学生たちも済まない思いで快く席を譲るかもしれないし、そう思いたい。今の世の中、いい意味にも悪い意味にもお互いに無関心すぎるからなのだろう。
 どうだろう、いっそのこと、学生は全員、電車では座席に座らないということにすれば、学生たちにとっても良い教育になるし、それだけでも世の中、ひとつ浄化されることになるんではなかろうかと、
 ふと、今日出会った小学生達から考えさせられたことでした。